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町作りの努力を無にするな イージス・アショアに反対する阿武町を取材

 陸上自衛隊むつみ演習場へのイージス・アショア配備計画が進む萩市、隣接する阿武町で、地元住民から計画に対する強い反対の声が上がっている。とくにむつみ演習場からもっとも近い阿武町福賀地区(宇生賀、福田)の住民のなかでは、これまで苦労して築き上げてきた豊かな農地や暮らしを破壊されることへの反発は強いものがある。平成の大合併を拒否し、単独町政を選択した同町は、日本創成会議に「消滅可能性都市」とまでいわれたが、町民の地道な努力によって、県内で唯一人口減少を食い止めつつある町でもある。町民がどのように農業や漁業、町づくりにとりくみ、どのような思いでイージス・アショア配備に反対しているのか取材した。

 

奥に見える山の裏側にむつみ演習場がある。手前は稲穂が実る阿武町宇生賀地区

 イージス・アショアの配備候補地にあげられた陸上自衛隊むつみ演習場は、萩市に合併したむつみ地区(旧阿武郡むつみ村)にある。ここは戦後、村有未開墾地を農林省(当時)が買収し、国有開拓地として開拓農家が入植していた土地だ。昭和22年度の第1陣は遠く山梨県から入植し、その大部分が満州からの引き揚げ者だった。しかし開拓事業の困難さに耐えかねて12戸のうち1戸を除き、1年あまりでみな離農していった。その後、昭和26年度から入植したのは、東富士演習場設置によって開拓農地を追われた人人だった。

 

 第2陣の開拓農家の人人は、他の開拓地に先んじて大型農具を入れ、一時は県下一ともいわれたが、この地域は高冷干ばつの常習地域であり、台風の通路でもあった。国有地からの払い下げが始まった昭和28年から災害が3年続き、開拓農家の負債はふくれ上がった。そのうえに昭和31年の台風9号、12号が経済的窮乏に喘いでいる開拓農家に致命的な被害を与え、将来への希望を失わせることになった。

 

 おりから、秋吉台で自衛隊演習場誘致に反対する運動が起こり、むつみ村が次の候補地となった。当時の村長・村議会が「開拓農家の窮状を救うにはこれしかない」と判断し、地元村民の反対もあるなかで自衛隊に土地を売却。開拓民の借金返済に加え、再出発の資金とした。それが約60年前、昭和35年ごろのことだ。

 

 むつみ村高俣地区出身の女性は、「小学校の頃、開拓農家の同級生もたくさんいた。優秀な人も多かったが、農業に向かない土地で水もなく、開拓農家は貧しかった。自衛隊の演習場にすることに地元で反対運動も起こったが、当時の村長が“この人たちを救うのが先だ”と農地を売却し、借金返済と少しの持参金を持たせて新天地に送り出した」と話す。行き先が決まった人から引っ越して行く。小学校で毎日毎日お別れ会が開かれ、同級生たちがとぼとぼと教室を出て行った姿とともに、演習場ができ、自衛隊車両が村の中を走り始めたとき、「また戦争になるのではないか」という不安を子ども心に抱いたことを、イージス・アショアの話が浮上してから鮮明に思い起こしたという。

 

農漁業振興で人口増へ きめ細かな子育て支援

 

 イージス・アショア配備地は、行政区としては萩市だが、もっとも近いのは山を隔てて隣接する阿武町福賀地区だ。また、北朝鮮からのミサイル防衛といったとき、レーダーは日本海に面した阿武町側を向くことになり、むつみ演習場を扇の要とした三角形の中に町全体がすっぽり入るといわれている。「長い年月をかけて町の基盤をつくりあげてきて、今からというときにガンを宣告されたようなものだ」「安全でおいしい野菜や豆腐、美しい故郷にするために一生懸命努力してきた」「故郷を今のまま子どもや孫に残したい」と、町民のなかでは語られている。

 

 阿武町は2005年、平成の大合併のさいに萩市への吸収合併を拒否し、単独町政を選択した。それまでの町村合併の弊害を目の当たりにしてきたからだ。小泉政府が三位一体改革を進めるなかで、人口4000人ほど(当時)の町も地方交付税交付金の削減で財政的な厳しさに直面したが、歳出削減のために助役や収入役を不在とし、議員報酬も一時は53%減の月額9万円にするなどして乗りこえてきた。そして10年後、20年後を見据えて、農漁業の振興やIターン・Uターンなど移住者の定住策をうち出し続けてきた。

 

 町役場の職員は、「自然減を止めることはできないが、社会減を止めることを目指してきた」と話す。町内に不動産業者がないため、2007年には町が空き家バンクを設立して、移住希望者に対する空き家の貸出や売却の手助けを開始。これまでに空き家バンクを通じて245人が移住し、社会減は2010年頃からゼロに近づいている。

 

 新規就農者やニューフィッシャー、道の駅の従業員など、徐徐に移住者や子育て世代が増えてきたことから、2年前には新たに町営住宅を建設した。現在も中心地の奈古地区にある阿武小学校前の田を町が買収して分譲宅地を29区画整備しており、10月に売り出すことになっている。

 

 また子育て対策として、山口県の未就学児の医療費無償化制度を拡充し、2015年に中学校卒業まで、2017年には高校卒業まで医療費の無料化をおこなった。さらに住宅取得補助金、移住奨励金や出産祝い金、結婚祝い金の拡充などの定住促進策をはじめ、母親たちが働きやすい環境を整えるため、今年度から町内にある公立保育園の預かり時間を午前7時30分~午後6時30分まで30分間延長、土曜日も半日保育から1日保育へと延長した。

 

 同町の基幹産業は農業と漁業だ。全国第1号の「道の駅阿武町」は生産と商業をつなぐ一つのセンターになっており、新鮮な魚や野菜、加工品などの特産物が並ぶ。とくに人気なのが新鮮で安い鮮魚だ。その日の朝に水揚げしたサバやアジなどをパック詰めし、4匹200~300円と格安で提供しており、多くの買い物客がこの鮮魚を目当てに来店し、午前中は行列ができるほどだ。

 

道の駅阿武町には格安で新鮮な魚を求めて行列ができる

 それらの魚を獲ってくるのは宇田郷地区の漁師たちだ。この地区では昔から定置網や一本釣り、海士漁が盛んだったが、後継者がおらず一度は村張りでおこなっていた定置網を解散した。だが約10年前に「定置網で宇田郷を活性化しよう」と地元の有志で定置網漁業を再開。2年前からは国の「もうかる漁業」事業を活用して「株式会社宇田郷定置網」を立ち上げ、新船や網を新たに購入した。現在、秋田や広島、熊本、県内から20~50代の新たな担い手を受け入れ、地元の漁師も含めて13人の漁師が社員として働いている。水揚げの多くは萩の卸売市場に出荷し、そのうち一部を「道の駅阿武町」で販売している。多いときではハマチが一度に1500箱ほど捕れるときもあり、早朝の漁港は水揚げした魚を選別し、出荷作業に精を出す漁師で活気づいている。

 

 漁労長で代表取締役の廣石芳郎氏は、「若い人に受け継いでいきたい。今後は市場に出せない魚の加工など新しいとりくみも視野に入れている。そうすれば地元に新たな雇用も生まれる」と語る。

 

 熊本出身で10年前に家族で移住してきた50代の男性は、「以前から漁師になりたいという思いを持っていた。10年前に3回ほど阿武町を見学し、定置網漁業で宇田郷を活性化しようという地元の人の思いを聞き、ぜひ一緒にやりたい、お手伝いしたいと思って移住を決めた。家族持ちの漁師のための住居を建ててくれたり、子どもの医療費は無料にするなど行政のバックアップもありがたい」と語っていた。

 

宇田郷定置網の水揚げ。早朝の港は選別作業で活気づく(8月26日)

 農業の方も、町内には7つの農事組合法人が組織されており、とくに福賀地区は4つの農事組合法人が、地域内約400㌶のうち約300㌶と大半の農地を集約して営農をおこなっている。各法人の女性部の活動も活発で、豆腐やおこわ、焼き菓子や、県内一の生産量であるキウイのジャムを商品化するなどして道の駅で販売している。

 

全国一大豆で豆腐作り「うもれ木の郷」

 

名前の由来となったうもれ木。ほ場整備の時にトラック3000台分出てきた。

 そのなかの一つに、配備地にもっとも近い宇生賀地区の農家でつくる農事組合法人「うもれ木の郷」がある。この地区は、なだらかな山麓に囲まれた標高400㍍に近い盆地だ。中央に広広とした農地が広がり、ちょうど今の時期は収穫前の色づいたイネが黄金色に輝いている。地区を囲む山のうち、西台と呼ばれる山の裏側に、地区面積のほぼ倍に当たる約200㌶のむつみ演習場がある。イージス・アショアはそのうち半分の面積を使って配備される予定だ。

 

 同地区は1997年、ほ場整備事業を機に、全国に先駆けて農事組合法人「うもれ木の郷」を設立した。高齢化と後継者不足のなかで、「地域の農地は地域で守る」ことを掲げ、現在は地区内の耕地面積のおよそ9割に当たる91㌶で水稲、大豆、スイカ、ハクサイ、ホウレンソウ、ナシなどを栽培している。堆肥とボカシを使用し、一株一果穫りで甘さとシャリ感を追求した福賀スイカの生産地でもある。最近では新たな作物として薬草の栽培(薬草パウダーに加工)にも挑戦し始めたところだ。

 

 法人設立と同時に立ち上げた女性組織「四つ葉サークル」(会員数53人、実動部隊30人あまり)も、法人の女房役として生産・環境・加工・交流の4つの目標を掲げて活躍している。自分たちでつくった安心安全な野菜を地元の高齢者福祉施設や学校給食に出したり、2000年からは法人でつくる大豆を使った豆腐づくりにとりくみ始めた。法人の大豆が収量・品質で全国一になったのがきっかけだ。翌01年に商品化し、現在は火曜日と木曜日の週2回、夕方から豆腐をつくり、一丁250円で道の駅で販売しているほか、宇生賀地区内には一丁220円で届けている。定期的に豆腐を届けることで高齢者の安否を気遣ったり、コミュニケーションをとる手段にもなっているという。

 

四つ葉サークルの豆腐づくり(阿武町宇生賀地区)

豆腐を地域の住民に配達。コミュニティ作りにもつながっている。

 四つ葉サークル2代目会長の原スミ子氏は、「一から豆腐のつくり方を研究して豆腐づくりを始めた。70円の豆腐もあるなかで、250円はちょっと高いが、地域の人も今では“この豆腐でないと食べられない”といってくれる。四つ葉サークルができるまでは他の集落の人との交流もなかったが、だんだん協力体制ができてきて、宇生賀を活性化するために一生懸命とりくんできた」と話す。

 

 うもれ木の郷の設立趣旨は、地域の農地は地域で守ること、地域住民の暮らしを豊かにし、活性化させることだ。利益を追求する法人ではないので、法人の活動で得た利益は可能なかぎり組合員に還元している。農地の貸借料も最近まで10㌃当たり3万6500円と、全国的に見ても最高水準の金額を還元しており、米価の下落や戸別保障制度の廃止などで収入が減った現在も、同1万8000円を組合員に支払っている。

 

 また、スイカやホウレンソウなどの作物は独立採算方式をとり、担当する農家が努力した分が収入になるような仕組みも工夫してつくってきた。東日本大震災を機に家族とともに同地区に移住し、農家でのアルバイトをへて独立し、ホウレンソウをつくっている人もいる。

 

 移住者の男性は「法人の長から、農地を守れるならばコメをやめてここ一面にハウスを建ててもいいといわれた。それほど農地を守るために必死でやっていることを知り法人にも入っている。この地の可能性は無限大だ。ホウレンソウもようやく軌道に乗り出した。今から子どもが中学・高校に上がってお金も必要になるので、本腰を入れてやろうかと思っているところだ」と話した。息子が大ケガをして大学病院に3カ月入院したときも医療費が全額無料だったといい、町の子育て支援策も助かっているという。

 

 高齢化が進む地域ではどこも耕作放棄地の拡大が問題になっているが、この地域に耕作放棄地はほぼない。広大な平野があるはずの北海道から視察に訪れた農業者が、「これほど農業に適した土地はない」と驚くほど豊かな地域になっている。2010年度には「豊かなむらづくり全国表彰」農林水産大臣賞を受賞するなど、全国的にも注目されてきた。

 

沼地開墾してきた歴史 先人達の長年の苦労

 

 しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

 

大正時代におこなった耕地整理(宇生賀)

 宇生賀盆地は、新生代の火山噴火によって堰き止められた湖に湖成層が堆積してできたといわれ、約4000年前にソバが栽培された跡が発見されるなど、農地としての歴史は長い。だが、土壌が底の深い沼地であったため、「嫁にやるなよ宇生賀の里に」という諺があるほど、稲作は他の地域と比べても数倍の重労働であった。地区内に完全な道路・水路がないために牛馬車を使うこともできず、一足ごとに腰まで埋まるような泥沼のなか、肥料や収穫物はみな人の肩によって運搬されていたこと、竹を浮かべてその上に乗って作業をしていたことなど、明治末期頃の困難な様子が記録されている。

 

 大正期に県営ほ場整備事業のなかで、みずからの力で耕地整理をおこない、道路や水路を整備したことで農業生産は飛躍的に向上した。その後も沼地という悪条件のなかで、先人たちはそれを一つ一つ克服しながら農業を営んできたという。しかし、1970年に減反政策が始まる。湿地である宇生賀地区では転作が不可能だったため、減反補助金を得ることもできず、農家の経営は厳しくなっていった。

 

 そうしたなか、1990年に有志が集って「明日の宇生賀を考える会」を発足し、地区の見直しと再生の方向について検討を始めた。減反面積の増加と米価の低迷など、農業をとりまく状況が厳しさを増すなかで、4集落が話しあいを重ね、「将来に向けて、水稲をつくりながら隣では野菜作ができる農地を作ることこそが宇生賀の生き残れる道だ」という結論に達したという。盆地をとり囲むようにある4集落を一農場にするうえで、4年近くかけて300回にわたる話しあいを重ねた。

 

 当初からかかわってきた男性は「沼地で畑作ができない宇生賀地区では水稲で家族を養うしかなかったが、水がなかった。今のように豊かになるとお互いに分けあうこともできるが、昔は家族を養うために水ゲンカが絶えなかった。だが、ボーリングをすると無尽蔵に水があることがわかり、各農家がボーリングをして水を確保するようになっていた。お金をかけてボーリングしたばかりの家もあったが、“水をみんなのために使おう”と、意識を一致させ、ため池や湧き水も含め、農家にとって一番大事な水利権をすべて放棄してもらった」と話した。

 

 そのことが、その後、地域全体が結束する糧にもなったという。

 

 厳しい環境であるからこそ、「毎年同じことをしていては衰退する」「動き続けなければ死んでしまう」という意識が同町の町づくりにかかわる人たちの根底にある。常に新しいことに挑戦し続けながら、20年をかけて地域を子や孫にひき継いでいく農業の基盤を築いてきた。ようやくこれから、農業だけでなく、地域の担い手となる人材を受け入れ、育てていこうという段階に入った矢先に持ち上がったのがイージス・アショアの配備計画だった。

 

真先に反対した女性達 町全体に行動の機運

 

 真っ先に反対の声を上げたのが四つ葉サークルの女性たちだ。レーダーの電磁波による被害だけでなく、先人たちが命がけで守ってきた地域が、有事のさいに標的となる可能性に対し、「子や孫のために守ってきた美しい宇生賀の地で平穏に暮らしてゆきたい」と、花田町長に対し申し入れをおこなった。その動きを受けて、福賀地区の16自治会・4農事組合法人も連名で申し入れをおこなうなど、町全体で反対の機運が高まっている。女性が声を上げるのは勇気のいることだったが、「これだけは黙って通すことはできない」との思いを、四つ葉サークルの女性たちは語っている。

 

阿武町長に申し入れる阿武町福賀地区宇生賀の農事組合法人の女性部

 むつみ演習場のすぐ近くでハクサイを栽培する農業者は、「計画が持ち上がったとき、なにかしなければと逡巡しているときに、宇生賀の四つ葉サークルの女性たちが反対の声を上げたことで励まされた」と話す。30年前から、ハクサイの産地である長野県まで何度も通って研究を重ね、町から土地を購入して開墾してきた。今は年間1万5000ケースを出荷している。農業を志す若い人たちが来たときのために、今も土地を開墾しているという。演習場の周囲には阿武町の特産品でもある無角和牛の放牧地もある。「イージス・アショアが配備されれば農業をやめざるを得ないと考えている。ここまで築いてきた農業を6年後にはやめざるを得ないと思うと、やるせない。農業を継いでいる息子、孫たちも“じいちゃん、絶対反対して”と強くいっている。“あのときもう少し声を上げておけばよかった”という思いはしたくない。なぜわれわれがアメリカの盾にならないといけないのか。命をかけてでもこの地を守りたい」と話した。

 

 20数年前に阿武町に戻った現役世代の農業者は、「なぜここに配備なのかという思いだ。現役世代は少ないが、次の世代にバトンを渡していかないといけないという気持ちは強い。イージス・アショアは前例がないので、どんなことが起こるか想像もつかない」と語った。

 

 現役世代の母親は「日本のために、イージス・アショアのような過剰防衛は必要ないと思う。こんな小さな町の中が賛成・反対で2つに割れるようなことにはなってほしくない。今は夏休みで農繁期でもあるので、親同士が顔を合わせることはあまりないが、この話題についてどことなく避けているような空気もある。だが、電話で他地区のお母さんと話したときに、“あんなものは絶対反対してね”といわれる方もいた。これは政党・思想・宗教など関係なく、みんなが一つになって声を上げないといけないのではないか」と思いを語った。

 

農業組合法人「うもれ木の郷」の田植え作業

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