下関市の中尾友昭市長が学位取得を目指して下関市立大学大学院経済学研究科に提出していた修士論文が審査され、不合格判定を受けていたことが明らかになった。
「市長が受益者」の非常識
33人の教授や准教授らで構成した研究科委員会のなかで、合格をつけた委員が18人、不合格をつけたのが7人、その他の8人が白票を投じたと見られ、規定の3分の2の同意が得られなかった。設置者である自治体の首長がみずから大学院生として籍を置き、自身が任命した理事長(学長選で落選した後、市長の指名により昇格した)を指導教官にして学位取得の受益者になるという、公私混同も甚だしい振舞が問題になっていたが、自慢話に修士号を与えることなどできなかった。最高学府の尊厳を守る対応となった。
中尾市長は2011年4月に大学院に入学し、社会人が特定の課題について研究し、その成果をまとめる「プロジェクト研究コース」に所属していた。「市内における地域内分権への挑戦」をテーマにして、みずからの市議会での発言や施策、目指している地域内分権について示すとともに、その生い立ちや落ちこぼれ人生から這い上がってきたことを誇示し、最終的には「政治家とは何か」「政治家の出処進退」に話がおよび、「二度とない人生」について思いのたけを記した論文とされた。論文は約550ページにわたるもので、その膨大な分量も本人は論文発表会でおおいに自慢し、市職員にあてた市長通信(メール)でも誇示していたことが話題にされていた。
審査では「課題の設定が社会人としてのキャリアに照らして妥当であるかどうか」「研究成果報告書の構成や論理展開に一貫性があるかどうか」「研究成果報告書の形式が適切に整えられているかどうか」「口頭試問での応答が的確であるかどうか」の四点が成績評価基準とされた。ページ数が多いか少ないかは判断基準ではなく、研究内容と論理展開がどうであるか客観的な判断を加えた結果、政治家の自己宣伝、自画自賛に学位を与えることなどできなかったと見られている。指導教官には理事長が就き、しかも設置者であるという点で、一般学生に対する評価と比べて客観性を担保することへの困難性が指摘されていたが、最後は市立大学に所属する知識人の良識が示された。
不合格決定を受けて中尾市長は「四年間真摯にやってきて、なぜ学問的に否定されるのか不思議でならない」と不満を口にしている。不思議でならないのは、自慢話でなぜ学位が取得できると思ったのか、学問として認められると思ったのかという点で、理事長の指導責任についても、本来なら500ページもの論文は取捨選択が効いておらずまとまりがない論文としか見なされないのに、何をもって学位を与えようと判断したのか、どのような指導的かかわりをしていたのか疑問の声が上がっている。
誤解生まぬ他大学へ編入を
大学運営側の体制として、設置者なり政治家におべんちゃらをしてとり入る構造があり、長年にわたって学問を否定してきた結果が今回のような事態を生み出した。江島市長時代には、市長側近の天下り役人たちがグラウンド工事やトイレ改修、大学寮の設置、後援会経費の使途などを巡って利権をやりたい放題やって私物化し、最終的には刑事事件にまで発展した。市長が変わると、これも極めて個人的な学位取得の道具としか見なさず、あるいは幹部職員のポスト争いの道具として私物化することとなった。
まず第一に、公私混同が甚だしいことをみなが指摘している。論文発表会には公務時間であるにもかかわらず、市幹部職員がぞろぞろと駆けつけた。いったい誰の指示で一個人の自慢話を公務として聞きに来たのか、総務部長はどのような指示を出したのかも疑問視されている。
いずれにしても、勉強したり研鑽を積む場合は黙って陰で努力すれば良いことで、他人にひけらかす必要はない。本当に学問の道を極めたいのであれば、市長をやめたうえで腰を据えて勉強することは中尾市長本人の勝手で、周囲が口を挟むことではない。ただ、現職市長として「学位を寄こせ!」というなら、その場合は誤解を生まないように、山口大学なりよそに行って客観的な視点で判断を仰ぐべきである。
今後、設置者権限による仕返し、逆恨みによる制裁がはじまった場合、これほどみっともない場外乱闘はない。そのたびにみなが「不合格にされたからだ」と見なすことになる。五〇〇ページの論文は、設置者権限の及ばない他大学に持ち込むことがもっとも適切な措置と見られる。余計な感情を持ち込んだこと自体、設置者として不適切な言動である。