戦時中、治安維持法のもとで「拷問による自白強要」でねつ造された「横浜事件」の元被告の遺族が「国家賠償」を求めた裁判で、東京高裁は24日、第一審判決を支持して控訴を棄却した。マスメディアは、治安維持法によるえん罪事件の被害者を救う裁判制度のあり方を論じている。だが同時に、戦時下最大の言論弾圧事件「横浜事件」から、当時の知識人が困難な状況下でいかに真実を曲げることを拒否して、抵抗していたかが浮かび上がってくる。
「横浜事件」は日米開戦直後の1942(昭和17)年、世界経済調査会の川田夫妻の検挙から始まった。雑誌『改造』『中央公論』などの編集者、ジャーナリストや満鉄調査部などの研究者など総数60人が逮捕、投獄された。この過程で神奈川県特高警察の卑劣な拷問によって、獄死者4人をはじめ多数の痛ましい犠牲者を出した。天皇制政府は敗戦と占領直前のどさくさにまぎれて、戦争犯罪を免れるために10分間の形式的裁判を演出。その場で、約30人におしなべて「懲役2年、執行猶予3年」の有罪判決をいいわたして釈放した。同時に、その裁判記録を焼却することまでやった。
無罪をかちとるために再審裁判を求めた元被告は木村亨(当時、『中央公論』編集員)、平舘利雄(経済学者、元満鉄調査部員)の2人であった。無罪判決を求める根底には、「旧日本帝国の権力犯罪が“有罪判決”のままに放置されていた」(木村亨)という痛恨の思いがあった。しかし、生存中に再審は認められず、遺族が引き継ぐことになった。2008年の判決は、「治安維持法の廃止」を理由に、有罪、無罪を判断せず裁判を打ち切る「免訴」の判決が確定した。その後、遺族が拷問や裁判記録の焼却を違法だとして国家賠償を求める訴訟を起こした。東京地裁の一審判決(2016年)は、その違法性を認める一方で「国家賠償法の施行前の行為」だとして請求を退けていた。
取調でも侵略戦争反対を主張した細川嘉六
神奈川県特高警察が「横浜事件」のカナメの位置にすえたのが、政治学者・細川嘉六(当時、満鉄東京調査室嘱託)と出版関係者らが「日本共産党再建準備会」を持ったとしてでっち上げた、いわゆる「泊(とまり)」事件である。特高警察は、細川嘉六が『改造』(1942年8月号)に執筆した論文「世界史の動向と日本」が「国体変革、世界共産主義実現の目的」をもって書いたとして、その関係者とともに逮捕・投獄した。そして、彼等(特高)が描いた「共産党再建」のシナリオにそって自白を迫り、その「証拠」としてねつ造したのが、細川嘉六の郷里の泊(富山県)で開いた出版記念会でのスナップ写真であった。
細川嘉六はこの論文で、「わが国の目指す『東亜新秩序』の建設は、旧来の植民地支配政策ではいけない。民族の自由と独立を支持するソ連の新しい民族政策の成功に学べ」と主張していた。それは当時、ボリシェビキが主張していた民族自決権が第1次世界大戦後の世界的なすう勢になるなかで、日本は欧米帝国主義と同じ道を歩むのではなく、アジア諸民族の自決・独立の達成を助けるべきであると強調するものであった。
細川嘉六の論文は、当時の植民地「満州」の国策機関であった満鉄調査部の資料をもとに執筆したものであった。このことは、「横浜事件」と時期を同じくして満鉄調査部で、中国の抗戦力調査などに従事していた知識人40余人が「合法的場面を利用した共産主義運動」だとして投獄された「満鉄調査部事件」がひき起こされたことと連動していた。
細川が1943(昭和18)年の尋問調書で、次のように陳述していたことも、そのことを示すものである。
「私は日本帝国主義の満州北支等に対する侵略には反対であり、又蒋介石の軟禁政権はブルジョア政権として、列国帝国主義の傀儡(かいらい)たる存在として中国共産党に対しては、これを支持する気持ちにありました。この考えは私の学問的良識であり信念でありました」(『横浜事件の証言・細川嘉六獄中調書』、不二出版)
官憲による取調べでも、細川は「今次の世界大戦も帝国主義戦争であり、独立資本主義国家間の世界再分割の為の戦争」であること、「支那事変は支那側にとっては、日本帝国主義侵略反対の戦争」であり、細川がとってきた立場は「日本帝国主義の侵略戦争に反対」であると、明確にのべていた。さらに、「大東亜戦争は支那事変の延長拡大であり、その性格は日本帝国主義と英米蘭列国帝国主義との戦争であり、大東亜に於ける植民地再分割の戦争たる性格」を持っていることを明確にしていた。
また当時の国内情勢についても、「昭和12年支那事変の勃発」まであった反ファッショ的勢力がすべて弾圧され、「ブルジョア政党さえも解党せざるを得なくなり、翼賛政治一色に塗りかえられ、労働組合等は官製産業報国会一色に改変」されたとして、「国民生活は戦時インフレに基づく物価騰貴、大衆課税の高率化、労働時間の延長等」ますます窮屈になってきたと強調。国家の政策は「国民大衆の民主主義的要求」に沿ったものでなければならないと主張していた。
同じ満鉄調査部にいた平舘利雄は戦後しばらくたって、次のように発言している。
「細川氏の論文は、結局世界の動向は植民地独立、民族解放であるとし、これによって占領地の軍政すなわち、現地での軍需品調達、現地人の徴用など占領地の物的人的搾取の批判をふくんだものであった。さらにその底には反戦思想があった。しかし、これを直接表現することができず、右翼的もしくは国士的文字を使ってこれを粉飾している。だから内務省検閲課は、これに難色を示さずすんなりパスしたものである」「細川論文のような反国策論文を掲載するには相当の覚悟が必要であったろう。やはり、そこには反戦思想の支えがあったからだ」(1987年、『長周新聞』)。
細川嘉六は「学問の目的というものは自分の立身出世ではなしにひたすら真理を求め、国家社会のためになすべきもの」であるとして、「真実はいかなる批判困難にも堪え発展す」を座右の銘としてきたことで知られる。
進駐軍の戦犯免罪を許さぬ 再審請求で闘う
もう一人の再審請求人である木村亨は、著書『横浜事件の真相』のなかで、拷問による自白の強要に屈服させられたことへの屈辱的な思いとともに、同じ獄中で細川嘉六の励ましで戦闘意欲をかき立てられたことを回想している。1945年8月15日、敗戦のラジオが流れた直後、細川から「わたしたちに対する当局の不法拘禁は断じて許せない。総理大臣か、司法大臣がここへ来て手をついて謝らないかぎり、決してここは出てやらぬ肚(はら)をきめたまえ」と記した紙切れが回ってきたという。
同時期、細川は「再出発のための教訓--甘ちょろさを今こそ清算せよ」と題するメモで「民主主義の徹底」を指導原理とし、さしあたっての政策として「言論・集会・結社・出版の自由の確保」とともに、「戦争責任者の国民自身による裁判と処断」をあげていた。さらに、「戦争の責任者どもはいち早く……英米資本との妥協を試み、一切の悪辣なる陰謀と暴力を以て国民の正しい力を破砕せんとするであろう。英国式似而非(えせ)立憲民主主義に欺かれるな。一切の反動と、洋行帰りや転向組の再転向による大混乱、党内の分裂・対立抗争の危険性を避ける道は、広汎なる大衆の心に基礎を置き、そのときそのときの中正なる公道をとり、大胆にして老練に、一歩一歩確実にこれを遂行する執拗な努力を継続することだ。(レーニンの例をみよ)」と訴えていた。
木村亨はとくに「戦争責任の追及」とかかわって、「残念なことにわが国での戦争責任の追及はこの国を占領した進駐軍だけの手による戦争犯罪の追及、戦犯裁判はついほとんど何一つ為しえないで終わってしまったのであった」と痛恨の思いを記している。そして、「進駐した連合軍のことを解放軍と認識していたこの国の革新派」にとっては、ドイツやイタリアでやられた「国民による戦犯裁判」は人ごとであったと、批判的に回想している。
第2次世界大戦さなかの言論弾圧に抗して真実を貫こうとした知識人の言動は、真理を探究する学者・研究者、言論人が継承すべき豊かな内容と教訓を後世に残している。