中国電力の上関原発建設計画が浮上して27年、中電は二井知事の許認可乱発にせき立てられながら埋め立て工事を始めようとしている。新聞、テレビなどのメディアは「原発はすぐにできる」し「あきらめるほかはない」といった調子で騒いでいる。上関ではこういった世論を攪乱する「大本営発表」は何10回となく繰り返されてきた。
原発ができるかどうか、直接には漁業権、地権などの権利がどうなるかにかかっている。しかし漁業権者、地権者が国策を振りかざしてくる相手に対して拒否を貫けるのは、全町、全県、全国の連帯した力が支えとなる。
祝島では、県漁協が乗り出して「来年5月までに補償金を受けとらなければ国にとられてしまう」「原発はできるのだから受けとらないと損」と脅しをかけた。これが明らかにすることは、祝島漁民が補償金の受領すなわち漁業権変更の承認をしなければ中電がひじょうに困るという事情である。祝島が漁業権変更を承認し、それが地権者のあきらめを誘うことをひじょうに期待しているということである。権利者があきらめなければ原発は立たないという事情である。
あらゆる困難を乗り越えて、上関原発を27年にわたって押しとどめてきた上関町民、ことに祝島の島民の努力は敬服すべきことである。それによって瀬戸内海の漁業が守られ、県民生活が守られてきたのである。そしてここまできて、反対運動の最大ボスとして権勢をふるってきた山戸貞夫氏がショボンとするところへ来ている。祝島では、はじめからの反対運動がおかしかったこと、これを考え直さなければならないと語られている。
祝島のはじめの時期の一心会運動、それを受けた山戸氏が代表する反対運動の指導路線は人人を疑心暗鬼にさせ分裂させて敗北させていく重要な問題があった。どんな運動にすれば勝利の展望を開けるのか。それは、上関に先行する豊北原発を阻止したたたかいが教えている。
第1は、原発は漁業権者、地権者だけの経済問題ではなく、全町民、全県、全国民の根本利益が関わった政治問題だという点である。とくに現在、米軍岩国基地を大増強し、アメリカの核ミサイル戦争の攻撃拠点とし、アメリカ本土防衛の盾にしようとしながら、日本列島をミサイルの標的にする原発列島にするという亡国政治は、いかなる気違いのやることかとすべての国民が怒っている。大地震で柏崎原発がぶっ壊れたが、地震地帯の上関につくるのはいかなる神経か。世界有数の漁場である瀬戸内海漁業を壊滅的な状態にし、農業と共にあえて食料自給をできなくさせる亡国政治もまたしかり。
原発は、全国の役場を合併で解散させ、農協も漁協も郵便局もなくし、地方を住めなくさせる政治の典型となっている。原発は日本社会をぶっ壊し廃虚にしてでもアメリカに尽くし、一握りの大企業だけが肥え太る強欲・売国政治の象徴として、すべての国民の共通した根本利益に関わる問題である。祝島島民、上関町民の27年に及ぶたたかいは、そのような全国民の根本的な利益を守ってきた関係にある。
第2に、アメリカがそのエネルギー戦略および核戦略によって背後で指図し、国策として全権力を行使して推進している原発に対して、それを打ち負かす力は現地の権利者だけではなく、全県、全国の人民の大きな団結であり、共通の敵に対する共同のたたかいの力である。原発は原水爆戦争を引き寄せるという問題であり、岩国市民の艦載機部隊の移転反対の運動が共通課題として連帯している。被爆地広島で岩国基地増強に反対する力が強まっているが、上関原発ともあわせて広島湾岸を原水爆戦争の拠点とする屈辱への強い怒りとして、上関のたたかいに連帯している。
山戸氏らの指導路線は、原発を進める大本には顔を背け、それどころか推進者である平井元知事などを味方だといって、田ノ浦地先の共同漁業権放棄までやった。そして団結すべき全島民のなかでは疑心暗鬼をあおり、全町民はみな推進派のように見なし、団結できるすべての人と団結するのを阻害してきた。これでは負けるほかはない。
祝島の運動では、広島に行ったり山口に行ったりして、中電や県に文句をいうことも必要だが、それ以上に全島、全町、全県、全国の人民各層を信頼しその団結を強める努力をする方が大事である。それぞれの地域にデーンと割拠して、共通の敵に対する共同の斗争の態勢を強める方向で行くなら中電は太刀打ちできなくなる。
第3に、原発を進める国策という大きな敵に対してたたかう力は大衆のなかにある。万事政治のことは議員や組合長といった幹部任せでは太刀打ちできず、下から大衆が主体となって幹部を縛り付け引っ張っていくというような運動をつくらなければ勝利の力にはならない。山戸氏らの観点は、幹部こそすべてで、下下はついていくだけというものであり、それは目先勇ましそうであるが結局は非力であり、敗北していくことを暴露せざるをえない。本当の力を持っているのは町民大衆であり、その大衆を助けて立ち上がらせる者こそ指導者なのだ。大衆はバカだと見なす「指導者」は、結局権力にひざまずかざるを得ない。
上関原発をめぐっては、祝島の漁業権変更の承認はなく、売却を拒否してきた地権者の土地が多くあり、送電線用地買収など課題は山積している。住民の生命を守るには避難道の整備が不可欠であり、巨大な橋が2本は必要となる。目の前に原発を見る祝島などは、本土に逃げるための海底トンネルなど造らなければ、人道的とはいえない。大地震が来ても壊れない原発をどう造るというのか。とくにミサイルが激突しても耐える原発をどう造るのか、さらに原発警備のためには、沖合海域の航行禁止措置つまり、さらなる沖合の漁業権消滅などが、不可欠となる。20数年前とは事情は変わっており、上関原発を建設するには気が遠くなるほどの課題が山積しているのだ。あきらめたくなるのは中電の側であり、住民の側ではない。
なお町内外の推進派は、原発をなお造るというのなら、町民、県民が安心できるような要求をし直すのか、自分たちだけがいいことをして二束三文で町全体を売り飛ばすのか、選択を迫られることになる。推進派できた人たちも、すっかり事情が変わった現在、考え直さざるをえない時期に来ている。
祝島をはじめ全町的に、27年たった原発をめぐる経験を締めくくり、勝利した豊北型の団結路線で指導的勢力をつくっていったなら、中電は手も足も出なくなり、上関原発は断念せざるをえない。当面祝島では、元からの推進派、新しい推進派の漁民とのあいだで全島のため、全町、全国のためという視点から、漁業補償受けとりの拒否を貫くための全島民的な論議を進め、新しい信頼と団結を実現することが求められている。