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生活困窮者の食と住まいを考える――制度のはざまをどう支えるか 「いのちの関門ネッツ」が下関市でシンポジウム開催

(2024年12月16日付掲載)

「いのちの関門ネッツ」が主催したシンポジウム「生活困窮者の食と住まいを考える」(7日、海峡メッセ下関)

 下関市で活動する市民団体「いのちの関門ネッツ」(中井淳代表)が7日、3周年記念行事として「生活困窮者の食と住まいを考える―制度のはざまをどう支えるか」をテーマにシンポジウムを開き、さまざまな分野で支援に携わる現場のリアルなとりくみを交流した。災害や突発的なできごとで、だれもが支援を必要とする立場になり得る現在の日本社会のなかで、3年間の地道な積み重ねを通じて、支援団体などが支え合いながら対応できる体制が着実に構築されてきたことが浮き彫りになった。公的制度の狭間でとり残されるなど、支援の現場ではさまざまな壁に直面することが多いのも現実だが、会場には主催者の予想をこえる人々が参加して熱のこもった意見交換がおこなわれ、課題を乗りこえながら、みんなの力でよりよい社会を築いていく希望を示すものともなった。

 

広がる子ども食堂や炊き出し支援

 

「いのちの関門ネッツ」の結成イベント(2021年11月、下関市日和山公園)

 「いのちの関門ネッツ」は、コロナ禍まっただ中の2021年11月、下関市や北九州市などでこども食堂を通じて家庭の貧困問題に携わる人々、ホームレス支援をおこなっている人々、外国人留学生や実習生の支援に携わる人々などが、セーフティネットのネットワークを形成しようという目的で発足した。「緊急に宿泊する場所が必要だ」「とり急ぎ食料が必要だ」といった対応をはじめ、生活困窮者に寄り添いながら、困難な事態を乗りこえるために、さまざまな支援団体が緩やかにつながりながら情報や工夫などを共有し、協働・連携することを目指すネットワークだ。下関市内で活動する団体や個人は多くいるが、それらをつなぐネットワークづくりは初めての試みであり、活動する人たちが必要としていたネットワークでもあった。

 

 シンポジウムの司会を務めた福永健二氏(本庁北部地域包括支援センター長)は、「日本は憲法で、健康で文化的な最低限度の生活が保障されているが、今日食べるご飯がない、ガスも電気も使えない、ずっと風呂に入っていないという方々など、最低限度の生活が保障されない人もかなりおられる」とのべた。4年ほど前のクリスマスの日に、ずっとご飯を食べていないという、自身と同年代の男性が訪れて食料支援をした経験にふれ、「その方は自殺するつもりだったが、フードバンクでもらった食事を食べると元気が出て、生きる力が出てきて、それから自立した生活を営めるようになった。『いのちの関門ネッツ』という大げさな名前になっているが、実際にちょっとした食べ物で命がつながる。そういった方々への支援の現状を市民のみなさんにも知っていただき、理解を深めていただけたらと思う」と挨拶した。

 

 活動報告に立った代表の中井淳氏は、「いのちの関門ネッツ」について、「支援にかかわる一人一人が持っているネットワークを共有しながら、さらにつながって束ねようというものだ」と紹介。相談窓口やフードバンクの連絡先、炊き出しの情報などをまとめたパンフレットの作成を手始めに、一時的に避難場所が必要な人たちのシェルター探しなど、「どれだけ自分たちができるかを考えながら、協力を仰ぎながら活動している」と語った。

 

 中井氏は、シンポジウムの前日、韓国籍の高齢の男女を韓国へ送り届けてきたことを語った。80代の男性と70代の女性の2人は日本で長年生活し、オーバーステイもして名前を偽りながらなんとか生きてきたが、日本では生活保護を受けることもできず、自殺をはかって倒れているところを発見されたという。日本では生活していけないため、韓国へ戻るほかない状況だったが、60年ぶりに戻る韓国に、受け入れてくれる施設があるわけではなかった。しかし韓国に滞在していた中井氏の知人が奔走し、奇跡的に受け入れてくれる施設を見つけ、中井氏が付き添って韓国へと向かうことになった。それも人と人とのつながりや信頼関係のなかで実現したことだったという。

 

 中井氏は、韓国の施設が例外的に受け入れを決断したことにふれ、その施設の院長が「ほかの法的な機関などは多分、受けとらないだろう。だが、だれも受けとらなければ彼らは死んでしまうだけ。彼らはなにか悪いことをして生きてきたわけではなく、ただ一生懸命生きてきた人たちではないか。マニュアル通りにやるだけなら問題も起こらないし、簡単なことだが、それは本当の社会福祉ではないだろう。私はどんなことも探せば解決する道があると信じている」と語ったことを紹介。「マニュアル通りではこぼれ落ちる人たちがいる。そこから外れた人たちにどう手を差し出していくか、あるいはその人たちを救える制度にどう変えていくのか、それがこれから私たちが向かっていく方向だと思う」と投げかけた。

 

 続いて、5人が活動の報告をおこなった。

 

毎月弁当の炊き出し 柔軟で多様な施策が必要

 

 NPO法人抱樸(ほうぼく)職員の田口ゆずり氏は「下関に関わりながら見えてきたこと」と題して話した。

 

 NPO法人抱樸は、36年前に北九州ホームレス支援機構として活動をスタートした。当初は「越冬実行委員会」という任意団体だった。当時、北九州には450人近くの野宿者がおり、毎年冬に路上で人が亡くなっていく現実があり、冬をどう乗り越えるかということで実行委員会を立ち上げたという。現在は、北九州市を拠点とし、福岡市、中間市、下関市を活動範囲とし、これまでに3000人以上の生活再建のサポートをおこない、現在も1000人以上の地域生活を継続的にサポートしている。

 

 田口氏は、「食べること、安全な場所で過ごすことができることは、人間の基礎の部分の欲求だ。食と住まいなしに、どう生きたいか、どう表現したいかは実現できないと思っている」と語った。生活困窮者や路上で生活している人に「どうしたいか」と投げかけても「わからない」という人がほとんどだと語り、「この二つをまず、どう解決していくかは非常に大きな問題だ」とのべた。

 

 田口氏は数年前から、下関市の海峡ゆめ広場で毎月第2、第4金曜日(12~2月は毎週金曜日)におこなっている炊き出しと夜回りにかかわっている。

 

 下関市の状況について、「ここ半年ほどは一晩に約10個の弁当を渡す状況になっている。2、3年前まで2桁にいくことはなかったが、コロナや物価高騰ということもあり、弁当をもらいに来る方が増えているのではないかと思う」と語った。厚生労働省のホームページでは、下関市のホームレスの数は令和2年に「2人」、それ以降は「ゼロ」となっていることにふれ、「(調査は)何年かに一度、路上にいることを目視で確認するため、現場とずれが生じることはあるが、やはりゼロというのは現場としては違和感を覚える」とのべた。

 

 北九州市でも下関市でも、今炊き出しに来たり、パトロールで弁当を受けとる人の半数以上が住まいがある人だという。家はあるけれど、その日の1食が足りないという状況の人が来ている現状を語った。2週間に1度の弁当配布は「いのちを守る」ことにはつながらない活動であり、困ったときに「助けてほしい」といえる関係づくりをおもな目的にしている。ただ、コロナ禍や戦争からの物価高が続くなかで、「2週間に1回ではしんどい」という声が当事者から日々上がっている状況だという。

 

 「最近は、お弁当をもらいに来た方の話を聞いていると、“家賃が払えなくて家がなくなりそうだ”という方や、もっと深刻なのが“炊き出しで人と話すのが2週間ぶりだ”という方など、地域で孤立して人との関係が途切れている方が多く見受けられることだ。ときには子どもさんを連れて来られる方もいるし、昨日は初めて技能実習生のベトナム国籍の方も並んでおられた」と報告した。

 

 「抱樸」は見守りの住宅やシェルターも運営しているが、「実際のところ、住まいを確保する、提供するのはスタート地点でしかない」と指摘。生活困窮に陥った人たちに必要な支援・ケアを提供していくことが必要だが、「人が人を支援することになるので、どうしても制度に乗せていくことになる。だが、制度はどうしても対象を絞っているので、やればやるほど狭間が生まれ、そこに乗れない人が出てくるところがあり、私たちも日々、次にどうするかということを考えている」と語った。路上生活に陥る人、生活困窮に陥る人は多様な課題や状況に置かれており、同じ状況の人はいないことを強調し、「施策ももっと多様に、いろんな方向で、どんな人でもサポートできる体制を整えていかないといけないのではないか」とのべた。また、「路上にいる人ともかかわるなかで、人を生かしていくのは最後は人のつながりだと日々感じている」とのべ、行政的な仕組み・制度とともに重要なのは、それを実行する「人」であること、「いのちの関門ネッツ」のようにさまざまな人が緩やかにつながる関係の大切さを強調した。

 

貧困状況はさまざま 個人の支援とその限界

 

 彦島福浦町のこども食堂ジョイアスキッチン代表の近藤栄一氏は「個人での支援の経験とその限界」をテーマに話した。

 

 近藤氏は、天理教教会で2017年からこども食堂を運営するとともに、自身の子どもと一緒に里親として中・高校生を3人育て、そこに生活困窮者も受け入れて一緒に生活している。現在、住み込んでいる人は5人いるといい、「どんな人でもどのような状況の人でも、困っていればとにかく助けることをしている。住むところ、食べる物、服がないので、生活保護を受けてもらいながら教会で一緒に生活している」とのべた。

 

 最近も、ケースワーカーの知人から、県内に住んでいた40代の男性が自宅を出て他市の公園で倒れていたのが発見され、退院後の行き先がないとの連絡があって受け入れたことを語った。今後は、これまで住んでいた家や車をどうするかなど、向き合わなければならない課題に一緒に向き合うことを投げかけているところだという。

 

 また、下関駅で出会った男性は、保険証も免許証もなく、本人を証明できるものがなにもない状態だった。病院に行かなければ命にかかわる健康状態だったため、市生活保護課など多方面にかけ合ってなんとか受給者証をつくり病院に行くことができた。その男性は他県に住んでいたが、家族を捨てて出て、体が動かなくなったところに近藤氏と出会ったのだという。のちに、何年も連絡がとれないため、家族が死亡届けを出していたこともわかった。当初は、その人が存在しており、教会に住んでいるという事実と、近藤氏の信用のみで生活保護を受給してスタートしたが、状況を解決するためには家庭裁判所や公的機関などに生きていることを申し出るなどの法的な手続きが必要だ。近藤氏は、一緒に生活しながらそうした手続きや、抱えている課題の解決にも伴走しているという。

 

 そうした経験から、「生活困窮者は、食べる・住むだけでなく、いろんな課題があり、とくにお金の問題が多くある」と指摘。「もちろん、食も住まいもまず提供することが大事だが、そこからその人の課題に伴走し、一緒に向き合って、しんどいときには一緒に休んだり、ときには“それはいけないだろ”ということも伝えながらやっていくのが大事なのではないか。そういう狭間を支える制度があったらいいなと思ったりする。シェルターを提供したり、生活保護を受給すると服も買えるし最近はエアコンもすぐつく。最低限生きていける制度はあるが、コミュニケーションをとってその人の課題をなんとか解決し、自分自身の問題にも気づいてもらわなければくり返すことになる。制度の狭間のなかで伴走者が必要だなと思っている」と語った。

 

フードバンクのとりくみ 食品の寄贈足りず枯渇

 

 リビング下関(フードバンク)代表の畑尾光子氏は、「市民による食料支援の現状と公への要望」をテーマに話した。

 

 リビング下関は、食品ロス削減を進めている企業や農家から食品の寄贈を受けるほか、家庭で使い切れない未使用の食品の寄贈を受けるフードドライブといわれる活動をおこない、支援を必要とする個人や施設、団体に無償で提供する活動をおこなっている。

 

 畑尾氏は50数年前に嫁いだときに明治生まれの姑から聞かされた「四百四病(しひゃくしびょう)の病より貧ほどつらいものはない」という言葉を紹介し、「私のなかには『貧』というのが根底にあった」と話した。もともと環境問題にとりくんでいたが、親の介護をきっかけに第一線を離れた。しかし大量の食品ロスの問題とフードバンクのとりくみを知り、10年前に仲間とともにフードバンク山口を立ち上げて、形を模索しながらリビング下関を立ち上げるに至ったという。下関市幡生に古い倉庫を借り、農家から「休耕田を活用して支援米をつくるから、本当に食べられない方に配ってくれないか」という話を受けて、軽自動車で何往復もして運び、「お米だったらあります」という形でスタートしたという。

 

 2021年に全国フードバンク推進協議会に加盟して以降は、食品メーカーから食品提供の打診がくるようになり、こども食堂や、福祉施設の就労作業所などにもチョコレートなど大量のおやつを届けることができるようになって「私たちも喜ぶ顔が見えて嬉しかった」という。しかし、今年1月の能登地震を受けて全国フードバンク推進協議会が現地に組織を立ち上げ、食品メーカーからの食品は能登に送られているため、1月からおやつが届いていない状況があるという。全国推進協議会から72%の食品を頼っていたのが途絶えていることから現在、自分たちで何とか食品を集めようと、フードドライブのポストを市役所に設置するなどの努力を続けていることを語った。

 

 最近の状況として、市生活支援課から「生活保護を受けて支給されるまで2週間かかるためその間の食料をなんとかしてほしい」と連絡を受けて届けていること、その数が増えてあっという間に食料がなくなってしまうことを語り、「私たちも自助努力しながら食品をしっかり集めて渡せるか心配で仕方がない。私たちも努力するが、広報など市がバックアップしていただいて、もっと集まればいいなと思っている」とのべた。

 

 「私たちの活動は一人一人に寄り添う、お節介のおばあちゃん。食品だけでなくその他の日用品なども集めてお渡ししている。電気・ガス・水道がないという方には、その方に見合った物を、“ガスがあればこれができる”という方にはカセットコンロとガスをセットでお渡しするなど、一人一人事情が違うから、いろいろお節介させていただいている」と語り、食品の寄贈を呼びかけた。

 

 そのほか、「市と連携しながらシェルターを提供していく試みについての報告とそのビジョン」と題して株式会社ARCHの橋本千嘉子氏が、「防災・生活困窮者支援における地域のローリングストックとしての役割」と題してフードバンク山口下関地区の大城研司氏が講演した。

 

孤立が生む悲劇 手と手をとり合う社会に

 

討論するシンポジウムのパネリストたち(7日、海峡メッセ下関)

 後半は、参加者の質問や感想をまじえながら「生活困窮者の食と住まいの確保のために」をテーマにディスカッションがおこなわれた。

 

 平場から発言した、NPOで自殺対策の相談員をしているという女性は、「困窮者の方と一緒だが、電話の向こうで顔も本名もわからない方と話をすると、思いがけないことがたくさん起こり、はっと気づくと、自分から孤立してどうしようもなくなって死にたいとか、死にたいわけではないが死ぬしかないというお話をいただく。ひたすら伴走するだけの仕事になったりするが、どういうふうにこの方が一歩踏み出そうとなれるのかと考えたとき、下関には頼もしい方がたくさんいらっしゃる」と感謝の気持ちをのべた。

 

 「困ったときにはこの人」というメンバーが一堂に集い、3年間でネットワークが着実に広がってきたことが、シンポジウムを通じて目に見える形となり、関係者は確信を深めている。行政による支援も求められる。

 

 中井代表は「自分一人ではできないこともあるからネットワークが大事だし、私たちが情報を共有しながらつながっていけば、できることがあると思う。みんなでつながりながら、手と手をとりあえる社会をつくっていこう」と呼びかけた。

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