中国電力の上関原発問題は、今度の町長選で、原発を最後にしようという町民の世論が高まっている。戦後58年、原発計画から22年、いまでは「農漁業は取るに足りないから都市へいこう」というのは遠い昔の話で、若者がでていった都市は、倒産と失業で、ホームレスになるような情勢である。「原発は町を発展させる起爆力」といったが、結果は一部のものの利権の起爆力になっただけで町全体を衰退させる起爆力になった。そのうえに、武力参戦が現実問題となり、原発はミサイルの標的になる羽目になった。そして道義や人情がおさえられ、金と力が支配し、ものがいえない町となった。こんな町では子どもを育てられないというのが町民の悲しい評価である。この忌まわしい原発と中電の介入を終わりにして、上関でなにを解決してどう発展させるかが大きな論議になっている。町内で語られていることをもとにして、上関の歴史を振り返り、この問題を考えてみたい。
町内各地に古来遺跡
上関は数千年の古い歴史のある町である。田ノ浦には縄文遺跡があり、町内各地に弥生遺跡がある。四代には古墳時代の遺跡もある。温暖な瀬戸内海に突き出た位置にあり、古来漁労、狩猟、農業などに適した土地であり、人人が住みやすい土地であることをものがたっている。上関は、漁業が内海でももっともすぐれた条件をもち、土地は少ないが農業が共存する、半農半漁を基本の成り立ちとして、数千年の住民の生活を支えてきた。
また弥生の大昔から海上交通の要衝であり、弥生の文化が伝わるルートでもあった。戦国の時代には瀬戸内海海運の基礎に立つ村上水軍の居城があった。上関にあった小泉医院は、小早川が朝鮮征伐に出たさいに連れて帰った医師の末裔(えい)にあたるという。徳川時代には下関、防府中関と並んで、長州藩を代表する商品生産の集積地であり、問屋などが栄え、瀬戸内海海上交通の拠点となった。
上関は海上交通から見るならばきわめてすぐれた位置にある。四国松山、九州別府、広島までを最近の漁船では一時間もかからずに結ぶ。祝島の若い漁師が東京に出るのに、大分空港まで自分の船で一時間足らずで行き、飛行機に乗って都内で用を足し、楽楽と日帰りをする。陸上しか交通手段はないと思っている都会かぶれの人種には理解できない有利さがあるのである。
上関が海上交通で栄えた最高潮は帆船時代であった。北海道、東北の物産は徳川の時期、波の荒い太平洋航路はとおれず、日本海から下関を回航して大坂、江戸に運んでいた。下関を出て、防府中関、上関と寄港しながらすすんだ。上関の港としての位置は、戦後の機械化、近代化の波のなかで衰退した。とはいえ、その有利な位置に変わりはなく、陸上交通が満杯になっているなかで、将来にかけて瀬戸内海交通の発展の可能性を秘めていることは明らかである。
上関は自然条件から規定されるものとして、第一に漁業、それと依存関係をもつ農業、さらに海運・海上交通に発展性があり、それを原動力にして、商工業が栄えるという関係をもっている。それは古代から現代、さらに将来にかけて、時代をこえた上関の発展の根本的な要因である。その有利さと誇りを捨て、都会風のまねごとをするというのでは、上関は寂れるほかはない。
忘れえぬ戦争の体験 戦地で600人も戦死
第二次大戦は上関の人人にとって、筆舌に尽くしがたい体験であった。戦前上関は、大島と同じく移民が多いところであった。ハワイ、アメリカ、ブラジル、朝鮮、満州などに出ていた。土地の少ないこの地は豊かではなかった。とくに昭和恐慌から満州事変の時期には、生活の困難はかさみ、多くの人人が外地に生活を求めていった。やがて中国への全面侵略戦争となり、そこで行きづまり、欧米の植民地であった南方に転戦して米英仏蘭との戦争に突入し、送り出された兵隊は輸送船に乗せられたまま沈められ、南の島に残された兵隊はチリヂリとなり、飢えと病気で死んでいき、日本本土は空襲で爆弾の雨を浴び放題、最後には広島、長崎に原爆を落とされて敗戦となった。
上関からも多くの人人が戦地にかり出されて600人もが戦死した。親類が戦死しなかったところはないという数字である。上関も戦場となった。室津の湾にかくれていた壊れたような軍の船も爆撃機に攻撃された。戦争になれば軍事施設はかならず狙われるという経験が原発を警戒する声として語られる。多く語られるのが光海軍工廠に勤労動員された少年少女たち多数が、終戦の前日の大空襲で無惨に殺されたことである。また白井田では畑仕事をしていた農婦が、まさか撃たないと思っていたら、とおりかかったグラマンに機銃掃射されて無惨に殺された。そして広島から来た室津の漁民をはじめ、広島原爆の被害にあった人人も多い。
日本の軍国主義も野蛮であったが、それをやっつけたアメリカは民主主義で解放軍というものではなくて、日本以上に野蛮な殺人者であった。戦後の全経験を見ても、アメリカが来て平和で民主主義で豊かになったといってきたが、それは大きなインチキであった。
教訓的な戦後政治 米国崇拝の加納町政
上関の戦後の政治の変遷は教訓的である。戦後、戦争でひどい目にあい、戦後もなんの償いも受けずに困難を強いられた町民と、その困難をよそに「アメリカに解放された」と喜び、「わが世の春がやってきた」という流れとに二つに分かれた。
戦後上関は共産党が強い影響力をもったところであった。もともとが貧困なところでもあり、革新的な機運が強いところなのだ。室津村では戦前からの共産党員であった河本修二氏が村長になった。河本氏は自分の財産を失っても人人の世話をした信念を貫いた人として地域の信頼を得た人物である。
共産党にも戦後二つの流れがあった。戦後共産党の中央部は、十数年入っていた監獄から出してくれたとして、アメリカは民主主義勢力であり、アメリカ軍は解放軍とみなしていた。敗戦後は「戦争に反対したのは共産党だけ」といって、共産党にあらずば人間にあらずという空気があった。そして、出世のために共産党を利用する連中も多くいた。加納氏はそのような個人の利益優先のアメリカ型民主主義派の典型的なタイプであった。
加納氏はシベリア帰りで、戦後民主化された上関漁協の職員となり、組合長となって、全県の漁協でも顔となった。戦後の上関漁協はゴチ網などがあり、県内でも大きな方であった。その後は自民党にクラがえして町長となった。上関の実力者岩木元県議の娘であるミスカ氏(現議員)を嫁にもらって、共産党系を子分にかかえた自民党という、独特の二刀流遣いとして出世の道をすすんだ。
加納町政で、上関のためになにをやったか形が残っていないのが特徴である。上関大橋は佐藤栄作の総理大臣祝でつくられたが、橋のむこうも手まえも昔のままで放置された。代表的な事業として聞かれるのは、「サカナが陸を泳いでいた(盗まれていた)」といわれた養殖事業の失敗などである。自分の身近な役場の職員には民主的だったといわれるが、町民のためになにかをやったという形跡が乏しい。
むしろ、加納派による上関漁協の不正事件で、信用事業がつぶれ、漁協再建のためといって砂船を加納派がやって漁場を荒れさせ、漁協がバラバラに崩壊し、そして原発を持ちこんだという経過である。農業は、ミカンをやれという政府の号令にとびついて大失敗をした。自分中心の戦後民主派が町長になったことで、小さな利権あさりがはびこり、町民の団結、とくに漁協の結束が崩壊してバラバラにされた。
上関の原発反対派のリーダーのなかには、独特の要素があり、まじめな町民の強い警戒心と反発を受けたという経過には、戦後の上関の加納「共産党」のインチキに大きな要因がある。
中電が原発を持ちこんだら、加納氏は片山氏と交代となった。加納氏のような、推進派と反対派の両刀遣いでは、小さい町をこぢんまりとまとめる町長ではよいが、原発という大きな仕事をするのには具合が悪かった。それは目に見えぬ形の背後勢力の役目であり、表に立つ推進派と反対派は別の人間に分離し、双方が対立し争う形にして、一本の線でコントロールする形にしなければ具合が悪かった。そこで、自民党の仲介で推進派の町長は片山氏、反対派の親分は祝島の金田氏と、同じ加納派を二つに分けた経過がある。
ここで登場した片山氏は、戦後のもう一つの出世タイプであった。片山氏は戦争で父親が戦死し、戦争孤児として苦労の少年時代を送った。戦争でさんざんおだてて父親を送り出して、戦後は一転して冷たいあつかいをされた側である。学校で教えることはうわべだけのインチキだ、バカにされようとどういわれようと世の中は金と力が真実だ、この恨みを忘れてなるものかの根性で、ある意味で努力もし、悪いこともやってきた。その結果、いつのまにかアメリカ型民主主義の核心を体得した人物として大企業にも国にも認められ、天皇の園遊会にまで招待されたというタイプである。しかしながらいまや、裏切られ嫌われバカにされて捨てられるところまできて、心境穏やかならずというところである。どうせのことなら国や中電と一世一代のケンカをして男をあげ、ふるさとで穏やかに余生を送ってほしいものである。
加納町政は、戦後のアメリカ民主主義を崇拝し、工業にたいする農漁業のコンプレックス、都市にたいする農漁村の側の敗北主義が特徴で、いわば戦後の高度成長の流れに身をまかせて、廃町政治をやってきた。とくに漁協がバラバラとなった条件が、豊北の漁民の結束に破れた中電にとって好都合となった。片山氏は、国はアメリカ従属の売国政治、上関は無気力な廃町政治で過疎といわれる状態になるなかで、恥も外聞もなく町を売りとばす政治をやる使命で中電から飼われた。
戦後「民主化」の結果無残な荒廃
戦後アメリカは民主主義の顔をして日本に乗りこんだ。農地改革をやって土地を地主から農民に分け、漁業権も漁業協同組合をつくって「民主化」した。みんなが平等にもうけられるかのようであったが、結末は無惨な荒廃であった。近代化、機械化の連続で、競争につぐ競争に追いたてられる関係となり、高い工業製品を買わされ、農水産物価格は低くなるばかりで、経営は困難になるばかりであった。政府がミカンを奨励するからやると大暴落し、八島の牛も同じであった。
上関は海運業が栄えてきた。戦後石炭増産で、運搬船が栄えた。戸津、白井田には数百隻がいた。それはアメリカ指令の、石炭から石油へのエネルギー転換で、たちまちにしてつぶされた。そのタンカー船もいま、アメリカの規制緩和・自由化で低運賃を押しつけられ、撤退するにも撤退できない苦境におかれたところが多い。
戦後はアメリカの真似をして、工業が万能で農漁業はとるに足りないという力が強く働いた。瀬戸内海側では戦後、海岸を大規模に埋め立て、コンビナート地帯が急激につくられた。埋め立ても汚い排水の垂れ流しも、工業こそ国策とされ、漁民が反対しても勝ったことがなかった。農漁業への圧力は大きかった。田舎はダメだ都会こそ夢があるといって若者たちは都会に出て行き、上関は過疎といわれる状態になった。そして過疎脱却の起爆剤といって原発が持ちこまれた。
発展が失われた原発政治の22年
原発計画が公表されてから22年、中電と国、県が推進する原発政治はいかなるものであったか。
第一にそれは、二度と日本は戦争はしないという約束が守られ、平和であることが大前提であったが、日本が武力参戦するといい、日本の原発は標的にされることが現実となり、日本が戦時中空襲にあったように、戦場にするというのである。これは仕様がないといって認めるわけにはいかないものである。
第二に、22年、上関町はわざと人が住まないような町にするという政治が働いた。道路や交通、医療、福祉など住民の生活条件は、原発計画がなかった大島郡と比較するなら、けた違いにたち遅れた。農業も、農道を整備することもなく放置。カネがないからでなく、カネがあっても、町民のために使おうとしないことが原因であり、この売町政治をすすめる人間を変えなければ金があっても町民のためになりようがないのである。
第三に、若者が住む町を叫んだが、町から若者がいなくなった。子どももいなくなった。小学校は廃校つづきで、でっかい小学校をつくっているが、入れ物ばかりで子どもがいない。若者は町に職がない。しかしあっても住みたくない町になった。人心が乱れて、むりをとおして道理を引っこめさせる力とカネがものをいい、町民が疑心暗鬼にさせられ、ものいえない状態にさせられた。それはとても子どもを安心して育てる環境ではないというのが大きな声でいえない実情となっている。いまの推進派三陣営がやっている我欲のための無制限一本勝負の乱斗風景は、上関の子どもたちになんと説明したらよいか。
上関は原発がなければやっていけないというものではない。大島にせよ北浦にせよ、同じような困難にあるが、上関よりはるかに立派にやっている。
農漁業は困難な条件にある。イギリス、フランスなど欧米は農業を守ってきた。国際情勢が激動し戦時体制になることは、食糧の自給が大きな課題になるということである。食料は輸入すればよく、農漁業はなくてもよいというものではなく、日本人の食糧確保という絶対的な必要からかならず再建せざるをえないものである。
上関の中心産業は漁業
上関の産業の中心は漁業である。延長50㌔をこえる自然の海岸線は、よそにない好条件である。磯にワカメなど海草の養殖をするなら、アワビやサザエ、ウニなどがふえ、メバルなどの磯魚が育つ、魚礁も投げこめばよいというものでなく潮の流れなどに詳しい漁民の英知を集めればずいぶん違う。肝心なことは漁場の共同管理である。漁協間の抗争、漁民同士のバラバラ状態の解決がなければどうしようもない。
魚価の問題も、鮮度保持の努力、上関の魚としてのまとまった努力、販売も町内で魚が買えないという状態の改善、外から来る観光客に食べさせるなど直販の努力の共同でやるべき余地はたくさんある。これらを先進地を視察し研究して改善していく努力をはじめるなら、一定の展望が出ることは疑いない。上関の漁業は、原発の利権を追いかけ、自分の損得だけという投機主義が支配して、共同的事業が破壊されていることから、よそよりはるかに困難になっている。その20年の損害は補償金の比ではない。
投機的売町政治一掃し発展の道へ
上関の農業も、ミカンの失敗、八島の牛の失敗などを経験し、なにをやってもダメという早早のあきらめが支配した。農道の整備などもすすめず、困難ななかでもそれにたちむかっていくという努力が放置された。
上関はなにもしないのに、広島などから魚釣りや磯遊びなどで数万の観光客が来ている。よその真似をしたケバケバしい観光路線ではなく、都会でくたびれた人たちが、上関の自然と人情にふれ、いわば「いやし」を満足させる形、または日本の縮図というべき上関の豊富な歴史を知らせるというようなよそにない工夫をし、それらを求める客が上関で滞在したり、新鮮な上関の魚や野菜、果物を安く食べさせるような工夫をしたりの余地は多くある。海上交通の有利さを活用して、別府、松山、広島などを結んで客を呼ぶ工夫などもありうる。
要するに、上関はなにをやってもダメで、原発すなわち外部からのエサだけ求める投機主義、敗北主義を一掃して、上関しかない有利な条件を見出し、それを発展させるという考え方を勝利させなければ展望はない。工業優先、都市優先、すなわち金持ちと権力者がすべてで、すべてを原発へという売町政治が、よそにない有利な条件をもつ上関の価値を見ず、二束三文で売りとばしているのである。
自民党の親方であるブッシュではないが、金と力がいちばん強いと思って、日本を属国にした味だけを覚えて、ベトナムでたたき出されたことは忘れ、勝つことしか考えずにイラクに攻めこみ大失敗の手本を示している。小泉が日本軍が中国を侵略してやっつけられた経験も勉強せず、アメリカに破滅するまでつき従う愚かさにつきあう必要はない。
「おごる平家は久しからず」という。権力におごり、欲ばかりが大きくなると、失敗する。しもじもの方がほんとうはいちばん力をもちエライのだ。投機的な売町政治を一掃して愛国心と郷土愛に立った努力をすすめることが発展の道である。この町長選のなかで、原発を終わりにして、若い世代が前面に立ってそのような努力を開始する条件をつくることが求められる。
維新の誇り高き町 奇兵隊員数で県下2位
上関の近代の歴史で誇るべき最大のことは、幕末・明治維新ではたした上関の役割であろう。明治維新は、百姓、町民が主力となって徳川幕府を打倒し、民族の独立を守った革命であった。それを政治的軍事的に代表したのは高杉晋作がつくった奇兵隊であるが、それは士農工商の枠をとっ払って下級武士、百姓、町民などが参加した。上関は小郡についで参加者が多かった。上関の先祖は、この明治維新に命をかけて参加し、新しい世の中を実現する大きな力を発揮したのである。
林春彦宮司の先祖である尾川猪三郎が、鳥羽伏見の戦争で部隊の先陣を切ってすすみ、敵の銃弾を顔面に受けて戦死した。その知らせを聞いた家族は、国のために殉じた見事な戦死であり、あっぱれだといってたたえた。それは、誇りとして語りつがれている。四代でも、高杉晋作に声をかけられたときに、はせ参じなければならないと、刀を買った先祖が誇りとして語られている。
大島口戦いで四境戦争突破
上関が直接に明治維新に役割をはたしたのは、大島口の戦いで先祖たちが参戦し、倒幕戦争の皮切りとなる四境戦争の緒戦における大勝利に貢献したことである。上関は、松陰や高杉ら維新の志士たちがみなたち寄ったところであるが、上関の農民たちは奇兵隊・諸隊に参加し、倒幕戦争に勇敢に参戦した。幕府軍艦は上関にまずあらわれ、室津に砲撃を加えた。当時上関海峡にはイカダを流して幕軍の侵攻を阻止した。
十数万破った五千の長州軍
高杉晋作がみずから軍艦丙寅丸に乗って、上関にたち寄り、駐屯していた諸隊の幹部を呼んで、幕府の軍艦を自分が蹴(け)散らすから、その混乱に乗じて陸上から攻めて幕軍を殲(せん)滅せよ、との作戦を授けた。わずか200㌧余りの軍艦一隻で、1000㌧クラスの幕府軍艦4隻を相手に、深夜の奇襲戦法で攻撃。敵艦は同士討ちをしながら大破しあわてふためいて逃げていった。それは、当時の海戦の常識をこえた痛快きわまる勝利としてあまりにも有名である。そして上関の先祖が参加する諸隊が大島に上陸し、久賀町などを占領して島民に危害を加えていた松山藩兵を攻撃し、敗走させた。この勝利こそ、強大な徳川幕府が倒れていく緒戦の勝利となったものである。
倒幕戦争に立ち上がった長州軍はわずか4000~5000で、十数万の倒幕軍をうち破ったが、それは上関の百姓、漁師はもちろん、全藩の領民側がわがこととして参加し、圧倒的な支持を得ていたからである。全国でも各地の領民はみな長州びいきであった。倒幕戦争と結びついて百姓一揆、町民の打ち壊しなどで、幕藩勢力に抵抗し、260年つづいた徳川幕藩体制を倒したのである。
当時の上関の父祖たちは、いまの自民党のように欧米列強の脅しにもみ手をすることはなかったし、徳川の強大な権力も恐れなかった。いわんや中電のような田舎会社にしっぽを振る飼い犬のようになって、町民を脅しつけ町を売るという腰ぬけではなかった。室津に残存していた幕末の商家・吉田屋を売りとばしたのは、ゼニ金の問題ではなく上関の誇りを売りとばし、人心の乱れをつくった問題なのである。