山口県上関町の祝島では、山口県漁協が上関原発計画にかかわる漁業補償金の配分をごり押ししようとしてきていることに対し、漁業者や農業者、商工業者など島民全体が団結し30年以上にわたって上関原発建設を阻止してきた誇りをかけた問題として論議になっている。
原発推進に舵切る安倍政府に怒り
祝島では、「漁業補償金を受けとるかどうかは漁業者だけの問題ではない。30年間の原発反対のたたかいは祝島全体の誇りだ。とくに福島原発事故がまだ収束もみない今、補償金を受けとって原発建設を許すことは、全国、全世界に恥をさらすことだ。子や孫のためにも原発建設を阻止するまでは死んでも死にきれない」などとたがいに語りあわれ、「補償金の受けとり拒否」の高揚した空気がみなぎっている。
中国電力の上関原発計画は豊北町での原発建設計画が全県、全町の農漁業者や労働者、商工業者など各階各層の団結した力で完敗した後の1982年に浮上した。その後今日まで31年以上にわたって、全町、全県、全国の原発反対世論の高揚と連動して上関原発建設を阻止してきた。
とりわけ四代地区の原発建設予定地と向かいあう、祝島住民の30年以上にわたる一致団結した反対行動が、その重要な一翼を担ってきた。
80代になる漁業婦人は「50代のときに原発問題が起こって、広島の中電本社や、山口県庁や柳井や、上関の町役場や、どこにでも行った。最近は田ノ浦の阻止行動にも行った。いざというときにはどこにでも行けるように、いつも用意している。みんながなんのために30年も頑張ってきたのか。ここで補償金を受けとったら全部水の泡になる。それだけではない。あれほど全県、全国の人たちが祝島を応援してくれた。とくに福島原発事故が起こったあとは、“祝島が原発に反対してくれたから上関には原発が建たなかった。感謝している”という言葉も何人もからかけられた。そういう人たちにとても顔向けできない。絶対に補償金は受けとってはいけない」と話していた。
祝島の行動の先頭には婦人が立ってきた。婦人たちの献身的で粘り強い行動が祝島の反対運動を支える大きな力であった。
同じく60代の漁業婦人は「原発政策は嘘ばかりということが事故ではっきりわかったのに、なぜまた原発の再稼働や新規建設の話が出るのか、そのこと自体がおかしい。祝島はずっと反対してきて、私も“絶対に建てさせない”という思いで他の婦人たちと一緒に反対してきた。原発で海や山が破壊されるのに、県漁協が一生懸命になって補償金を受けとらせようとすることもおかしい。補償金を受けとってしまえば建設に対して反対もできなくなる。これまで守ってきた祝島を最後まで守り切らなければ、高齢にはなった私たちでも死にきれない。早く完全終結させて、祝島を一昔前のように活気のある町にするために原発など絶対に必要ない。30年間反対してきて、今負けるわけにはいかない」と強い意志を示していた。
80代の農業婦人は、「私が50代のときから原発計画が表沙汰になった。私は農業をしているが、原発が漁業者だけの問題でなく祝島全体にかかわる問題として30年間反対してきた。これまで、どんなことがあっても原発阻止させるために反対運動は休まずに出てきたし、福島原発事故後は原発阻止が祝島だけでなく日本全体の問題として譲れないことだと思っている。主人が亡くなったが、一緒に反対運動をしてきた多くの人たちが亡くなった。補償金を受けとってしまえばその人たちに申し訳もたたない」と話している。
同じく80代の婦人は、「これまでのことを水の泡にさせないためにも最後まで補償金は突き返さないといけないと思う。私は農業だが、原発ができれば祝島の農作物も売れなくなるだろうし他人事でない」と話していた。
また、漁業者の一人は「上関原発は、祝島が補償金を受けとらなかったことでこれまで阻止できた。これは、多くの人に支えられて来たのも事実だ。全国からたくさんのカンパも寄せられてきたのに、今になって補償金を受けとれば全国民の思いを裏切るようなことになり、そんなことは絶対にできない。漁師だけで勝手に決めることもできないし、祝島や上関町だけでなく全国にかかわることだ。漁業の実態は厳しいのも事実でなんとか改善したいと思うが、そんなあぶく銭で漁業権を売り渡すわけにはいかない。福島原発事故のあと、いまだに放射能の汚染水漏れなど起こし、原発が制御できないことが明らかにされたにもかかわらず、安倍首相は再稼働を始めたり外国への輸出まで手を出しているが、いかにバカげたことかいい加減気付かせなければいけない。国益を放棄して自分の力を誇示するかのように、国民の意見を聞かずむちゃくちゃしているが、絶対に破綻する」と怒りをこめて語った。
70代の農業者は「安倍さんはTPP参加も勝手にやり、原発も勝手に再稼働や新規を復活させようとしているがふざけた話だ。また前みたいに辞めさせなくてはいけない」と話していた。
父や母の思い受け継ぐ 里帰りの若い世代も
また祝島には80代や90代の両親の世話をするために、都会から帰ってきている息子や娘もいる。大阪から帰ってきたという婦人は「母は今年90歳をこえ、今はもう行動にも出ていけないが、昔は本当にどこにでも出かけていっていた」と誇らしげに話した。また、「安倍政府になって原発の再稼働が始まった。大阪でも問題になっている。福島原発ではまだ放射能が漏れ出ているというのに、なぜ、それも自分の地元で新しい原発をつくろうとするのだろうか。とても尋常の神経ではない。農業をやりながら父や母が一生懸命原発に反対してきたことに頭が下がる。自分たちも原発には絶対に反対だ」と話していた。
また、船員をして退職したという男性は「まだ原発問題が出てきた最初のころは、祝島が原発に反対しているというと、“人種が違うのだろう”と同じ船に乗る人たちにいわれていた。だが、福島原発の事故があったあとは“祝島の人たちには先見の明があった。祝島の人たちは本当に賢い”といわれている。30年以上も原発に反対してきたことが全国の人たちに感謝されている。それなのに補償金を今受けとるということは人間として許されないことだ」と話していた。
祝島では今ちょうどビワの収穫時期で、農家はどこも収穫や箱詰めで忙しい。「祝島のビワは大きくて、甘くてどこよりもおいしいと喜ばれる。ビワだけでなくミカンもコメもどれもおいしい。昔は、田んぼも畑もあり、牛も飼っていた。農業をするにはとてもよい気候だ」と話し、「今は農業では生活するのは苦しいが、終戦直後は何千人もが祝島の海と山とで生活していた。海と山があったから生活できた。原発が建てば、海も山もだめになる。若い者も帰ってこれなくなる。都会ではだんだん仕事がなくなっている。若い者が祝島に帰ってきても生活できるように、海も山も守っていく」と話していた。
また、80代の婦人は「私の主人は被爆者で、それで原発には最初から反対してきた。今は主人も亡くなったが、主人の気持ちを受け継いで、私も死ぬまで原発には反対していく。若いときはリュックを背負ってどこにでも行った。30年という年月、原発反対の行動を続けるということはそう簡単なことではない。今こそ足が痛くて行動に行けないが気持ちはまったく変わらない。ここで補償金を受けとってしまったら、30年間の苦労が消えてしまう。絶対に受けとってはいけない」と話していた。
祝島には広島にアメリカが投下した原爆の雲を見たという人もおり、戦争や原爆につながる経験が原発反対の強い気持ちの根拠にある。
「補償金受けとり」という問題を契機に、祝島の島民のあいだでは30年間のさまざまな苦労や喜び、誇りが思いおこされ、これを補償金を受けとることで無にすることはできないという強い気持ちが充満している。
また、四代地区の漁民は、「四代では補償金分配のときには、各業種から2人の代表を選び配分委員会は12人くらいになった。その12人がどうやったらいいかを論議し、結論が出るまでには10~15日はかかった。祝島のやり方とはまったく違う。祝島のやり方は、全然なっていない。あんなやり方をしていては住民は納得しないだろう」と話していた。