4月の選挙で、はじめて「カリスマ山戸」の顔を見た長島、室津の住民はひじょうに落胆した。町民のなかに入って頭を下げて回らず、ふんぞり返って突っ立っている。住民から遠く離れた宣伝カーで回るだけか、犬の遠吠えのような演説をするだけで、中電によるすべての個人情報を駆使した地をはうような組織選にたいしてあけてとおした。これじゃ級長選挙じゃあるまいし、選挙のサマにならない、負けるために出ているというのが町民の落胆であった。
抜き差しなら ぬ町民と中電
その山戸氏が反省の色もなくもういっぺん出て来て、町民はどっと疲れが出た。町民の方は山戸氏の人気投票じゃないし、中電が相手だと思いなおして気合いを入れなおした。山戸氏はまともな神経の持ち主であれば、反省しなければならない。町民に施しを与える神様のような顔をするのはアホさ加減をさらすことであり、町民の僕になるのが本当に強い人間だということについていい加減思い知らなければならない。
山戸氏は島根では負けた経験しかなく、祝島ではできあがった反対組織に乗っかって威張ってきただけで、長島のようにほとんどなにもない困難なところで勢力を結集する能力などないことについて謙虚にならなければならない。選挙は町民にとって、20年にわたる中電の金力、権力を総動員した買収と脅迫、謀略を駆使した企業選挙との抜き差しならないたたかいである。それをうち破る力は全県、全国と団結した町民大衆のたたかいにしかない。自分が足を運んで町民のなかに入らなければならない。それも自分がふんぞり返っても文句をいわれないところだけ行くのでは、中電に反対者を教えるようなものである。怒鳴られようとも勇気を出してすべての町民の戸をたたかなければならない。それ以上に祝島の住民に、全町を訪問して原発撤回を訴える行動をさせなければならない。
中電指名の柏原氏と共同記者会見をして仲がよいところを見せ、また「原発はできない」と断言して対決姿勢を喪失し武装解除するのでは話にならない。それは祝島や上関をはじめとする反対票が推進票に流れるのを奨励するようなものである。さらに「合併推進」というが、22年の原発騒動でさんざんにつぶされたまま町を解散するというのでは、無責任にほうり出そうという国や県のもくろみにこたえることになる。原発さえなくなれば町はつぶれてもよいというわけにはいかないし、それでは町を愛する町民は支持をするなということになる。
反対派住民を落胆させ、ある部分は推進の方に追いやり、推進派から原発を終結させようという流れもくるなというのでは、山戸氏に入れる票は自分の方から断るというもので、とんでもない立候補者ということになる。町民の前では神様のように威張ってふるまうが、中電や県、国、マスコミとなるとニヤけて弱腰になるのは恥ずかしいことである。
「反対を叫びつづけるために出る」といったのにつづいて、反対の会の再編で、河本氏をおろして本人が事務局長になったが、町長になろうかという人間が事務局長になるというのは、町長になる気がないと人人に印象づけるものである。はじめから勝つ気はなく、人のやる気をなくすような、選挙を冒涜(とく)し町民をあなどった態度は改めなければならない。
大新聞は「反対派の切り札」というおべんちゃらを書いたが、以上のようなふざけた態度を改めなければ「推進派の切り札」として身を滅ぼすことになる。四月の選挙でも、自分から惨敗するようにふるまって、それを人のせいにするというのも得意技である。今度も惨敗して、それを町民のせいにして、補償金ほしさに裁判を取り下げるなどし、さらに町民を落胆させないことである。
中電撤退による町民主導を
いずれにせよ選挙は国策をバックにした中電と町民の抜き差しならぬたたかいである。山戸氏が態度を改めようと改めまいと、それは本人のことである。町民は山戸氏に運命を預けてはおらず、中電の負け犬になるわけにはいかないのだ。惨敗したがる候補を担いで票差をちぢめることはたいへんなことである。それは選挙の常識を覆すことになり、町民がいかに偉大であるかを証明することになる。政治的に見れば山戸氏も敗北するが、柏原氏も敗北することになり、中電に打撃を加えることになる。
山戸氏の票がふえることは山戸氏の意図に町民が従わなかったことを証明し、中電や県から見た「推進の最後の切り札」が破産することを意味する。それは町の発展にとってたいへん喜ばしいこととなる。選挙は妖怪変化の立ち回りによって奇妙な構図であるが、町民の決起によって、中電の推進の政治構造全体を爆砕し、中電の撤退による町民主導の町の再建の道を切り開くことが今度の選挙の最大の政治的な注目点となる。
山戸氏は町民にあまりにも迷惑をかけないことである。山戸氏もこの選挙は自身の人生にとって正念場である。