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日本を守った高杉晋作の偉業  「彦島租借」拒絶の精神を今に   桜山神社総代 金家恭平  

わたしは桜山神社の総代を四〇年間務めさせていただいている。そのなかで、桜山の神様となられた明治維新に身を捧げた方方がおられなかったら今日の日本はなかったことを痛感するところである。
 わたしは一昨年の春祭で、みなさんの前で小泉総理がなぜ靖国神社に参拝して隣国の中国や朝鮮と仲良くせずにケンカをするのか、そんなことをするのではなく桜山神社に参拝することで問題は解決できると語ったことがある。
 高杉晋作は立派な日本人であり、なによりも日本を守ってくださった。このことはいくら強調しても、しすぎることはないだろう。わたしは馬関戦争の講和談判での高杉晋作の活躍にそのことを典型的に見る思いである。
 長州藩は、四国連合艦隊との戦争でさんざん負けた。関門海峡に面した前田一帯の家は焼かれ、砲台はつぶされ、大砲は持って行かれた。この難局にあたって、毛利公は戦争の終結にあたれるのは高杉さんしかいないと判断し、当時脱藩の罪で野山獄につながれていた高杉さんを呼び出して、その任務を与えた。高杉晋作は宍戸刑馬という家老になlって、紋付き袴の正装で、毅然とした態度で講和にむかい、断固として日本を守った。
 イギリスのクーパー提督は、彦島の租借を持ち出したが、高杉さんは断固として「ノー」といった。これは確かな事実であって、高杉さんは事前にむこうが彦島租借を要求してくることを察知し、出してくれば断固として「ノー」といおうと、通訳の伊藤俊輔と話しあっていた。
 高杉晋作はその二年まえに、上海に行って西洋の租借地を見ていた。「犬と中国人入るべからず」と書かれた立て札を見て、烈火のごとく怒り、このままでは日本もいずれこうなる、絶対に日本の土地を租借させてはいけないと考えていた。「高杉しかいない」という判断はまったく正しかったと思う。高杉さん以外のものであれば、彦島をイギリスに貸していただろう。彦島がそのとき香港みたいになっていたら、今日にいたる日本の近代化はなかった。
 ペリーが来航して、明治維新になったというのはまったく違う。幕府はペリーが来たことで、ぺこぺこして鎖国を解いて下田を開港してしまった。松陰先生や高杉さんは、これと逆の道を行かれたのである。
 歴史をひもといたとき、馬関戦争のときに結成された奇兵隊や諸隊には、士農工商だけでなく穢多(えた)・非人とさげすまれていた人人まで、いろんな人がいた。わたしは桜山神社の三九六柱の御神霊標を拝むとき、みんな同じ高さであることにほんとうに感激する。高杉さんは国のために死んだものはみな同じだと考え、吉田松陰先生の柱だけが二〇センチ高いだけで、あとはみな同じにしたのである。その意味で、わたしは日本の民主化は桜山神社からはじまったといってよいと思っている。
 高杉さんは日本人として、腹を切る心づもりで国を断固として守りぬいた。だが、残念なことに小泉総理をはじめいまの政治家がやっていることは、日本人とは思えない。政治家は何人だかわからないようになってしまっている。このことは、県会議員にも市会議員にもいえることだ。
 先にのべた春祭のときみなさんの前でもう一ついったことは、当時外務大臣であった田中真紀子が外務省の役人たちをここに連れてきて、土下座させなさいということだった。列席されたみなさんはこれもうなずいて聞いておられた。
 わたしは下関の人工島の建設に異議をとなえているが、議員に聞けば東南アジアむけのコンテナ港にするという。地理的にも不合理であり、自然環境の面でも安全に船をつけられるところではない。そのことを指摘すれば、それができなければ風力発電の基地にすればいいなどといったりする。どこかの流れに身を寄せて、市民に責任を持った仕事をしていないのである。
 いまほど、高杉先生がいかに日本を守ったかを、教えていかねばならないときはないように思う。それを子どもたちにしっかり伝えることの意義は大きく、ほんとうに大事なことである。

  

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