いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

“あの日”海底で何が――長生炭鉱・朝鮮人労働者の証言『アボジは海の底』 長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の記録から

82年ぶりに発掘された長生炭鉱の坑口と沖に見えるピーヤ(排水・排気口)(10月26日、山口県宇部市床波)

 1991年に結成された「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(共同代表/井上洋子・佐々木明美)は、発足当初から事故当時の証言集の作成ならびに資料収集にとりくんできた。事故当時の関係者や遺族を探し出して証言を集め、2011~2023年にかけて『証言・資料集 アボジは海の底』を4冊発行し、水非常(水没事故)の全貌を明らかにしてきた。事故当時、働いていた朝鮮人や、父親を事故で亡くした直系遺族(息子)、さらに水没事故を目撃した在日コリアンの証言などが収録されている。90年代から「刻む会」が体験者から聞き取った証言のほかに、80年代に発行されていた証言資料などから転載されたものもある。長生炭鉱の水没事故による犠牲者の遺骨発掘への動きが活発になるなかで、あらためて朝鮮人強制労働の実態とはいかなるものであったのかに関心が高まっている。今回、刻む会の許可を得て、冊子『アボジは海の底』から長生炭鉱で事故当時働いていた朝鮮人労働者の証言を連載で紹介する。(話し言葉の一部は省略した)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

日本に朝鮮人を運んだ関釜連絡船(1923~1942年)

金景鳳(キム・ギョンボン)さん

 

強制連行で長生炭鉱に

 

 1941年、私が18歳の時に日本の巡査が突然、家(慶尚北道迎日郡・現在の韓国浦項市)にやって来て連行されました。オモニ(母)は巡査の足を引っ張り、ダメだ、ダメだと泣いて引き留めたのですが、巡査は私を引っ張って連れ出しました。

 

 トラックに乗せられ、釜山に到着しました。そこですぐに荷物を積む大きな船に乗せられ下関に行きました。下関の港には70~80人がいました。各人がヘルメットを着けさせられて、行き先を指示されました。私たちは小さな船に乗せられました。目的地に着くと、同じ村出身で知り合いだったお兄さん2人が「ここは山口の長生炭鉱だ」と教えてくれました。

 

長生炭鉱での過酷な労働

 

 キャップライトを点け、つるはしを担ぎ、腰に電池をつけて狭い坑道に入って行きました。海底の坑道にはトロッコ本線が延びていました。石炭を掘り出す場所はとても狭く天井も低かったです。天井から石が落ちて亡くなった人もいました。坑道の空気はひどく悪かったから、コレラが流行りました。私も罹(かか)り、もう死んだと思われたのか火葬場に連れて行かれそうになりました。その時、同郷のお兄さんがゴソゴソ動く私に気づいてくれて助かり、山深い病院に入院しました。

 

人間らしい生活を求め脱出、再脱出

 

 寮は1部屋に30人も入れられて、真ん中が通路でした。みんな通路側に足を向けて寝ました。寒いときは、2人で2人分の毛布を一緒にかけて寝ました。苦しい炭鉱の生活を抜け出すため3人で逃げました。しかし、長生海岸の砂浜で道に迷っているところを捕まりました。2人は30歳以上だったためか、殴られて殺されました。18歳の私は木の棒でしこたま殴られましたが、命は助かりました。しかし、今もその時の傷跡が頭の部分にあります。

 

 水没事故の後、再び脱出しました。今度はなんとか逃げられました。途中3日間、飲まず食わずでしたが、親切なおばさんがご飯をくれて助かりました。とてもありがたくて、このおばさんの事は今でも忘れていません。1週間後、北九州の八幡製鉄所で働きました。

 

“水非常”当日

 

 1942年2月3日の日、夜の作業を終わって、朝9時ごろ交代して坑口に上がってきました。その時、一番方に知り合いのお兄さんがいたので「行ってらっしゃい」と声をかけました。その後、寮に戻って30~40分後に水没事故が起こりました。私はいち早く坑口へ駆けつけました。その時はもう、坑口は松の板で塞がれていました(注)。その周りを20人ほどの日本人が忙しく働いていました。坑道には200人ほどが下りていたのに、坑道にあふれた水が市内を洪水にするからと塞いでしまったのです。

 

 (注)金景鳳さんは、2007年2月3日(当時84歳)の65周年長生炭鉱水没事故犠牲者追悼式に参列し、そのときの集会で「一緒に働いた人々は海の中に埋められたままなのに、私はこうして生きて歩いている。この人たちと一緒に死んだらよかったのに……。できるだけ早く、この人々の遺骨を引き揚げてほしい」と訴えた。

 

九州筑豊炭鉱で露天掘りをする朝鮮人労働者

薛道述(ソル・ドルス)さん

 

1939年10月 強制動員で長生炭鉱へ

 

 私が21歳のときです。蔚山(ウルサン)で働いていたら、郷里の慶尚北道迎日郡(キョンサンブクドヨンイルグン)の支署から「募集」があったと、父から知らせが来ました。里長のスドン長老からジャンギ支署に行けといわれ、そこで日本人の「募集」人から簡単な身体検査を受けました。動員された者はジャンギ面だけで数十人はいたと思います。「募集」動員者は浦項(ポハン)駅経由で釜山へ移動、その後、関釜連絡船で下関に連れて行かれました。

 

 下関到着後は、鉄道移送ではなく、待機していた小船に乗り換えさせられました。全員ヘルメットを被せられました。そして、小船は長生炭鉱の石炭を積み出す桟橋に横付けしたんです。いうならば、会社の敷地に入って私たちを降ろしたようなもんです。

 

長生炭鉱での生活

 

 私たちが生活した朝鮮人寮は、口の字型の4棟で高い板塀に囲まれていました。出入り口を1カ所だけ使うようにし、その出入り口を監視する専従の人を配置していました。私たちは逃げ出すこともできずにいたけど、寮に入ってからもたくさんの朝鮮人が逃げました。だけど、逃げて捕まった者はぶったたかれていました。

 

 私たちは、忠清道(チュンチョンド)の人たち、迎日郡(ヨンイルグン)の人たち、慶尚北道軍威郡(グニグン)など、みんな合わせて700人が交代で一つの食堂で飯を食べていました。でも、寮からあんまり多くの朝鮮人が逃げ出すので、ロの字型の建物を本式に建てたんです。部屋数が多く、たくさんの共同便所も造りました。

 

 寮内には理髪所や郵便ポスト、売店等の施設があり、外に出なくても簡素な日常生活が可能となるようにしていました。しかし、同じ寮内といえども、他の棟への出入りは厳しく禁止されていました。朝鮮人が親しくなったり、情報を持ったりすることを心配したのでしょう。給与は出来高払いで、一函(石炭0・5㌧)いくらとなっていました。しかし、現金をもらったことはありません。給与の一部は家に送金できて、実際に故郷の父親までお金が届いていました。

 

私の坑夫番号は2227番

 

 私は鉱山での番号が2227番でした。もう2000人以上がこの炭鉱へ動員されていたのです(注実際は2001番から始まっていた)。炭鉱にいたときからすでに60年以上経つのに今でも日本語で、「ニセン、ニヒャク、ニジュウ、ナナバン」といえます。なにせ、この番号でお金をもらうのですから。私は「募集」の一番先に長生炭鉱に行ったのですが、逃げるやつもいたけど、結局、気がついたら永いこといたんです。永いこといたが、鉱山の仕事はきつかった。

 

“水非常”の当日

 

 私は水没事故の前日に入坑しました。それより前に、坑内での出水のことはなにも聞かされていなかったです。でも、ここ3、4日続けて坑内水が多かったりしていたので、2人の坑内係は水没事故の予感らしいものがあったようです。彼らはなにか気づいている風でした。水没事故の日、朝五時過ぎに坑内から上がり、風呂に入ってから寮で休んでいました。すると、「作業服で早く坑口に来い」と中村監督員がいいに来ました。まもなく事故のことを知りました。

 

 坑口はすでに海水で満ち、駆けつけた警察隊と炭鉱職員が家族たちといい争いながらもみ合っていました。そのうち、水で満たされた坑口を分厚い板で塞ぎ始めました。海面より高い場所にあった炭鉱住宅地まで噴き出た海水が上がってくることは考えられないことで、これは、家族たちが坑口に近づこうと激しくもがくことによって起こるかもしれない二次的被害を防ぐためにとったことだと思います。絶望的な状況を前に家族たちの「アイゴー、アイゴー」の声がいつまでも聞こえていました。

 

事故後第二坑で働き、その後小野田へ

 

 第二坑は旧新浦炭鉱を合併した炭鉱です。私は水没事故後も長生炭鉱に残ってこの二坑で働きました。坑内は事故のあった本坑より湿度が高く、蒸されるように暑くて大変でした。海水も頻繁に浸水してきて採炭作業がうまく進みませんでした。それで私が採炭できる石炭量も少なく、結局、知人の紹介で小野田の本山炭鉱に移るしかありませんでした。私は本山炭鉱の社宅に嫁さんを呼び寄せ家庭を持ちました。

 

 その後、筑豊の方城炭鉱、小野田の若山炭鉱、船木の沖田炭鉱と渡り歩きましたが、最後は、再び小野田の本山炭鉱に戻り、そこで解放の日を迎えました。

 

炭鉱で働く朝鮮人労働者たち

申世玉(シン・セオク)さん

 

募集係の甘い言葉に騙されて

 

 1941年、20歳の時に日本へ行きました。長生炭鉱の募集係がやって来て、「日本へ行ったら金儲けになるから申請しませんか」と言葉巧みにいわれました。その頃、自分の家は日本の植民地のため生活が非常に苦しかったので、申込みをしたらトラックに乗せられて釜山に連れて行かれました。

 

 釜山から関釜連絡船で下関に着くと、募集係や炭鉱関係者の態度がガラッと変わりました。彼らの表情は厳しく、自分たちの目が左右に動いただけで怒鳴られました。

 

お腹が痛いのに仕事を強いられた

 

 坑道の一番危険をともなう一番深いところ、海水が漏れるような場所に朝鮮人を優先的に行かせて石炭を掘らせました。日本の坑夫たちは、自分たちが堀ったものをただ運搬するようなそんな仕事のやり方でした。

 

 健康状態がよほど耐えられないで、うめき声を出すような状態でないと休ませてくれません。「お腹も痛いし、今日は休ませてください」というと、「ダメだ、入れ」といわれました。やむを得ず坑内に入ったけれど、作業どころでなく、お腹が痛くて転げ回りました。坑内の監督が見るに見かねて、一応坑外に出て行けといいました。

 

 坑外に出ると、別の監督が待ち構えていてキャップライトを返す場所やタコ部屋に連れて帰るまでずっと見張っていました。逃げようとしても、宇部新川やその周辺にも取り締まりがいっぱいいて、すぐ捕まってしまいました。捕まって袋だたきされているのを何人も見た人がいました。そういう様子を知っていたので、恐ろしくて自分は逃亡した経験はありません。

 

寮生活と賃金

 

 長生炭鉱の寮の中に入ったとたん、周囲は人の背の高さの2倍くらいの高い板で囲まれ、どれほど力があってもよじ上れないような塀でした。寮から逃げて、運悪く捕まえられ再び連れ戻された時は、素っ裸にされ「坑夫たち、皆見なさい、リンチがあるから」といって、木刀ではなく革の帯を持って、命がなくなるほどリンチされました。「二度とこういうまねはするなよ」というわけです。逃亡があったのは、水没事故の前の事です。

 

 寮の中の自分たちの部屋はすぐそばが海になっていて共同便所がありました。部屋は真ん中に通路があり、その両側に畳一畳の幅で鰻の寝床のようになっていて、頭と足を互い違いになるようにして寝ていました。正月であれ、盆であれ炭鉱では日ごろと全く変わりませんでした。食事はご飯にほとんどが野菜類でした。ご飯は自分らを働かせるためにお腹いっぱい食べさせました。寮内では日本人の行商人が出入りしていましたが、自分は1回も買ったことはありません。

 

 1日の日当が2円で、その上に石炭をたくさん掘ってその箱の缶数によって日当も良くなっていくようになっていました。訓練期間が終わると、賃金は出来高払いになります。古参連中は採炭のいい場所を取って石炭をパッパッと入れてさっと上がるのですが、新参者は一番悪い場所に行かされてたくさん働いても2缶にもならないという状況でした。

 

 賃金はどうなっていたかとかに頭を使う余裕もなく、日本人が賃金をいくらもらうかそれは記憶ありません。貯金も会社に一任していましたが、国のここに送ってくださいとお願いしたけど、まともに貯金されたものか、送ったものかはっきりはわかりません。長生炭鉱で働いて貯金したお金は故郷の親に聞いても全くはっきりしません。自分が大阪で3年間働いて送ったお金を、親は間違いなく受けとっていました。

 

坑内の仕事

 

 1年数カ月の間、長生炭鉱で朝昼晩、深い海底の坑道に入って仕事をしました。一番奥までは2キロ半くらいで、全く線路もなくキャップライトをつけて入って行きました。二番交代で、一番方は朝8時に坑内に入ったら夜中に終わり、2番方はそれから朝までする1日12時間のきつい労働でした。坑道は海底だからしょっちゅう水漏れがしていました。水漏れがするところは掘れないから、こっちも少し、あっちも少し掘ったりしました。ある時、よく聞いたら船のエンジン音が聞こえてきました。疲れた時に一服吸うのは、ガス気があったら爆発するからガス気のない所を選びました。

 

水没事故当日

 

 自分たちが朝入ろうと思って待機して寮にいたら、真夜中に入った人たちが水没事故にあいました。ピーヤまではかなり遠い気がしたから、坑口から4キロどころじゃないと思います(注実際は坑口から約1キロの地点から噴き上がっていた)。泡がぶくぶく上がるということは、この奥が4キロ以上のかなり深いところから事故によってピーヤからダーッとこんなに噴き上がったということです。

 

 水没事故では180数名の犠牲者の中から奇跡的に助かった人がいました。日本名で豊田といいました。戦後は本名になっているので、彼の故郷の村に行ってもわからないと思います(注水没事故の朝鮮人犠牲者のうち、本名が確定できていない方々が29名いる)。

 

水没事故後は

 

 長生炭鉱の水没事故後、3日から10日くらいは海に畳を入れるなどの作業をしていました。それから長生炭鉱の二坑(旧新浦炭鉱、床波海岸の江頭側左岸にあり、1921年12月に海底陥落による水没事故が起こった)に入って作業しましたが、ここはどう考えても危険だと思い、休みをもらった日に大阪に逃げました。大阪への旅費は月に20円くらいの収入を貯めていたので、それを使いました。解放後の9月中~下旬頃、博多から帰国しました。船がすごく混雑していたのをよく覚えています。

 

 帰国者で運が悪かった人たちは、小さな船にたくさん乗りすぎて転覆して亡くなったり、船が機雷に触れて亡くなった者がいっぱいいました。その月の台風で亡くなったりしました。

 

(各証言を本紙で連載中)

 

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。