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坑口開口計画を宇部市に通告 長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会 日韓市民の手で遺骨の発掘・返還へ 問われる国・行政の対応

右から長生炭鉱事故遺族の朴氏、楊氏、「刻む会」の井上洋子共同代表、上田慶司事務局長(16日、山口県宇部市)

 山口県宇部市床波の長生炭鉱で82年前に起きた水没事故の犠牲者183人(うち136人が強制連行で日本に渡った朝鮮半島出身者)の遺骨を遺族に返還する運動を続ける市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下、「刻む会」。共同代表/井上洋子、佐々木明美)は16日、宇部市内で韓国の遺族とともに会見を開いた。今年中に坑口を開ける工事に着手する計画を発表するとともに、所有者不明となっている坑口付近の土地について独自調査した結果、所有者は宇部市であるとの結論に至った経緯と理由を明らかにし、宇部市長宛の工事通告書を手交した。

 

 会見では、はじめに長生炭鉱・大韓民国遺族会会長の楊玄(ヤン・ヒョム)氏が挨拶し、韓国で遺骨返還を待ちわびる遺族たちの思いを伝えるとともに、日韓関係の発展的な未来のためにも早期の犠牲者の遺骨発掘・返還に向けて協力を訴えた。

 

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韓国と日本の発展的未来のため早期の遺骨返還を

大韓民国遺族会会長 楊玄

 私は長生炭鉱犠牲者大韓民国遺族会の会長であり、水没事故犠牲者・楊壬守(ヤンイム)の甥の楊玄と申します。

 1993年から「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の招待により、初めて床波の海岸の砂浜で追悼式をおこない、その後、事故現場を踏査しながら、その当時の生々しい証言と、海底に遺骨が放置されたままになっている事実を知り、計り知れない悲しみを抑えることができませんでした。

 跡形もなく消えてしまっていた坑口と海の中にぽつんと立ちそびえていたピーヤを見ながら、恨みを抱いたまま犠牲となられた父親の名前を泣き叫びながら慟哭していた遺族たちのことが思い出されます。

 このときの遺族たちは82年という長い年月のなかで、遺骨を発掘して故郷へ連れて帰ることさえもできないまま、また一つ、恨みを胸に抱いたまま一人一人とこの世を去っています。あまりにも痛ましく切ない限りです。

 犠牲者のなかで結婚もせずに亡くなった場合、両親と兄弟たちの心に傷を残すことになりますが、既婚者の犠牲者の場合は家計に責任を持つ父親であるため、嫁や子どもなど家族たちすべての幸せが奪われ、家族個人個人の一生を苦しくしてしまったのです。

 また、残された嫁が一人で生計を立てるのも苦しく、家族がバラバラに暮らしたり、普通に学校に通って勉強することもできず、他人の家の仕事を手伝いながら幼い時期を過ごした遺族が大部分でしたし、貧しさを受け継ぐ結果を生み出すことにもなりました。

 このような遺族たちの心の奥深くにいまだに残っている恨みは、どうすればなくすことができるでしょうか?

 犠牲者の遺骸を遺族たちの元へ返すことが人道主義の側面から、そして今後の日韓関係にあっての未来志向的な側面から、当然進められなければならない道理であり、遺骨返還問題が単純に遺族たちのためだけではなく、日本と韓国の過去と現在にきちんとけじめをつけ、発展的な未来に向かうための当然なされるべき重要なことであると認識してくださいますよう、もう一度切にお願い申し上げます。

 日本が犯した過ちは伏せたからといってなくなるわけではなく、時間が過ぎたからといって忘れられるものではなく、歴史のなかに永遠に汚点として残るものなのです。

 ですから1日も早く歴史の汚点に謝罪し、遺骨を発掘し、犠牲者が故郷で永遠の眠りにつけるよう再度お願い申し上げます。

 最後に、このようにお集まりくださり、心を共にして、ご参加くださっている皆様方に心より感謝申し上げます。

 

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 楊氏の叔父・楊壬守(ヤン・イム)氏は戦時中、日本の植民地だった朝鮮半島から日本に強制動員され、20歳の若さで働かされていた長生炭鉱の水没事故で犠牲となった。楊氏は日本に徴用されて亡くなった息子の帰りを待ち続ける祖母の姿を目の当たりにしてきたという。1991年、「刻む会」が犠牲者名簿をたどって遺族宛ての手紙を出したことをきっかけに、韓国では翌92年3月に大邱(テグ)で遺族会(68名)が結成され、遺族たちは刻む会の招待で毎年、宇部市床波海岸でおこなわれる追悼式に出席してきた。

 

 楊氏は「最初に床波の浜辺でおこなわれた追悼式は非常に簡素なもので心細かったが、2013年には立派な追悼碑が建立され、私たちは非常に喜んだ。それまで韓国遺族会として宇部市、山口県、韓国政府とも交渉してきたが何の対応もなされなかった。昨年12月8日の日本政府との交渉をきっかけにして、刻む会が“坑口を開けなければならない”と宣言されたことに感極まっている。昨日(15日)の集会には、韓国から元副総理を含む著名人たちが参加した。その光景を見て、私はこれでようやく長生炭鉱水没事故について光が当たるのではないかと確信している」とのべた。

 

 同席した遺族の朴正日(パク・チョンイル)氏は、生後1カ月のときに起きた長生炭鉱水没事故で父親が亡くなったため、父親の記憶がないという。「坑口を開いて遺骨を発掘することは当然の願いであり、喜びだ」と言葉少なにのべた。

 

 15日に追悼碑前でおこなわれたスタート集会では、韓国から遺族、元副総理、弁護士、市民、高校生など約60人が出席し、日本側の参加者とともに今年10月26日に床波海岸付近にある坑口を開けて遺骨調査を始めることを確認した。さらに国内外の水中洞窟などで調査実績を持つ大阪府のダイバーの男性からの申し出を受けて、7月25日に長生炭鉱遺構であるピーヤ(海から突き出した2本の排気・排水筒)から潜水調査を実施し、そこで調査可能と判断できれば、さらに複数のダイバーが日を改めて潜水調査をおこなうことにしている。


 その費用を募るためクラウドファンディングも開始した【前号既報】。

 

坑口の土地所有権問題 事実上宇部市に帰属

 

長生炭鉱の坑口付近。左奥には海から突き出たピーヤが見える(宇部市床波)

 いよいよ海側、陸側からの調査が始まるが、坑口は事故時に閉じられてから82年が経過しており、開けるためには重機を入れた掘削工事が必要となる。そのうえで一つのハードルとなるのが土地の所有権問題だ。

 

 刻む会の井上洋子共同代表は、「追悼碑を建てるのに22年がかかったのは、現場の土地の所有権が不明で入手することが困難だったからだ。遺族たちは遺族会結成当初から遺骨発掘と返還を一番大切な目標として日本政府に要求してきたが、国や地元行政は動かない。私たち刻む会も力量の問題から、その課題にとりくまなかったことに大きな負い目を感じている。そして2013年3月の追悼碑建立後、遺骨発掘に向けてとりくむことが決まった。そのうえでもやはり土地問題の解決が迫られる。坑口がある土地について専門家にも依頼して調査してきたが、手に入れることは難しいのが現状だ。そして最終的に宇部市が所有者であるという確信を持つに至った」とのべた。

 

 刻む会事務局長の上田慶司氏は、土地を巡る調査や交渉の事実経過とともに宇部市長宛の通告の内容について説明した。

 

 刻む会は、発足当初から追悼碑建立地を選定する目的で、長生炭鉱坑口付近の土地について調査してきた。坑口は2本のピーヤが見える床波海岸から陸側に50㍍ほど入った林の中にある。現在は草が生い茂り、坑口は土に埋もれているが、コンクリートの階段など遺構の一部は目視できる。法務局にもこの土地に関する公図はなく、土地の境界も明確でないため、地元での聞き取り調査などをおこない、おおまかな土地の状況を把握しながらも土地取得を諦め、現場から約500㍍離れた床波漁港前に慰霊碑を建立した経緯がある。

 

 2014年、刻む会は遺骨収集にとりかかるため、まず湾岸道路建設後に不明となっていた坑口の特定作業を開始。15年に業者に依頼して電気探査調査をおこない、坑口の場所を特定。この付近は湾岸道路建設がおこなわれるさい、宇部市が測量で土地情報を明確化しているが、それは法務局の資料には反映されていない。そのため宇部市に聞き取りをし、その情報から坑口の場所に該当する土地の地番(宇部市大字床波字江頭尻21465-1)と境界位置を推定した。

 

 この土地は旧土地台帳にも記載されており、明治期から地元任意団体が所有し、現在まで一度も所有者の変更はなく、登記簿上も同じ団体が所有権者となっている。この地元任意団体は漁民の組合であり、この土地を網干場として使用していたとされる。当初の地目は山林だったが、1938(昭和13)年の開墾成功によって宅地に変更され、その後、長生炭鉱創業時に長生炭鉱株式会社に貸与された。

 

 だが、この地元任意団体は敗戦後から現在に至るまで法人格がなく、団体として土地を所有する権利を有していない。2024年1月、刻む会による当該任意団体会長への聞き取りでは、この任意団体の現在の役割は墓地の管理だけであり、団体として土地を所有している意識も所有の意思もないことが確認された。宇部市もこの地元任意団体を「隣組のようなもの」との認識を示している。

 

 このように戦前にできた任意団体が現在でも所有名義になっている土地は多々ある。だが一方で、坑口に近い一部の土地が1968年に同じ地元任意団体から宇部市の所有(売買ではなく保存登記)に移っていたことが判明した。宇部市の説明では、終戦直後に出された「ポツダム政令」に基づいておこなわれた保存登記だという。

 

 「ポツダム政令」とは、1945年のポツダム宣言受諾にともない、日本政府を通じて発せられた勅令にもとづく命令の総称で、1947年5月の政令第15号では「町内会部落会又はその連合会に属する財産は、その構成員の多数を以て議決するところにより、遅滞なくこれを処分しなければならない」「…処分されないものは、期間満了の日において当該町内会部落会又はその連合会の区域の属する市区町村に帰属するものとする」(第二条)とある。

 

 つまり、日本軍国主義体制の解体のため、戦時中に戦争動員された町内会から隣組に至る任意団体は期限内に解散とともに財産を処分し、処分されない財産は市町が没収するという措置である。1952年の主権回復をもってこの政令は廃止されたが、その後も市への移管は認められている。

 

 入会地や民間の所有地であれば売買となるため、宇部市が保存登記することはできない。この土地の元所有者と坑口を含む土地の登記簿上の所有者は同じ団体であり、現在、団体として土地所有の意識も意思もないということを鑑みて、刻む会では、坑口付近の土地は「宇部市に帰属すべき土地であり、実際の所有権者は登記をしていないだけで宇部市である」という判断に至った。

 

 ちなみに、長生炭鉱は1914年に創業し、1922年5月に水没事故を起こして休業後、1932年11月に宇部式匿名組合(山口石炭統制組合)の形で操業を再開。1942年2月3日の水没事故後も操業を模索したが、終戦を契機に自然消滅(登記簿上は1947年に抹消登記)した形となっている。

 

保存登記を阻む宇部市 「関係ない」でよいか?

 

 1999年3月の宇部市議会定例会で、藤田忠夫宇部市長(当時)は「この(長生炭鉱)問題を解決できるようとりくむ」と答弁し、現在の篠﨑圭二市長もその答弁を引き継いでいる。2014年からは宇部市と刻む会で「問題解決協議会」を23年まで48回開催し、刻む会は遺骨収集への協力とともに坑口付近の土地の所有権を保存登記するように要求してきた。

 

 だが、宇部市は解決策を示すことも講じることもなく、事故を起こした会社が今はないこと、戦時中の問題は国の問題だとの理由で、遺族会や刻む会の要望を国に伝えるだけにとどまり、土地問題の解決も放置し続けてきた。

 

 刻む会は当初、坑口を含む土地の取得を目指したが、できるだけ早く遺骨発掘にとりかかる必要性から、宇部市に対して土地採掘の行為許可を求める交渉へとシフトし、宇部市が所有者である理由とその証拠を提示したところ、宇部市財産管理課はその一つ一つの事実については認めながら、坑口の土地については「宇部市とは関係ない」「地元任意団体の所有だ」と一方的に主張。だが現在の任意団体に所有権はないため、今年6月26日の交渉では「地元任意団体が登記している」に主張を変化させた。「市の所有ではない」の主張も「ポツダム政令で宇部市に保存登記する土地だったが、使用目的がなかったのでしなかった。市が動けば市のものになったが、昭和22年に用途がないのでそうならなかった。ポツダム政令当時、市として使用する目的がなかったから登記に至らなかったため曖昧になった」に変化した。

 

 「市とは関係ない」とくり返す宇部市に対して、刻む会は「宇部市に帰属する土地を、宇部市が登記していないことは行政の怠慢といいたいところだが、百歩譲っても“使用目的がない”から登記しないという理由は納得できない。日本人を含む183体の遺骨を調査し、海から引き揚げ、遺族に返すことは緊急の使用目的ではないか。さらに、坑口を日韓の市民の手で開けた場合、それは平和と人権、そして国際協力のシンボル・歴史的遺産として保存することも意義ある目的となる。市は“遺骨返還は重要な問題だ”と表明しながら、“坑口付近の土地について使用目的を思いつかなかった”では通らない」と主張している。

 

 事務局長の上田氏は「宇部市は昔から遺骨の存在を知っており、その土地を採掘して遺骨を返還したいという日韓市民の申し出がある以上、土地所有者として動くべきだ。宇部市は遺骨発掘の行為許可を求めても“市は関係ない”という態度に終始しているので、私たちは採掘作業に移るが、その後も土地所有者は宇部市であるという認識は変わらない。宇部市にはこの土地を保存登記し、重要な歴史遺産として保存していただきたい。そして遺骨調査も含めて協力してもらいたいということを引き続き求めていく」とのべた。

 

 遺族の高齢化が進むなかで時間的猶予がないことから、刻む会は10月末に坑口付近の土地を掘削し、坑口を開口後、安全確保のために坑口の仮閉鎖及び立ち入りをさせないためのフェンスを設置することにしている。宇部市への通告書では、以上の事実経過と工事内容、スケジュールを提示したうえで、宇部市その他が所有者等としてこれに異議がある場合には八月末までに文書で会に通知するよう求めた。上田氏は「連絡があった場合には、工事を延期してでも改めて交渉の席を持ち問題解決を図りたい」とした。

 

長生炭鉱坑口付近にあるコンクリート製の階段。この階段が続く地下に坑口があるとみられている(宇部市床波)

全国的世論の後押しを 国は問題解決に動け

 

 一方、2005年5月の日韓政府間協議で、旧朝鮮半島出身労働者等の遺骨問題について、人道主義・現実主義・未来志向の三つの原則でとりくむことで合意した日本政府は、「長生炭鉱の遺骨は海底に水没している状態であると認識しており、遺骨の位置や深度等が明らかでないため、現時点では、発掘調査を実施することは困難」(2023年12月答弁書)とのべている。

 

 刻む会は、潜水調査や坑口の開口後、改めて日本政府との間で交渉を持ち、国として遺骨調査や収集を実施するように求めることにしている。

 

 上田氏は「本来は宇部市云々というよりも、日本政府に遺骨を返還する責任がある。国が遺骨調査に参画するならば、宇部市も必ず協力するはずだ。現状では、市民の力、社会的世論の支援しか頼るものはない。地域問題ではなく、日本国民全体、そして日韓両市民の問題として、この遺骨問題解決への支持と支援をお願いしたい」と呼びかけた。

 

 会見の後、宇部市役所を訪れた井上共同代表は「ご遺族が高齢化し、遺骨返還のために残された時間はない。調査のために開口する必要がある坑口付近の土地は、宇部市の土地であると認識したうえで工事に入りたい。異議がある場合は8月末までに知らせていただきたい」とのべて、宇部市長宛の工事通告書を手渡した。宇部市側は島田健康福祉部次長と東原地域福祉課長が対応し、「内容をしっかり確認させていただく」とのべて通告書を受けとった。

 

 長生炭鉱事故現場は、遠い沖合ではなく、市民の生活圏内にあり、解決されない限り、その痛恨の事実も記憶も消えることはない。炭鉱跡は海底とはいえ海岸から数十㍍の浅瀬にあり、国にやる気さえあれば現在の技術で採掘することは十分に可能とみられている。国や行政の腰が極めて重いなかで、市民の総力を結集して82年続く歴史的禍根に終止符を打ち、日韓(日朝)友好を実のあるものにすることが求められている。

 

宇部市長宛の工事通告書を手渡す井上共同代表(16日、宇部市役所)

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