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上関町長選 推進派の一本化騒動は何を物語っているか

 

 原発建設問題を最大の争点とする6度目の上関町長選にむけて、推進派候補が3人立ったあげくに、その3人がおりて第4候補の加納簾香氏に一本化された。これはなにをものがたっているのであろうか。
 推進派のなかでの片山町長批判は5年ほどまえから公然化していた。98年の町議選における無投票のインチキをへて、推進派と反対派の議員同士のゆ着関係と町民の主権無視の愚弄(ろう)したやり口に批判が沸騰した。その年の商工会総会で、推進派の最大支柱であった田中正己会長が罷免され、昨年の町長選では20年議長をつとめた西元氏が地元の反乱で立候補を断念し失脚した。今回、片山裁定の形で花をもたせた形であるが、要するに片山町長も解任となった。こうして20年の推進派の中心であった三人組がみな舞台をおりることとなった。
 片山裁定の形で出馬となった加納氏は、二井知事の合意意見まえには山口などに婦人を動員してビラまきをしたり、神社地問題での林宮司攻撃の先頭に立ったりで、推進の急先鋒になるとともに、右田、西議員らとともに片山おろしの中心人物であった。町長候補に、はじめ右田氏をかついだがそれを捨て、昨年には浅海氏にくらがえし、最後は片山氏と連携して自分が町長候補になるという経過である。浅海氏は結果として右田氏おろしの当て馬の役割であった。
 右田氏の陣営には、田中、片山、西元氏ら三人組とそのブレーンについて、我欲だけによる町政食いつぶしを批判し、原発推進であるが一部のものの利権でなく「公平な町づくり」などの改革要求が反映していた。その後援者の要求と推進派幹部・中電とのあいだに立って迷いに迷ったのが右田氏で、結局は推進陣営から戦犯あつかいされてはたまらんという結論になった。この過程では、加納氏や西氏が裏切り、選挙地盤を譲った吉崎氏も裏切り、片山批判をした議員らがみな片山町長と連携してしまった。まことに推進派の幹部の世界は、信義とか信条というものではなく、陰謀あり、裏切りあり、スパイありで、金とポスト第一の我欲主義を広く暴露する結果となった。戦争が現実となるなかで、我欲のために郷土を廃虚にするのは、おろかさにもほどがあるといえる。
 右田、浅海氏をかついでそれなりに町民の意志を表明しようとした町民は、結局上のものが好きにやって愚弄された結果となった。このことが教えることは、原発は中電や自民党、国、県の都合で、その金力と権力に飼われたものが使われ、町民の意見を抹殺し、町のすべてを売りとばすというものである。したがって「町民主導の原発推進」「町民のための原発推進」などありえないという点である。
 この一連の騒動と片山氏から加納氏への交代劇は、一定の町民の支持を回復するというものではない。むしろ「町民をバカにしている」「しらけた」「今度は白票がふえる」という声が強まっているように、推進派幹部にあいそを尽かせる町民をふやす結果となった。20年まえ、「加納ではダメ」というので片山氏に交代した。それを加納氏にもどすのでは、片山氏より古いところへもどすことにしかならない。72歳の「老兵」から同じ年の老婦人に変えても若返りにならない。それは推進派も後継者をつぶし、将来はないとみなしていることを証明している。
 この顛(てん)末が証明することは、中電の原発推進姿勢が前向きではなく後向きだということである。上関の一本化は、県議選告示をまえにしたかけこみであったが、堂堂と「自分が落ちたら原発は終わりになる」ともいえない自民党の吉井氏の窮状回避という色彩ももっており、これも前向きの対応とはいえない。すなわち建設する力もその気もないが、原発計画が破たんすることだけは回避すること、それによる責任追及を受ける連中が逃げをうちつつ、一部の我欲による利権集団を使って、原発利権だけを維持し、上関を崩壊のままに放置する意図だというほかない。
 上関原発が基本計画に組みこまれたとはいえ、戦時に標的となり、その防衛体制が大騒ぎとなり、防衛のための沖合の漁業権消滅の必要や、警備体制のための用地の広域買収が必要となり、原発施設もミサイル対応にせざるをえないというなかで、さらに電力自由化で電力会社は原発など持つ余裕はないと抵抗しているなかで、最後の新規立地といわれる上関原発ができるメドなどないのである。中電の社長が「登山口まで来た」とくり返しているのは、「そういっているのに上関町が推進している」という責任のがれにほかならない。
 片山町長が行きづまったのは、町内外の大きな原発反対の力によるものであるが、それによって国は市町村合併で上関を特区とする要請にこたえずにほうり出し、中電も島根と違って協力金も出さずにほうり出したからである。国や中電は、その飼い猫のようになっていたのでは金も力も出すわけがない。全町民の正当な権利として、またすべての県民が納得する道理をもって、かれらの不当なやり口とその責任を断固として追及する姿勢がなくて、とれるものもとれるわけがないのである。それは反対した祝島と推進した八島や四代の県や町の事業における雲泥の差が証明している。
 田中、西元氏につづく片山氏の解任は、この20年の悪事のかずかずを闇に葬り、中電が無責任を決めこんで逃げることに有利である。この三人組にかわる新実力者ポストに夢をふくらませているのは、加納氏をはじめ、議会では西、吉崎氏ら、組合長では大西、外村氏らである。だが中電のほんとうの意図は、金と力の一本調子の「推進派新実力者」連中に「原発行きづまり」の戦犯責任をとらせ、無責任に逃げをはかっているのだと判断できる。
 したがって上関町長選における現実の争点は、原発がすぐできるかひきのばすかというものではなく、できもしない原発計画延長による町のたち腐れか、原発計画撤回による町民主導の再建かである。
 町民のいまひとつの悩みは、対する反対派の山戸氏陣営の運動が、選挙のサマをなしていないという点である。あいさつをして回るのに頭を下げずにエラそうに突っ立っている。これまで推進派に入れてきた町民の票を入れてもらわねば勝てないのに、反対派住民の数人のところだけ行って、すべての町民の家を回り、原発撤回をお願いし町政への要求・意見を聞くという行動をとらない、とくに祝島の島民全体が全町を交流して回るようにしないことなどである。わざと負けようとしているのではないかという非難である。これまで「町民のために」がなく、自分の生活第一でインチキをやってきた山戸氏をはじめ反対派議員どもの挙動もまた町民のますます鋭い監視を受けている。
 上関では、22年の原発騒動で、中電が妖怪変化のようなものを飼っていて、推進派3人の乱立にせよ、反対派議員らの挙動にせよ、ややこしいシカケがつくられているのである。町民のなかでは、反対派候補としてはこれまででいちばん程度が悪い候補だが、中電や国と対決した選挙は、町民の死活の要求がかかわっており、現状では町民主導の力で山戸氏をタマとして使い原発を撤回させること、そののちに町民の自由な論議をすすめ、ほんとうのリーダーを送り出し、本格的な町の転換にむけることができるという論議がすすんでいる。

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