(2024年11月6日付掲載)
戦時中の1942(昭和17)年2月3日に起きた水没事故で、朝鮮半島出身者136人を含む183人が犠牲となった山口県宇部市床波の長生炭鉱。海の底に残されたままの遺骨を収集し遺族への返還をめざす「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(共同代表/井上洋子、佐々木明美)は、10月末から本格的な潜水調査をスタートした。地元で暮らす在日朝鮮人の人たちは、特別な感慨をもってこの事態を見守っている。現在、日本で生活する朝鮮人の多くは、植民地時代に朝鮮の土地を奪われ生活の糧を求めて日本に渡ってきたり、強制連行された人たちの子孫(2世~6世)だ。遺骨収集に向けた動きが全国的に注目を集めるなかで在日の人たちは何を思うのか。共通して語られるのは、故郷を奪われ日本で苦労して生きてきた1世たちへの思いだ。
深まる日韓・日朝市民の連帯
長生炭鉱の潜水調査の様子を見守った宇部市在住の在日朝鮮人の男性(82歳)は、沖の坑道の続く坑口に近づき、「アボジー(お父さん)、オモニー(お母さん)」と声をかけ、坑道から流れ込む水をすくって口にふくんだ。潜水調査後にはダイバーの伊佐治氏に「ありがとう!」と握手を求めていた。
男性は、長生炭鉱の水没事故が起きた年に生まれた。当時、父親は長生炭鉱で働いており、「坑内では頭のすぐ上を通る船の焼玉エンジンの音が聞こえて怖い」という父親の話を聞いた身重の母親が、「もう炭鉱には行くな」と止めたため水没事故の被災は免れたのだという。
戦時中に日本の植民地だった朝鮮半島(現在の韓国)から日本に渡ってきた親たちは、植民地時代の苦労話は一切語らず、子どもの前では朝鮮語で会話をしていたため、日本語しか知らなかった男性には聞きとることはできなかった。そのため父親が長生炭鉱の労働者だった事実を知ったのは大人になってからだった。
37歳のとき、長生炭鉱の坑口付近に残る長屋(事務所)に仲間たちと初めて足を運んだ。そこには大型の扇風機や大きな飯釜のようなものがそのまま残されており、若い成人男性が暮らしていたとされるタコ部屋の壁には「お母さん」や「帰りたい」などのハングル文字が生々しく残り、事務所内にあった労務日誌も見つかった。長生炭鉱で働いていた朝鮮人労働者の名簿に知った名前もあったため、貴重な資料と思い持ち帰った。その後、東京にある総連本部に保管を依頼したが、「長い年月のなかで散逸してしまい、残念でならない」という。当時は朝鮮人が日々暮らしていくことそのものが困難な状況のなかで、永住権の確保や市営住宅への入居など生きるための権利を確保することに力が注がれ、日々を生きるのに精一杯だったこともあり、長生炭鉱の調査まで手が回らなかったからだ。
最近になって長生炭鉱の遺骨発掘に向けた動きが活発化し、「30年前から日本の方が継続して調査を進めてくれたおかげでここまできた。感謝しかない。朝鮮籍であるため故郷の韓国に行くのは難しいが、死ぬまでに一度は行きたい」と語る。
潜水調査を見守った宇部市在住の在日2世の女性(75歳)は、「戦前、朝鮮半島は日本の植民地となり、両親は生活圏を奪われ、祖国では生きていくことができず追われるようにして日本に来た。最初に流れ着いたのは、奈良県の生駒市。その後、山口県の田布施、光、徳山(現在の周南)を転々として暮らした。屋根瓦を焼くような場所にバラックを建てて住んだり、川べりだった時は豚を飼ったり、段ボールを拾ったりして生計を立てていた。両親は、朝鮮人とばれると殺されると思っていたようで、ひそやかに生きてきたように子どもながらに見えた。私も子どもの頃は朝鮮人であることを隠して生きてきた。両親は私のために朝鮮のチョゴリ(民族衣装)ではなく日本の着物を用意していて、わが子を日本人として育てようとしていたのだろう。在日1世は相当に苦労したと思う。同胞同士が寄り添って生きてきた。先日、坑口前で追悼集会が開かれたが、遺族の方の言葉に涙が出た。同じ民族としていたたまれない気持ちになった。刻む会で30年かかわってきたが、このたびこうして民間の方たちが協力してくれたおかげで潜水調査までできた。本当にありがたいことだが、本来ならもっと国がかかわってやるべきことだと思う」と語った。
10月26日の「長生炭鉱の坑口開けたぞ! 集会」に娘と参加した宇部市の在日2世の女性は、「父は長生炭鉱ではないが、別の炭鉱で働いていた。宇部の厚東川ダム建設でも朝鮮人労働者が働かされている。1世は自分たちの苦労話を子どもには語ってこなかった。相当つらい思いをして生きてきた。同胞たちのなかでも、なぜ自分の先祖が日本に来たのか知らない世代が増えてきている。今は在日6世までいる。刻む会の人たちは在日以上に熱心に尽力され、本当に感謝している」と語っていた。
同じく集会に参列した在日2世の女性(82歳)は、「30年前に最初にピーヤを見たときはとめどなく涙が流れた。今回、坑口を見て胸が苦しくなった。ここに183人の恨(ハン)が埋まっていると思う」と話す。植民地化で暮らしが立ちゆかなくなって日本に渡ってきた両親のもとで、広島の呉で生まれ、戦時中には空襲から逃れるために防空壕に入っていた記憶が残る。戦後は父親が早くに亡くなり母親は女手一つで6人の子どもを育てた。一度は故郷の慶尚北道(韓国)に帰ろうとしたが断念し、その後に朝鮮戦争が始まって親戚の1人は朝鮮戦争で亡くなり、1950年代からの在日朝鮮人の帰国運動のなかで兄弟の1人は北朝鮮へ渡った。日本の植民地支配とアメリカによる祖国分断によって家族、親戚は日本、韓国、北朝鮮とバラバラに暮らしている。
「母は亡くなる前、親戚2人が宇部で行方不明のままだと話していた。今回の集会で配られた犠牲者の名簿に、慶尚北道出身で同じ名字の人があった。もしかしたら血の繋がった人なのかも知れないと思った。あの戦時中から戦後にかけての時期は家族、親戚がどこで亡くなったのかわからない事例も多い」と語る。
「日本政府は在日朝鮮人に対して差別をしてきたが、私たちは善良な日本の市民の人たちに救われてきた。戦時中に教員をしていた日本の方が以前“教え子に戦争に行けと送り出して酷いことをした。朝鮮の人にひどいことをした”と謝ってこられた。日本で差別を受けたが、自分たちの尊厳を守るために生きてきた。私たちは今も海の中に眠る遺骨の人と同じなんです。人間としての尊厳をもった人生を歩みたい」と語り、遺骨が遺族のもとに返還されることを願っている。
在日3世としての思い
在日1世を祖父母に持つ30代の男性(在日3世)は、小学生のころに祖父から壮絶な体験を聞いてきた。祖父は20代のころに日本の植民地支配に抵抗したことで「政治犯」として兄とともに日本に連れて来られ、下関と九州を結ぶ関門トンネルで働かされたという。
「兄は、まるで鉄砲玉のような扱いで一番危ない場所で働かされて作業中に亡くなった。このままだったら自分も殺されると思い、何人かの朝鮮人とともに逃げたが散り散りバラバラになった。最終的に祖父は、朝鮮人に対する不当な扱いに抵抗していた日本人を頼って東京まで逃げた」。その後下関に戻り、14歳ぐらいのときに軍隊相手の場所で慰安婦として働かされていた祖母と出会って結婚した。
「子どものころ、祖父は自分の経験を朝鮮将棋をしながらポツポツ話してきた。壮絶な人生だったが、日本人を恨んでいるという思いは聞いたことがない。すべては戦後、日本政府が、侵略や強制連行の事実をきちんと認めて謝罪することもせず、在日朝鮮人の存在をそのまま放置してきた結果が今だと思う。長生炭鉱の水没事故のように一カ所で一度にあれだけの人が亡くなった事故はない。だが日本のいろんな場所で朝鮮人が危ない労働をさせられ、亡くなっている。長生炭鉱の水没事故で埋まった骨の大半が日本人のものであるなら日本政府は回収しているはずだ。日本政府の責任として遺骨の発掘はやるべきだ」と語る。
在日2世の父と日本人の母のもとに生まれた在日3世の女性(40歳)は、10月26日の追悼集会に小学生の子どもを連れて参加した。父方の祖父は、戦時中、17歳のときに日本に連れてこられ、祖母は福岡の麻生炭鉱で働く両親のもとで生まれた在日2世だ。彼女自身は親から「あなたは韓国人だよ」といわれながら18歳までは日本名を名乗り、日本の学校で学んだ。高校2年生のときに在日のサークルで筑豊炭鉱の歴史などを学び、同胞の仲間と出会って、日本で生まれた自分がなぜ韓国人なのかというルーツを深く認識して、大学生になってからは民族名を名乗るようになったという。
「ルーツを知った以上、それを隠しながら生きることにモヤモヤを感じたから」だという。一方で弟たちは朝鮮人のルーツがあることを隠しながら生きており、家族間でも事情は異なる。
わが子には自分のルーツに向き合ってプラスのアイデンティティを育ませたいと思い、朝鮮学校に通わせている。民族の歴史や言葉を学んで日本社会で堂々と生きて欲しいと願い、長生炭鉱の集会にも子どもとともに参加した。「長生炭鉱のことは他人事ではないと思っている。もしかしたら犠牲者は自分の祖父母だったかもしれない。追悼集会で、犠牲者の1人が事故前に母親宛に送った手紙が紹介された。“垣根は3㍍程の厚い松の板で囲ってあり、鉄条網が張りめぐらされている。囲いの中にある宿舎はまるで捕虜収容所のようなところ。警備も厳しく、一切の自由もなく、外出もできない拘束の中で生活しています……”という内容を聞いて、朝鮮人であるがゆえに劣悪な環境に置かれていたことを改めて知った。まだ在日朝鮮人は戦後を迎えていない、植民地支配から解放されていないと改めて思った。長生炭鉱は、労働者の名簿があり遺族もわかっているが、福岡の筑豊炭鉱は名前などなく“鮮人”としか書かれていない骨壺が無縁仏として納められている。その意味でも長生炭鉱の運動は、過去を清算し国を動かしていくまたとないチャンスだと思っている」と語る。
また長生炭鉱の遺骨返還事業にとりくむ「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の人々、筑豊炭鉱の掘り起こしを真剣におこなっているのは日本の市民であること、「刻む会」の会則には「山口朝鮮学校の支援」も含まれていることに注目して、「過去の歴史に向き合うことと今からの子どもたちを育てる民族教育を守ることを目標に掲げておられる日本の方々の存在が希望だ。私は日本にルーツがあることが苦しかった時期もあったが、日本のルーツを大事にするためにも朝鮮のルーツに向き合うことが大事だと考えるようになった。植民地時代から変わらない意識が日本社会に漂うなかで、在日の先輩たちが身体をはって引き継いできた民族の言葉や、消されそうになった歴史を今度は私たちの世代が子どもたちに伝えていくのが役割だと思う。先日、下関市長が“お悔やみトリップ”と発言したことがニュースになっていたが、日本人として広島、長崎の体験をどう次の世代に伝えていくかという課題と同じではないか」と語り、同年代の日本人の仲間を増やしていきたいと話していた。
日本の若者も向き合う
日本人のなかでも、「人として大事なことだ」「日本人としてきちんと向き合わなければいけない」と、刻む会の活動への共感が語られている。
50代の女性は、学生時代の研修でダムを見学し、かつて朝鮮人が多く犠牲になった事実を知った。さらに調べると地元・北海道にも、朝鮮人が動員され犠牲となって建設された人造湖があることを知り衝撃を受けた。それはその後の生き方に大きく影響を及ぼすことになったという。
「それ以来、日本政府がかつておこなった強制連行の歴史を知らないままで、日本人と名乗ってはいけないと思った。日本人としてきちんと知らなければならない歴史だと思った。“加害、被害”などという話ではなく、まず日本が戦争中におこなった歴史の事実を知ることからしか見えないことがある」と語り、長生炭鉱で進む遺骨発掘への動きが決して他人事ではないと受けとめている。
下関市内の30代の女性は、長生炭鉱がある海底に朝鮮人を多く含む183人の犠牲者の遺骨があることを知り、ちょうど韓国に留学中だった13年前の東日本大震災が起こったときのことを思い起こしたという。当時、韓国のある商店で年配の女性が「昔、日本が悪いことをしたからバチがあたったのよ」といわれ、なぜそんなひどいことをいうの? と不快に思ったが、韓国の教授に「日本は全然、戦争のことに向き合ってない」「過去を反省していない」とも指摘されて、日本が植民地にした朝鮮人の視点から見ると、まったく違う日本の歴史があることを知ったという。それが勉強する契機になった。
「82年間、埋まっていた坑口を市民の力で見つけて、国を動かそうとする方たちの行動に頭が下がる。歴史に向き合うということは遺骨に対して誠意をもって向き合うことだと思う。それは政治的な問題ではなく、人間的な問題だと思う」と語っていた。
在日朝鮮人の歴史的体験の記事について、朝鮮は日本の植民地にされ、言葉も字も奪われ国も奪われ、三十六年間多くの朝鮮人が殺されて苦労しています。アメリカのために強制連行で戦争にも引っ張られかねない状況だと感じている。米国の吹く風のままに動くのが情けない。平和のために一所懸命日本人と朝鮮人が協力して本当に仲良く戦争を二度としないような、自分たちの尊厳を守り、私たちは人間の尊厳をもった人生を、歩みたいと思いました。
歩みたい。