高杉晋作と奇兵隊士が眠る下関市吉田の東行庵にある東行記念館から突如として高杉史料が持ち出されて閉館され、東行庵が墓だけの閑散としたものになってしまう問題は、日本の近代史の重大な汚点になる問題として、下関市民を中心に再開を求める熱気に帯びた世論がまき起こっている。それは人人のなかで、高杉晋作と明治維新にたいする誇りの思いがいかに深いものであるかをものがたっている。それはまた戦後五八年たった世相のなかで、いかに民族としての背骨がぬかれてきたか、それをとりもどすことがいかに大事かという思いと重なっている。
今回の高杉史料持ち出し、東行記念館閉館という問題は、さまざまな私的利害がからんで高杉晋作と明治維新をないがしろにし、冒涜(とく)する側から仕組まれたことは明らかである。この問題は直接には特定の東行庵関係者のなかから起きたが、東行庵に関係するものならば、いかなる場合も高杉史料を守り、記念館を守ることが、高杉と奇兵隊士また東行庵を守ってきた吉田、下関、山口県民にたいする任務であり、諸問題はその目的に従属させて解決されなければならないことは明らかである。
今回の東行記念館をつぶす問題は、きわめて陰謀じみており、さまざまに複雑な様相をもっているが、東行庵の外側からさまざまな利害を優先した高杉を冒涜する力が働き、それが内部の一部関係者の利害とからみついてひき起こされたことは疑いない。
明らかになってきた事実は、曹洞宗関係者のなかで功山寺の住職をめぐるおぞましい抗争があり、寺内部だけにしておけばよいのに、東行記念館にまで迷惑をかけていたことである。東行庵住職で功山寺副住職の江村氏について、「高杉史料を盗んで売りとばそうとしている」などという噂が流されていた。それは不在住職や、そこに下関の曹洞宗関係のエライ人などがかかわり、歴史のある名刹(さつ)である功山寺の住職になろうとする意図が働いて江村氏への誹謗(ひぼう)中傷、排除の陰謀が働いていたことが明らかになっている。だが功山寺の信徒の多数は、三十数年功山寺でかかわってきたところから、江村氏を攻撃する側がよこしまであり、江村副住職を信頼できる人物という判断を公表した。
東行記念館から高杉史料を突然運び出すという行為は、「史料を売りとばす江村住職」という陰謀じみた中傷が大きな作用をしていることは疑いない。そこに高杉史料を金もうけや出世の道具にしようという部分がからみついて、今回の大それた東行記念館つぶしになったものと思われる。そのような陰謀を仕組むものはろくなものではないし、高杉と維新を純粋に顕彰するものでないことは明らかである。
●近代統一国家を生み出した明治維新
高杉晋作は二六〇年つづいた徳川幕藩体制を打倒して近代統一国家をつくり、欧米の植民地の道を拒否した明治維新の最大の貢献者である。フランスではフランス大革命、アメリカでは独立戦争が建国の出発点となっているが、維新革命は日本にとってはそれに匹敵する近代統一国家の出発点である。したがって高杉記念館というものは、国立の立派なものがあっておかしくない。ところが、明治政府以来支配の側からは高杉について正当な評価はしてこなかった。高杉を敬愛してきたのは大衆の側であった。
山県、伊藤、井上ら明治の元勲といわれる連中も、高杉との私的な関係として、おうの(梅処尼)を高杉の墓の守りにして生活の面倒を見た程度であった。明治も後半になって高杉の顕彰碑が建てられるなど評価されるが、それは絶対主義天皇制の確立のもとに日清、日露戦争に乗り出すなかで、高杉を天皇崇拝者とねじ曲げて描く意図をもったものであった。日中戦争も行きづまる昭和一五年には高杉記念館が建設されるが、それは中国侵略戦争が維新革命戦争と同じと描き、軍国主義をあおる意図をもったものであった。この記念館は敗戦後GHQによってとりつぶされたが、高杉と維新を天皇崇拝の軍国主義のようにみなす戦後の風潮の出発点となった。
一方で高杉と維新研究は戦後になってようやく正当な研究がすすみ、奈良本辰也、井上清などがすぐれた研究を残している。本紙福田正義主幹の『高杉晋作から学ぶもの』もその一つである。しかし戦後五八年たった今日、高杉や維新は、行政機関の側からは観光の商売道具扱いであり、商業マスメディアの側からは勤王派を残忍に殺した幕府のテロ集団である新撰組を持ち上げるような調子である。またいまどき強調しているのは、徳川幕府側がいかに開国派で近代化をすすめたか、明治維新はなくても近代化はすすんだといった宣伝である。
それまでの鎖国主義から一転した徳川幕府の井伊直弼らの開国論は、外国勢力に屈服し、その力を借りて国内の人民の反抗から自分たちの支配の地位を守るというもので、清国と同じような植民地にするというものである。高杉らの攘夷論は、近代統一国家を建設し、民族の独立を守って開国・近代化をすすめるというものであり、根本的に対立するものであった。
現在明治維新をうとましくみなし、徳川幕府側を賛美する流れは、支配集団の側からつくられている。グローバル化・自由化・規制緩和を叫び軍事も政治も経済も文化・教育もすっかりアメリカの植民地のようにし、アメリカの国益のための戦争にのこのこと下請軍隊を派遣する売国的な独占資本集団とその政府の姿が、かれらを支配者の地位につけた明治維新とその英雄たちの恩義を感じるどころか逆にうとましくみなし、いまや当時の徳川幕府の側に心を寄せるという反動の位置にいるからにほかならない。いまの自民党ボスども、なかでも山口県選出の自民党代議士どもの顔を思い浮かべるなら、英国連合艦隊の彦島割譲要求を断固として拒否した高杉らに合わせる顔などないのである。
●つぶす要因取り除き東行記念館再開を
東行記念館の学芸員である若い一坂太郎氏が、「山口県民は維新の本当の歴史を語っていない」といい、「松陰や高杉などの偉人伝は中央でつくられたものでどうでもよい」とか、高杉らを殺し維新を葬り去ろうとした幕府恭順派の「俗論派にも正義があった」というのは、高杉と維新を冒涜し、徳川幕府側に心を寄せる支配勢力におもねたものである。
一坂氏個人が幕府恭順派に心を寄せる自分勝手な維新観をのべるのは自由である。それはしかし高杉と奇兵隊士を守る東行記念館を離れてやるのがモラルである。高杉を守る東行庵にいながら高杉を利用し冒涜するのは社会的に非常識である。また自説に忠実であろうとするなら、東行記念館を離れて独立して主張するのでなければ、俗論といわなければならず、真実を貴ぶ研究者とはいえない。東行庵から解雇されるかどうかで騒ぐのでなく、自分自身の信念を貫く問題として、東京などに出て自説を気兼ねなく主張すべきである。
もっと問題は、山口県民を読者にする商業マスコミがちやほや祭りあげ、行政機関や商工団体、教育機関までもが高い金を払って講演をさせる。これらの社会の上に立つ連中の高杉と維新への不見識、というより商業主義と売国精神こそ恥ずべきものである。
東行記念館をつぶすような要因をとり除き、より立派な形で高杉晋作記念館を再開することに山口県民の力を注がなければならない。高杉史料は、東行庵に眠る高杉と奇兵隊士の墓と一体のものであり、人人がほとんど訪れない墓だけの閑散とした東行庵にすることが高杉の遺志に反することは明らかである。
東行庵と高杉記念館を守る力は、この一〇〇年以上の東行庵の歴史がそうであったように、吉田の地区民、下関の市民、山口県民、全国の維新愛好者である。それらの人人のなかに強く流れる高杉と維新への深い思いを形にして、その顕彰を強めることが決定的に重要である。それは東行記念館を守る会のような形にすることが有意義であろう。
高杉史料については、必要な改修はして現在の記念館にもどすべきである。さらに記念館を寺だけで運営するのは困難であり、公立でやるべきである。しかも下関か萩かという観光路線からの争いではなく、郷土の歴史にたいする県民の誇りを発揚する意味からも立派な県立の東行記念館を吉田に建設することがふさわしい。そこには県が史料保存や解読などの専門の学芸員を配置することが必要である。
また展示については、説明ぬきの展示ではなく、とくに小・中・高校生たちが、高杉と維新について理解しやすいように工夫し、教育的な役割をはたすようにすることが望ましい。記念館の運営については、庵側と地元吉田、下関市民、県民の代表者、それを県が援助する形などが求められる。