いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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銅像にされる政治家いるか  時代開き貢献した先人達

 下関市内には幾人か銅像にされた郷土の先人たちがいる。地域の発展のため、日本の将来のため、あるいは子孫のために心血を注ぎ、その礎を築いた先人として継承されたもので、人人が後世に顕彰する意味もこめて建立してきたものだ。本紙は10月中旬、彦島漁業協同組合が設立にいたった過程を紐解き、相互扶助を基本にして苦労しながら貧困とたたかった歴史を紙面で掲載した。それを読んだ人人のなかで、彦島図書館前にある富田助役(彦島村)の像と合わせて「今どき銅像にされるような政治家やリーダーがいるだろうか…」「下関には何体銅像にされた先人がいるのだろうか?」と各所で話題にされてきた。市内に銅像が建てられて顕彰されている人物は、いったい何をした人なのか、像建立のルーツなどを文化人や郷土史に詳しい人人にも尋ねてみた。
 
 後世に顕彰される精神

 日和山公園の高台に立つ高杉晋作像は、高さ4・2㍍の陶像で、関門海峡を凛凛(りり)しく見下ろしている。功山寺決起前、平尾山荘を出発するにあたって俗論党を壊滅させる決意をみなぎらせた姿を表現しているといわれている。この下関の地から明治維新革命を切り開いた高杉晋作を顕彰するもっとも代表的な全身像である。
 高杉晋作は文久3(1863)年六月、清末藩の竹崎(現・下関)の白石正一郎邸で奇兵隊を結成した。それは、日本を植民地にする策動を強める欧米列強をはねつけ、近代統一国家を建設するために、長州藩に徳川幕藩体制を打倒する力を蓄えるという戦略にもとづくものであった。
 高杉晋作は吉田松陰の教えを継承し、また欧米の植民地租界に置かれた上海に遊学して目撃した体験から、欧米に屈従する幕府を打倒して、独立・対等の関係で開国する方向をめざした。それを実現する力は、「肉食の士」(上級武士)や公家ではなく、農民、商人、下層武士にあることを見てとり、彼らを身分の区別なく奇兵隊や多くの人民諸隊に組織した。そして、人民のためのたたかう精神と厳格な規律をうち立てて、倒幕への道を進んだ。
 高杉晋作が四国連合艦隊との講和談判に臨んで、敗北を認めさせようと迫る相手に対して長州領民の不屈にたたかいぬく意志を示し、彦島割譲についても断固としてはねつけたことは下関市民の間で厚い尊敬の念をもって語りつがれてきた。
 幕府征長軍が押し寄せ、萩の俗論党政府が屈服して高杉ら正義派に襲いかかり、奇兵隊周辺で裏切りと脱落があいついだとき、高杉晋作は農民や商人の根本的な利益を守り、幕府打倒の圧倒的な願いを代表して、わずか80人たらずで功山寺で挙兵した。
 高杉晋作の下関における決起は、進軍する先先で領民の厚い支援を受けて軍勢を強化拡大し、俗論党は一掃され「武備討幕」で藩論を統一した。その勢いは、十数万の軍勢で長州藩の四境に押し寄せた幕府軍に対して、わずか4000~5000人の長州軍がうち負かし、戊辰戦争を通して明治維新を為し遂げるまでに発展した。
 高杉晋作はその勝利を見ることなく、28歳足らずで夭逝した。近代日本の夜明けを導き開いた革命家としての傑出した生涯は、山口県民はもとより幕末と酷似した現在の情勢の打開を求める全国の人人の魂をうち、共鳴の輪を広げている。
 日和山に設置されたこの陶像は、1956(昭和31)年に再建されたものである。その原型は、1936(昭和11)年に同地点に建立された銅像である。戦時中、金属供出を理由に接収され、姿を消していた。こうしたことも、国のひき起こす戦争が多くの市民の偉大な先人に対する尊敬と希望の光を、いかに無残に奪い去るものかを教えている。

 白石正一郎 私財投打ち維新支える

 明治維新と関わって下関市竹崎町の国道に面した中国電力前には、「白石正一郎旧宅址」の碑が建てられている。その横には「高杉晋作奇兵隊結成の地」の碑が並んである。この地は当時、海に面しており、全国の志士400人が出入りしたという白石邸の浜門があった。
 碑文には、下関郷土会によって、「長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にある」「正一郎は結成と同時に入隊し高杉晋作を援けた 年齢も身分もまったく違う2人のかたい結びつきが奇兵隊をささえた」ことが明記されている。
 白石正一郎は号を資風といい、小倉屋の屋号で家業の廻船問屋を営みながら、国学者の鈴木重胤の門下となって、当時の革命的なスローガンであった「尊皇攘夷」論に傾倒した。それは、白石ら当時の商人の経済活動が封建制の束縛のもとでひどい目にあわされており、幕藩体制を打倒して自由な交易を求める機運の高まりと呼応するものであった。
 白石邸には、西郷隆盛や大久保利通、中岡慎太郎、坂本龍馬らが訪れたことも記録されており、薩摩との交易を通して薩長同盟の基盤を形成するうえで、大きな役割を果たした。
 正一郎は弟の廉作とともに奇兵隊に結集し、私財を投げ打って高杉晋作を支援した。その新しい時代を開く無私の精神は、白石家が何代にもわたって蓄積した財産が傾き、無一物になったことにも示されている。
 高杉晋作の葬儀は、白石正一郎が神式で主宰し、奇兵隊士はもとより農民、町民、地元の住人2000人が参列した。また、明治に入って、裏切りの道を進んだ元勲たちとは一線を画し、赤間神宮の宮司となり、六九歳でその生涯を閉じた。
 下関市民の間では、明治維新後も土佐の岩崎(三菱)や幕府側にいた三井らの政商が幅をきかせていったのとは対照的に、私利私欲なく潔癖な生涯を貫いたことと合わせて尊敬の念をもって語り継がれてきた。
 白石正一郎は没後、長府にあった白石家の墓地にまつられた。明治政府の元勲の奇兵隊弾圧と白石正一郎への冷遇のもとで、例祭は奇兵隊士であった赤間神宮の宮司らの手でひっそりとりおこなわれてきた。
 故人・中原雅夫氏(元下関図書館長)が1960年代末から70年代にかけて、白石正一郎の『日記』や白石家の文書をもとに、戦前戦後を通じて隠されてきた、白石正一郎の業績を紹介したことを契機に、白石正一郎の100年祭が市民各界の発起により、とりおこなわれ、赤間神宮境内の紅石山に墓(奥都城)が建立された。
 白石正一郎邸址の史蹟を示す碑は戦前はもとより、戦後になってもしばらくは、建てられることがなかった。1962(昭和37)年になって、下関郷土会のなかで白石正一郎宅跡に「小さなものであっても、碑を建てるべきだ」という話が持ち上がった。
 当時、中国電力は「白石正一郎なんて名前は聞いたことがない。表は都合が悪い」との対応で、裏陰にひっそりと建立された。10年後には「奇兵隊結成の地」の碑も立てられた。その後、白石正一郎の名が全国的にも知られるようになったことから、1987(昭和62)年になって、中国電力からの要望もあり、二つの石碑が表側に移され、現在の形となっている。この記念碑の前で、毎年命日(8月31日)に近い8月末の日曜日に地元の人人の手で、資風祭が催されている。

 富田恒祐 貧困と斗い産業発展へ

 彦島江ノ浦町の彦島図書館前には、下関信用金庫(現西中国信用金庫)の前身である彦島村信用組合の初代組合長・富田恒祐氏の胸像が建立されている。
 明治維新以降、資本主義経済体制を確立した日本では、欧米の先進近代国家のあとを追って株式組織の企業が勢いよく成長し、各種銀行が創立され産業は発達していったが、日本全国の中産以下の企業や庶民の生活は衰退をたどっていた。とくに中小の企業における金融は調達が非常に困難で、著しく高金利であったため多くの企業は窮境を脱することができない状態だった。彦島でも漁師たちは貧困状態から抜け出せず、生産者は高利貸しのカモにされて働いても働いても蓄財できず個別バラバラの状態から協同することによって解決がはかられていった。
 彦島では明治42年彦島村信用組合が創立された。その信用組合を創立したのが富田恒祐氏だった。当時、彦島には漁業組合が海士郷、六連島、迫、西山、竹ノ子島、福浦と分かれ、漁場をめぐって争いが絶えず、多くの零細な漁家が経営困難に置かれていた。富田氏は零細漁家の救済と漁業発展のために数十回の会合を重ねて組合統合の必要を訴え、彦島漁業組合が新たに発足した。そして明治42年には291人の組合員と2462円の出資金を基礎にした彦島村信用組合が発足。貸付金として運用する資金として農工銀行から5000円を借り入れ、組合員の高利負債を肩代わりすると同時に、漁民には貯蓄することを教えて漁家の経済状況は一変していった。大正六年からは共同販売も開始して、漁業者が買い叩かれている状況を改善していった。
 漁業だけでなく、そうした地域のために力を尽くした姿勢が顕彰され、銅像にされている。

 伊村雅重 深坂の溜池建設に尽力

 蒲生野の深坂自然公園にあるため池のほとりには、「伊村雅重翁」の胸像が建っている。伊村氏は、深坂のため池の建造に尽力した当時の安岡村村長。市内でも有数の農業地帯である安岡・川中地区では安岡ネギをはじめ葉物野菜や花卉、コメなど多岐にわたる農産物を生産している。安岡・川中の農業にとって深坂のため池は大事な水源であり、農作物を水害や洪水・干害から守っている。
 もともと安岡の気候は暖かく作物の生育に適した場所であったが、山岳が急峻であることから降雨時には一気に出水し、山肌が崩れたり、洪水や水害が多く起きており、農家の収入の大部分を占めるコメさえほとんどとれない年が幾度もあった。同時に、貯水設備も十分に整備されておらず、日照りのときは水不足に悩まされ、干害も多かった。さらに低地は排水が悪く、農民のなかで水源設置を求める声が高まっていた。そして明治40年に深坂と河内(福江)に堤を建造することが決まり、大正2年、安岡耕地整理組合が設立された。そこで初代組合長になったのが当時の村長でもあった伊村雅重氏で、先頭に立って事業全体を引っ張っていった。
 耕地整理事業のなかでもため池建造は最大の事業で、安岡で一番高く集水面積が広く、水をせき止めるできるだけ狭い谷間、稲作など水の必要なときにいつでも水が使用できるところを考慮したうえで現在の位置に決まった。大正7年6月に着工し、30万円(現在の30億円以上)の費用と13万人の人手がかり出された。費用は国や県からの補助金と組合員の分担金だったが、当時の農家の生活は厳しかったため、ため池工事を手伝って得たお金を分担金に充てる農家が多かった。
 ため池工事の真っ只中の大正10年に大雨が降り、堤防の一部が決壊する大事故が発生し、一人の老母が流されて死亡した。これをきっかけに、工事を続行するか、中止するかをめぐって大紛糾となった。意見はまとまらなかったが、最終的に投票がおこなわれ、わずか1票の差で建設工事の続行が決まった。その後も人夫が集まらず組合員に労役を割り当てたり、朝鮮から大勢の労働者が連れて来られた。その犠牲者の遺骨は妙蓮寺の納骨堂に安置されていることも記録されている。
 さまざまな困難に直面しながら、約30万円を要する大工事が終わったのが大正13年。現在のように建設機械もなく、ツルハシ、スコップ、モッコ、トロッコなどを使った人力作業で、貯水量135万㌧、水深24・55㍍、集水面積260㌶という規模のため池を完成させた。完成当時でも全国第四位の大きさであった。ため池や幹線水路ができてからというもの、毎年の水不足は解消され、地域ごとの水争いもなくなり、洪水の調整もできるようになった。
 安岡の農業に深く携わってきた農業者の男性は、「ため池をつくるというのはとてつもない思いつきで、当時、初代組合長はじめ役員さんがやられたことの大きさをひしひしと感じる。このため池は私たちの命の源。人力しかない当時にため池をつくるには、それだけの人を動かさなければいけない。尽力された方方には本当に感謝している」と語っている。
 初代組合長・伊村氏の胸像は昭和47年に建立された。胸像の下には安岡・川中地区の農業の発展と住民の暮らしに尽力した歴代組合長(昭和27年の土地改良区に改組後は理事長)の名も刻まれている。ため池をつくったのは、のべ13万人ともいわれる人夫たちの労働の賜である。そのうえで事業を引っ張って地域に貢献した伊村氏が象徴として顕彰されている。

 国司浩助 遠洋漁業近代化に貢献

 下関市高尾浄水場裏、日和山公園には「国司浩助顕彰胸像の碑」(昭和59年建立)がある。国司浩助氏は、下関を拠点に日本の水産業の近代化に尽力した人物として知られている。像は国司氏が活躍した岬之町と、玄界灘・響灘を見下ろすように建てられている。
 同氏は明治20(1887)年、神戸市で生まれた。明治37年に農商務省水産講習所本科漁撈科に入学、明治42年、21歳のときに汽船トロール漁業の実地調査研究のためにドイツ・イギリス両国に派遣された。
 卒業後、現ニッスイ創業者の田村市郎とともに田村汽船漁業部を下関市で創業。大正9年には下関に早鞆水産研究会(日本水産株式会社中央研究所の源流)を創立し、ディーゼルエンジン付きのトロール漁船を完成させた。昭和2年11月、世界初のディーゼルトローラー「釧路丸」を進水、これが全国1位の漁獲量をあげた。昭和四年には漁業拠点を下関から戸畑に移すものの漁業発展のための研究をひき続きおこない、船内急速冷凍や母船式捕鯨、フィッシュミール(魚粉)、水産物配給、蟹工船、冷凍冷蔵など、日本漁業の近代化に大きな役割を果たした。水産都市・下関に大きな影響をもたらすこととなった。
 そのほかにも地域のために尽くした企業主などのかずかずの貢献も語り継がれている。豊北町出身で、「東洋の化粧王」として名を馳せた中山太一は、故郷に滝部小学校を寄贈、多額の教育費を寄付したり、病院の建築費寄贈などをおこなった。その功績は滝部の歴史民俗資料館に資料展示してある。「日本のマッチ王」として有名になった長府毛利出身の瀧川辨三は、神戸でマッチ工業で成功し、膨らんだ財産で滝川中学・高校を建設・寄贈した。碑はないが、戦後でも東洋海事の橋本才平が、関門海峡の沈没船をサルベージ船で引き揚げる事業で得た利益で、税金対策もあるものの、10億円で下関市民会館を建設し、下関市に寄贈するなど、経営者のなかにも自分だけがボロ儲けするのでなく、儲けさせてくれた地域や社会に寄与する意識があったことを伺わせている。
 昨今の政治状況を見てみると、銅像になって後世に顕彰されるような者が見当たらないという、寂しい実態についても同時に目を向けなければならないものとなっている。江島潔あるいは中尾友昭の銅像をブレーンたちが建てたとして、引き倒しに出かける市民がいてもおかしくないほど公金横領疑惑の目が向けられていたり、税金の厳しいとりたてで泣いている市民がいたり、散散なものがある。今時の市長や政治家は任期を重ねるごとに汚れて恨みを買うのが習わしで、とても高杉晋作や白石正一郎の生き様と比較することなど出来ない。経営者の集うライオンズや自民党組織に目を向けても婦女暴行が癖になっているような人物の処罰すら放置して、同席した議員も喜んでながめているのだから、むしろ別の意味で石に刻まれたり、市中引き回しの刑でも受けなければならない連中が増えている。
 儲かりさえすれば良いという市場原理型の社会において、大企業や資本のある者はもっぱら国家財政や金融市場に寄生するだけで、地域貢献とか企業の社会的責任などみな放棄していく世の中になった。儲かった者はもっと儲けるために法人税減税を要求し、その肩代わりをみなに強いて平然と貧乏人を大量生産させる。海外利権を守るためには「死んでこい!」といって戦場に駆り出すようなことまで辞さない時代になった。先人たちの多くが時代を開いた側で活躍したのに対して、資本主義が滅亡していく過程の為政者がいかにボロであるかを物語っている。人人から真に顕彰されるようなリーダーの登場が現代に切望されている。

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