いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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選挙の主人公は候補者か有権者か 下関市議選がしらける原因 

ひっくり返った議会制民主主義 市民から乖離する議会

 

平成27年の市議選当選後の初議会記念写真

 来年2月の下関市議選は、きわめて盛り上がりに欠けた状態が続いている。本紙はこの間、下関市政を巡る安倍vs林の私物化争いや、安倍派だらけの一元代表制状態になっている現実に分析を加えてきたが、そのようなガチガチの政治構造のもとで全国よりも突出して衰退していくのはなぜなのか、議会や行政の体質ともあわせて記者座談会で論議した。

 

  市議選情勢はいつになくおとなしいのが特徴だ。これだけ現職がやめ、新人が出る選挙でありながら陣営の動きが表面的には見えにくい。企業関係では「もう何人も候補者が頼みに来た」と話になるが、一方で一般の市民のなかに浸透している印象が乏しい。各陣営の後援会リーフを持って友人知人に依頼する関係者をあまり見かけないのが特徴だ。運動員や支援者の熱量、そうした核になる人人に対する周囲の信頼で選挙の得票はまるで変わってくるが、もっぱら候補者やその家族界隈の個人戦かと思うような様相を呈している。

 

 一つには期待感がなく冷めていることが要因かもしれない。ただ、いかなる陣営であれ周囲が候補者を議会代表として押し立てていく、おごっている者については締め上げていうことを聞かせるような選挙にならなければ、「選ばれた」自覚にならず、宙に浮き上がった議会の状況は変わらない。こうした市民との乖離に下関市議会の根本的な問題がある。しかし、市民の半数が投票に行かない選挙になればなるほど、組織票だけは存在感を増す。無風状態のなかで、どこそこの組織票が何票、あそこの事業所や病院で何票見込める等等の計算が立てば、余程のことがない限り崩れることはないという読みだろう。候補者ではなく某司令塔から有力な選挙通には「今回は○○をやってくれ」という連絡があるのだ。コントロール票がしっかり振り分けられて動く。

 

  組織票頼みの裏通り選挙といったところだろうか。本人の姿はまるで見ないのに、安倍事務所から連合自治会のトップに「○○○(新人女性候補)をやってくれ」と号令がかかったり、まことにおかしな選挙だ。下関生まれの下関育ちでないだけでもハンディキャップは大きいだろうに、本人がまったく動いていないという不思議だ。これで当選できるなら落選した現職は号泣していい。要するに市民が選ぶ選挙なのか、代議士事務所が指名するコントロール選挙なのかだ。全般的に有権者としてはしらけているが、そのしらけきった空気のなかで、幾人かの嫌われ現職が落選することになり、それをも織り込み済みで顔ぶれをチェンジし、新人に組織票を振り分けて議席を確保する感じだ。

 

 今回の場合、女性候補が多いのが特徴だが、「女性が多い下関市議会」「さすが女性活躍を唱える首相の地元」を印象づけたい意図が露骨だ。女性が活躍することはおおいに結構で、それ自体に異論はない。しかし、ただでさえ異論を許さない議会体制のなかで、賛成マシーンの頭数として黙って従う「女性を増やしましたよ」ではなんとも後味が悪い。本人たちが必死に政治活動を展開して、当選後は議会のなかでも遠慮会釈なく発言していくような状況にならなければ、本当の意味での活躍とはいえないだろう。定数に対する比率の問題に収斂させてはならない。問題なのはあくまで質だ。これは選挙後も厳密に検証していく必要がある。女性を飾り物にするのが本当の活躍といえるのか?だ。メディアが飛びつきやすいネタだろうが、本質抜きに「女性活躍」などと持て囃すのは短絡的だ。

 

 昨今の「女性活躍」の傾向を見ていると、どうも形ばかり前のめりで、国会を見てもイエスマンが急に右巻き風情をはじめてみたり歪んでいる。平塚らいてうが生きていたら激怒するような光景だろう。現実に下関市議会でもお茶くみばかりさせられているのがいるから複雑だ。それを当選回数が上だからといって若造が飲んでいる。世の女性が聞いても怒ると思う。

 

  前哨戦はおとなしいとはいえ、地域によっては混戦模様のところもある。長府では安岡vs星出、伊倉では亀田vs青木、彦島では小熊坂vs林、山の田では香川vs秋山vs下村vs阪本、菊川町では松田vs吉村とバッティング現象があちこちで起きている。地域の同窓会や自治会、商店会などで支持者の奪い合いがくり広げられている。中学校同窓会や高校同窓会のつてで動いている候補者もおり、「何十年と会ってなかったのにいきなり訪問してきた」などと話題になっている。

 

  ある神社の祭りの餅まきで、総代を差し置いて立候補者たちが競って登壇し、主人公のごとく餅をまき散らかしていたことが話題になっていた。選挙を前にして自分売り込みのアピールに励んでいたのだろうが、「みっともない」「やめさせろ!」と非難囂囂(ごうごう)だった。厚かましいから世話役からすると追い払うのも一苦労なのだろうが、この時期の彼らは顔を出して目立てる機会があればどこにでも出しゃばっていく。恐らく年末年始も色んな場所に出没するだろう。正月明けに商工会議所が主催する名刺交換会などにはフルメンバーが揃うのではないか。

 

  そういった本人自身の自己プロモーションの類いは耳にするが、問題は周囲で支援者が動いている気配が乏しいことだ。全陣営ではないにしても、とにかくおとなしい。なぜなのだろうかと思う。選挙では候補者本人の動きも重要だが、その候補者を押し立てて、自分たちの代表として議会に送り込んでいくんだという有権者の熱量が広がらないと話にならない。本来ならそれが議会制民主主義の土台になる。しかし、どうもその関係がひっくり返っている。候補者が主人公で、有権者が主人公ととらえていない風潮が支配的だ。

 

 近頃は議会制民主主義であるとか地方自治が否定され、私物化が問題になっているが、当選すれば好き勝手とか、何期やろうがいっこうに成長しないというのも議員の本分を忘れ、私物化していることのあらわれだ。安住して「飯の種」にしているからそのようになる。「市民のため」ではなく自分が主人公なのだ。

 

 そして「先生、先生」といわれる環境に慣らされて、思い上がりだけが一丁前になるケースがほとんどだ。逆に落選すると、威張り癖だけが染みついてつぶしが効かないのも特徴だ。某労組が抱えていたアレとか、結局再就職先の企業もクビになって市の外郭団体の事務に拾ってもらっていたではないか。市政与党として貢献していたから、議員をやめた後も世話してもらえるのだ。なにが連合出身の野党かと思う。

 

一元代表で衰退する街

 

  このまま無風の選挙にしてしまっては何の変化も望めない。有権者の半数がそっぽを向くような選挙で「選ばれた」などというのはおこがましい話でもある。そして、街はますます衰退していく。まず第一に地方自治が窒息しているし、安倍事務所を頂点にした一元代表制のもとで右へならえで衰退しているのに特徴がある。林派が自民党下関支部のなかでもひどくいじめられているが、一つにはいうことを聞かない者は制裁する狭隘な器の政治を体現している。異論を許さない独裁気質を反映して、市議会でも前田晋太郎みたいな若いのがたいした批判でもないのに感情的にいい返したりする光景がある。国会ですぐにムキになっているのを真似しているのだろう。まあ、それ以前に議場では起きとれ! とも思うが。

 

 言論を通じて是是非非を問うたり、思想信条の違う他者と対話をしたり、あるいは正正堂堂と議論を交わすという度量が乏しい。何度もいうが、異論を許さないなら議会などいらない。安倍派にしても林派にしても、年配層はそのあたりの常識はわかっているし、それはそれ、これはこれと是是非非で話も通じるのだが、代替わりの過程で狭隘なのが増えている印象だ。好き嫌い、気に入るか気に入らないかで政治をやる類いだ。現職市議のなかにも議場では勇ましいことをいうくせに考えの異なる市民と対話できないのがいる。

 

 対話して寝技で対象を籠絡させる、とり込んでいくというのが昔から下関では常套手段で、それこそ連合などはコロッとやられてきたわけだが、その手のやり方は過去の遺物になったようだ。山口銀行でも、昔から労働組合出身者がとり込まれて取締役に出世するのがパターンだった。日立の労務出身だった田中耕三(元頭取)の労働運動封じ込めの手口だ。サンデンでも第二組合出身の小浜は市議会議長にまで成り上がった。林派県議の塩満といっても労組上がりだ。ニコニコ笑いながら近づき、チョロッと餌に食いつかせて屈服させていく手法ではなく、今時は気に入らない者はヤクザに怪文書をばらまかせてでもつぶしていくというあの手の力任せでやっていく方針なのだろう。それで、安岡イジメのように後先考えずに感情的に突っ走る。

 

 B 自民党下関支部の乱闘にせよ、情熱を燃やす矛先が違うだろう…というのが大方の市民の感覚だ。「ほんとうに小物揃いになったな…」と年配の人たちのなかで実感を口にする人も多い。異論を許さない独裁気質の問題や小選挙区制度の弊害ともつながっているのだろうが、切磋琢磨がなくなって一元化することで、寄らば大樹の陰みたいな思考ばかりが蔓延し、自分で物事を考え、議員として為すべきことを貫くというタイプが少なくなった。あの場外乱闘も従うか従わないかを力の誇示によって迫っているわけだ。

 

  2年前の市長選で、安倍夫妻が直接介入してテコ入れした前田晋太郎が市長になった。そして、中尾友昭を応援した関谷が議長ポストを下ろされ、かわりに戸澤が議長に就いた。前回の座談会でも論議したように、この市議選は「安倍派だらけじゃないか」が実感だ。連合系といっても、それこそ先ほどから論議しているように安倍一元化市政の1ピースみたいなものだ。だから昔から連合安倍派といわれている。たたかう勢力がいないわけだ。

 

 その一元化市政のもとで、一つには創造性が働かないことが問題だろう。安倍派も林派も市政の実権を奪い合いはするが、どのように産業振興にとりくんでいくのか具体的な策を持ち合わせていない。10年スパンの基本計画などあるが、そろそろ市の衰退状況を正面から捉えて解決策をくり出さなければとり返しがつかないところへきている。

 

 最近、空き家関連の書籍を読んでいて、空き家予備軍の戸数では、下関は1位の東京都練馬区、旭川市に次いで3番目だと出ていた。人口減少や少子高齢化率の高さも全国屈指だが、人が住めない街と化している。「これは危機的な状況だぞ」と認識して、産業振興に全力でとりくむ力が必要だ。本来なら安岡イジメ以上に情熱を燃やさなければならないことだ。

 

東京依存の丸投げ体質にメスを

 

  高齢者ばかりになって自治会が維持できない地域もある。街灯の費用が捻出できないために灯が消える真っ暗な市街地が増えているのも問題になっている。年寄りが多く住んでいる過疎地では、介護施設もなければ介護職員も足りず、手が回らないなど混乱している状況もある。過疎高齢化が急激に進行しており、一方で若者が職がなく都市部に吸い上げられ、コミュニティーの維持が難しくなっている。しかし行政としては箱物をやりすぎた結果財政が足りず、公共サービスを縮小していく方向だ。夕張のようになるのではないかという懸念がある。

 

 B 戦後からこの方で見てみると、水産業が基幹産業として役割を果たしてきた。それこそ大洋漁業が本拠を構えていた時期は、市政であれ議会であれ、水産関係者が隠然たる力を振るっていたものだ。助役に大洋漁業が人材を送り込んだり、ある意味で私物化もしていたが、良くも悪くも産業を中心に市政が回っていた。この水産業が衰退して影響力が削がれるもとで、近年は観光一辺倒に傾斜したり、東京のコンサルタントが青写真を描いた開発に身を委ねたり、もっぱら箱物行政をくり返すだけになった。箱物依存なのは、市債を一手に引き受ける山口銀行の懐を満たしているという側面もある。

 

 役所に中央省庁のキャリア官僚の卵たちを部長として何人も招いているが、その時々の霞ヶ関の補助事業に飛びついて全国初の事業をしたり、下関の実情を知らない者が持ち込んだ政策を実行した結果、駅前の自転車道みたいなものが出来上がる。あるいはJR西日本のために、市財政を50億円以上も注ぎ込んで駅ビル(JR所有)を建設したりする。そして膨大なカネをかけて完成したはいいが、テナントの入り手がおらずドラッグストアが下関の玄関口を占有することになった。後先を考えない「今だけ、カネだけ、自分だけ」の政策が全般として支配的だ。

 

  特定の利害関係者の目先の利益のみを追い求めるような行政では展望にならない。それこそアベノミクスと同じで、散散食いつぶして逃げていくというのではたちが悪い。夕張状態になったときには、歴代の市長や議会の責任は大きいものがある。基金は既に80億円台まで目減りしており、脳天気にしていられる話でもない。年間20億~30億円足りないといって大騒ぎしているのが現実だ。財政部長ポストは総務省からキャリア官僚の兄ちゃんが天下ってくるのが定番だったが、危険信号が灯っているのをわかってか手を引いた。そして地元市職員の叩き上げが難局だけを委ねられている。

 

 都市整備部長、保健部長、港湾局長、時には教育長まで霞ヶ関関係者を呼んでくるのが習わしになっている。人物としてはおもしろい兄ちゃんたちも多いし、排他的な感情などないが、地方自治を丸投げしていると指摘されても仕方がない。問題はその本音として役所の側に「中央とのパイプでイイ事をしてやろう」という寄生的な根性が潜んでいることだ。

 

 前田市長になってから副市長にも経産省キャリアを呼んできたが、街作りや地域振興、下関の発展を他者に委ねていくという性根でどうなるのだろうか。必要なカネを地方交付税として下ろしてもらい、補助金事業を獲得することも確かに必要だ。しかし同時に、自分たちの脳味噌を使って、それこそ地を這うような努力をして街を作っていくくらいの気概がなければダメではないか。その創造力や主体性の乏しさが、衰退に対して為す術なく押し流されていく問題の根源にあるように思う。賢い人間の知恵を借りるのは手としてあり得るが、思いつきに委ねるのとは訳が違う。何年か腰掛けして去って行く、つまり下関で暮らし生きていくわけではない者にはどうしても責任は負えない。

 

  市政の主人公は市民であって、市民の暮らしのために市政が存在しているという当たり前の道理を取り戻さないといけない。選挙戦を見ても候補者が主人公になりきっており、従ってあれらの就職合戦に付き合うのはバカらしいという形で市民は冷めている。当然だ。そして市民と議会がますます乖離(かいり)する。私物化政治の弊害で考え方がひっくり返っている。

 

 議会や行政の現場から、下関の地に足をつけて、現実に即した政策を打ち出していくことが必要だ。そのためには、右へ習えのイエスマン揃いではなく、みずから創造力を働かせ、勉強しながら向上していく者、市民生活の実情に分け入り、是是非非で物怖じせずにぶつかっていく者が必要だ。いまさら新しい候補者など望みようもないが、それぞれの地域や組織を代表するというのであれば、調子の良いことばかり主張する候補者はつかまえて問い詰めてみるとか、見極めが重要だ。しっかりと有権者が手綱を握らないといけない。投票率の低さに助けられるような選挙戦にしてはならないと思う。

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