上関原発建設計画の準備工事が妨害されたとして中電が祝島の島民ら4人に対して3900万円(もともとの請求額は4790万円だった)の損害賠償を求めていた訴訟が和解となった。①中電は賠償を求めない、②工事が再開された場合に被告は工事を妨害しない、③しかし反対運動は制限されないーー等等の内容で、中電が仕掛けたスラップ(恫喝)訴訟は見事な失敗に終わった。反対運動を抑え込み、萎縮させるために何年にもわたって祝島の島民たちに精神的、経済的なダメージを与えてきたが、1円たりとも損害賠償の正当性は認められなかったのである。
祝島にとって実質勝訴ともいえる和解をもたらした最大の根拠は、祝島が漁業補償金を受けとっておらず、漁業権問題が妥結に至っていないことである。仮に漁協支店総会において漁業権放棄の3分の2合意をとり、書面同意していたなら、漁業権を喪失している祝島に工事を阻止する資格などなく、損害賠償を請求されても仕方がなかったかもしれない。しかし、粘り強いたたかいによって海を売り飛ばしていなかった。漁業権を脅かし、勝手に準備工事にかかる中電を食い止めることは、漁業者なり島民側にとっては妨害排除請求権を行使している関係で、むしろ中電の準備工事に法的な正当性がないという関係であった。
県知事の公有水面埋立許可は出ているのに、事業者が工事にとりかかることができない。このような事態に直面しているのは上関だけで、全国的には他に例がない。本来、公有水面埋立許可は関係漁協すべての同意を前提にして出されるものなのに、祝島の漁業権放棄の同意を後回しにして、二井元知事が先走って許可したから今日のようなねじれ現象が起こっているのである。中電は許可から1年以内に着工するなり何らかの素振りをしなければ許可がとり消しになることから、1年目にはブイを浮かべ、2年目以後は「準備工事」にとりかかるようなパフォーマンスをやっていた。しかし、その間に漁業権問題にケリをつけるはずだった県漁協や県当局の目論見はことごとく失敗し、祝島がしぶとく補償金受けとりを拒否するため、埋立を実行する法的な整合性がとれなかった。仮に強行すれば漁業権侵害行為で訴えられるのは中電という関係であった。したがって、いかにも工事をするかのような大がかりな芝居を夏前になると年中行事のようにくり返し、「祝島が阻止行動をするからできなかった…」といって時間を稼いでいた。
漁業権放棄が完了していない海において、埋立に踏み込めないことをわかっていて「準備工事」もどきに及んで阻止行動を過熱させ、「妨害された!」と訴える行為は、おとり捜査によって犯罪者を仕立て上げるのと似ている。それでふっかける金額が大きければ大きいほど意味をなすのが恫喝訴訟である。通常は一般人が大企業を相手にした場合、金額の巨額さに飛び上がってしまい、「もう二度と抵抗しません」と約束し、あつものに懲りてなますを吹くのが関の山である。しかし、祝島側が屈服せずに全面的に立ち向かい、その正当性を堂堂と主張し貫くことで撃退した。中電による恫喝訴訟の失敗は、金銭がどうなったか以上に、祝島が屈服しなかったということに最大の意味がある。
安倍政府になってから、配下の村岡県知事が懲りずに公有水面埋立許可を出したが、一連の権利関係は何ら変わっていない。上関原発を推進する勢力にとって最大の支障になっているのは、引き続き祝島の漁業権問題である。いかにして祝島の漁師一人一人を引っこ抜いていくか、内部に配置した裏切り者を使って島民を分断し、反対運動をぶっつぶしていくか、水面下の攻防は引き続き激烈である。島内の矛盾はこの30年来、いつもそうした島外の司令部から加わる力を背景にして起こってきた。このなかで金銭的、精神的に追い込んでくるのをはね除けながら島民全体の絆を守り、進んでいくことは少少ではないが、30年を水の泡にしてたまるか!瀬戸内を第二の福島にしてたまるか! という思いを胸に最前線のたたかいは続いている。
福島であれほどの原発事故を引き起こしていながら、同じことが起きても構わぬという為政者の神経は尋常ではない。熊本地震との関連も指摘されている中央構造線断層帯を挟んで伊方原発を再稼働し、対岸の上関に新規立地をはかるという無謀なる国策に対して、上関現地だけでなく全県、全瀬戸内海沿岸の世論と運動を強めて阻止することが求められている。政府が独占大企業や多国籍企業の下請機関に成り下がり、なににつけても後は野となれで国民生活をないがしろにしていくなかにあって、大衆的な力をつなげ、連帯、団結した世論と運動を強烈なものにしていくことによってしか、その生命や安全は守ることができない。
カネに物をいわせて襲いかかる者に対して、決して屈服しなかった姿勢が広く共感を呼んでいる。