高杉晋作と奇兵隊士が眠る下関市吉田の東行庵・東行記念館で戦時中から80年以上にわたって守り続けられてきた高杉晋作史料をめぐって、高杉家から69点は萩市に、158点は下関市に寄贈すると突然記者会見で発表された。14日には東行記念館で「寄贈並びに披露式」がおこなわれた。これに対して、地元吉田の関係者は「ずっと吉田で守ってきたのに。涙が出るようだ」といい、下関市内では「いったいどういうことになっているのか」と驚きの声があがっている。今年1月の最高裁の上告棄却で、萩市にある高杉史料69点の返還は認められなかったが「東行庵に残された高杉史料は200点近くあり、今後も下関市民、山口県民、全国の晋作ファンとともに、高杉晋作の偉業を後世に語り継ぐ顕彰に努める」(東行庵兼務住職・松野實應氏)と決意した矢先のことであった。10年前の2003年、一坂太郎氏が萩市の野村市長と示しあわせて高杉史料を突然強奪したことが改めて思い起こされ、「東行庵にあってこそ高杉史料は生きる」「中尾市長は新博物館に持っていくつもりではないか。東行記念館を整備し、市内の子どもたちや全国からの参観者が学べるように行政として尽力すべきだ」と強い思いが噴き出している。
“今こそ高杉精神を” 全市的な世論高揚
高杉史料が下関市に寄贈となるまでの経過について、関係者が以下の事実を明らかにした。
裁判終了後の2月、東行庵世話人会では、150年近く深い関係を続けてきた高杉家とは1日も早く関係を修復したいとし、今年の東行忌に招待するため、松野氏が高杉家を訪問した。
3月、下関市文化財保護課の町田課長らが「市長訪問の露払い」として高杉家を訪問。その後東行庵側に対し、「高杉勝氏は東行庵に激怒している。高杉家から、史料の69点は萩市に寄贈した158点は下関市に寄贈したい、もし早急に結論が出ないならそれも萩市に寄贈する、東行庵への寄贈は考えていないといわれた」と、東行庵と高杉家の対立を強調して報告した。東行庵側は、「高杉勝氏は被害者であり本当に悪いのは別の人間だ」として、高杉家とは友好関係を深めながら時間をかけてこの間の経緯を説明したい、158点を東行庵を除外して下関市か萩市のいずれかに寄贈することは断じて認められない、とした。
しかし中尾市長、波佐間教育長、町田課長は3月17日に高杉家を訪問し、下関市への寄贈申請書を交わした(日付は未記入)うえ、中尾市長が東行庵側に「いつまでも日付を記入しないわけにいかない。遺品を萩にやるわけにはいかない」「今から5年間は下関市は幕末・維新でいく。遺品問題を早急に決着しなければ、各事業に様々な支障が出る」「早急に決着しなければ高杉家は東行忌にも来れない」とたたみかけた。30日に開かれた東行庵世話人会では、冒頭、弁護士が「158点について訴訟をおこしても勝ち目はない」とクギを刺し、「他への寄贈は体をはってでも阻止する」といっていた世話人らに対し、中尾市長らが強引に市への寄贈を認めさせた。14日の寄贈式までは一切口外するなと、かん口令を敷いたことも異常であった。
事実を知った吉田の人人のなかでは、「一坂が高杉さんの遺品を持ち出したとき、萩に新博物館ができるということで、そこへ持っていった。今度は市の管理になるというが、長府に新博物館ができるというし、今度はそこへ持ち出すのではないか」「高杉さんや奇兵隊の墓がある吉田に遺品があってこそ意味がある。地元ではこの何十年もの間、今は亡くなった人たちも含めて、高杉さんを慕い、史料の保管や東行庵の清掃、毎年植え替える菖蒲の手入れをはじめとして、みんなが無償の奉仕をやってきた」「中尾市長は下関の市長なら、なぜ萩に“史料を返してくれ”といわないのか。東行記念館を改築して、全国から観光バスを引き入れ、市内の子どもたちも学べるようにして、業績を受け継ぐべきだ」と口口に語られている。
03年の強奪事件を想起 県やメディアも関係
明治維新顕彰に欠かせない高杉晋作の史料をめぐる問題で、地元の人人や下関市民に説明して納得を得ることもせぬまま強引に事を進める下関市のやり方は人人に003年の高杉史料強奪事件を思い起こさせている。
2003年2月1日、東行庵から突如として高杉史料240点が強奪された。当時東行記念館の副館長であり学芸員だった一坂太郎氏は、その前から独断で持ち出す史料を選別し荷造りをしていた。そして持ち出しの2日後には萩市の野村市長が、高杉史料を一坂氏と一緒に萩に受け入れると発表。翌年11月にオープンした萩博物館におさまった。野村市長があらかじめ一坂氏と示しあわせ、東行庵の責任役員には知らせないまま、抜き打ち的に高杉史料の泥棒をやってのけたのである。この陰謀を隠蔽するために、「東行庵の管理が悪い」と攻撃し、高杉勝氏と東行庵を対立させるように意図的に仕向け、世間を欺いたのである。
13日の萩市での記者会見で野村市長は、「東行庵が高杉家と遺品の所有権を争うなどとんでもないこと。萩市では考えられない」「一坂さんも東行庵から追放されたが、萩に来て彼の名誉は回復した」とのべたが、それ自体盗人たけだけしい態度といわねばならない。
以上の事実は07年3月、東行庵から解雇された一坂氏の損害賠償請求を棄却した、山口地裁下関支部の判決のなかで明らかになっている。判決を通じて、03年1月下旬、萩市が史料搬出の業者として日通防府支店を押さえ、東行庵から搬送することを一坂氏とうちあわせていたこと、当時『朝日』『山口』が史料は東京の高杉家が一旦引きとると報道したが、史料ははじめから東京になど行かず、日通防府支店の美術倉庫に搬送され、5月4日になって萩市に運び込まれたこと、梱包・輸送作業費も萩市が支払ったこと、しかし萩市は7月31日の記者発表で「7月27日に高杉史料が高杉家から萩市へ搬送された」とウソの発表をしたことが明らかになった。
一方下関市の江島市長(当時)も、史料が強奪された直後、「史料は(東行庵でなく)下関の新博物館に」と発言したり、「史料を東行庵に戻せ」という下関市民の署名10万人分が集まっても、史料返還を求める行動はいっさい起こさなかった。そればかりか同年3月6日に野村市長が「県外流出を阻止した」といって高杉史料の正式寄託を発表すると、同じ日、江島市長は即座にこれを認める記者会見をおこなった。関係者からは「数年前に密約があった」という証言もある。
悪質なのが『朝日』『山口』などの商業マスコミで、史料強奪直後には「管理が悪い」と頭から東行庵側を攻撃し、記者会見をまるで集団的な糾弾大会のようにしてしまい、高齢の東行庵兼務住職・江村深教氏を心労のための死に追いやるなど、史料を強奪した側の応援に一貫して動いた。
これには当時の二井県政も深くかかわっていた。一坂氏が東行庵を相手に起こした裁判では二井知事の選挙後援会で功労を上げて県公安委員長になった末永弁護士をはじめ4人の弁護士がついた。この時期二井県政は、萩市に県立の明治維新館を建設する計画を進めておりその基本構想懇話会には一坂氏や野村氏とともにハーバード大卒のアメリカ人教授も加わって、明治維新史の見直しをおこなおうとしていた。
しかし県民世論が高まるなかで、08年6月になって高杉勝氏から東行庵兼務住職・松野實應氏に、萩にある高杉史料のすべてを東行庵に返還する旨の委任状が届き、地元吉田をはじめ市民の大きな喜びとなった。ところが直後に野村市長が異議を唱え、09年1月、高杉史料158点が東行庵に返還されたが、残りの六九点は萩市が引き続き管理すると一方的に発表した。東行庵や吉田の意向を排除する形で、下関市と萩市が話をつけたのである。そこから東行庵は、萩市と高杉家を相手に、史料の返還を求める訴訟に踏み切った。
2010年6月、今度は下関市が東行記念館の2階を管理するようになったとたん、高杉史料が展示室から消えて人人を驚かせた。市の側が「裁判が終わるまで展示しない」といい、それまで掲示していた高杉の年表や漢詩のパネルもお蔵入りとしたのである。このとき市の担当者は「高杉評価の見直しをする」といって、内容の改ざんに踏み込む大それた発言をして問題になった。また、下関市が、NHKの大河ドラマにあやかって「龍馬」を騒ぐが、これまで高杉をまともに顕彰したことがないことも市民は批判している。
正当な高杉顕彰を切望 東行記念館整備し
こうした一連の事態を経験して、「これは高杉家云々の範疇ではなく、バックで大きな力が動いている」という実感となっている。つまり高杉史料をめぐっては、下関がいいか萩がいいかという問題をこえて、明治維新革命の指導者であり百姓、町人とともに討幕と民族独立を成し遂げた高杉晋作の業績を抹殺しようとする、県民の父祖たちを冒涜する流れのなかで問題が引き起こされている。
一坂氏は、彦島割譲を拒否した高杉の講和談判は「作り話」と主張したり、「松陰や高杉などの偉人伝は中央でつくられたものでどうでもよい」「本物の歴史は敗者(徳川幕府や俗論派)のなかにある」と書いてきたが、この間の高杉史料をめぐる混乱は、このような明治維新の正当な顕彰に反対する部分が意図的に仕組んできたものである。下関市と萩市が執ようなまでに東行庵に高杉史料を返還させないことは、異常というほかない。とくに本来なら東行庵に返還するよう働きかける立場にある中尾市長が、東行庵の努力に水をかけていることは、広範な市民によって追及されねばならない。
14日は高杉晋作の命日であったが、吉田で開かれた東行忌も、新地の高杉晋作終焉の地で開かれた碑前祭も、全国からの参加者を含めあわせて600人近くに上るなど、かつてない盛り上がりとなった。「今こそ高杉のような生き方を」という世論が高まっている。
吉田の人人は「萩が泥棒したことははっきりしているのだから、最高裁まで行けば正義が通るはずだと皆が信じ込んでいた。それが今頃は、裁判官まで骨抜きではないか」「今日本はアメリカの思い通りにされ、まるで植民地になっている。政治家は私利私欲にまみれ、教育は崩され、国がつぶれかかっている。高杉さんは上海に行って日本をあのような植民地にしてはいけないといって、講和談判では彦島を渡さなかった。今こそこういう政治家が必要だ。子どもにもその業績を教えるべきだ」と語っている。
現在、「平成の開国」といってTPPに見られる不平等条約を押し付けられ、農漁業の全面破壊、商店なぎ倒し、企業の海外移転が進み、働く場は失われ、はてはアメリカのたくらむ原水爆戦争の戦場にされようとしているなかで、高杉と明治維新革命の正当な顕彰が切望されている。高杉とともに奇兵隊や諸隊に参加し、外国に屈従する徳川幕府を打倒して欧米の植民地化の道を拒否し、独立した近代統一国家を実現するために命をかけた父祖たちの誇りを蘇らせることは、現在の行き詰まった日本社会の根本変革への展望を与えるものである。明治維新と高杉への冒涜を許さず、維新革命の最大拠点となった下関で、奇兵隊の本陣がおかれた吉田の東行記念館の整備、あわせて下関市内のさまざまな史跡の整備を行政におこなわせなければならない。市民のなかの機運は高まっている。