7月上旬の豪雨災害で岡山県倉敷市真備町では川が増水し、堤防が決壊して一帯が湖のような状態になった。住宅は泥水に浸かってとても人が住める状態ではなく、住民たちは仮設住宅やみなし住宅、避難所に分散している。農業者をはじめ生活の糧を失った人人も少なくない。被災後、機能停止した真備町では、住民たちや全国各地から集まったボランティアが復旧に向けて必死の作業を続けてきた。2カ月が経った現地を取材した。
もぬけの殻のようになった住宅街
真備町では7月6日の夜中に、街の北側から流れる高梁川の増水した水が、西側から流れる川幅の狭い支流である小田川の合流地点で小田川の水流をせき止め、逆流させる「バックウォーター現象」を引き起こした。そのことで小田川の堤防が決壊した。また小田川の支流である高馬川や末政川といった複数の河川の堤防も決壊した。堰をこえた川の水は真備町の市街地へと容赦なく流れ込み、川沿いの家家は土台の上から流されたり、市街地でも広範囲にわたって住居が2階まで浸かった。12平方㌔㍍が浸水し、深さは最大で5㍍以上にもなった。51人が死亡し、その9割が自宅の1階で濁流に呑み込まれ、犠牲になっていた。
小田川の堤防付近の家の片付けをしていた男性は、「こんなことになるなど、普段の水量からはとうてい考えられない」と話していた。6日当日、家の周囲では午前4時頃にはすでに1階がすべて冠水していた。数分後に水は2階まで達し、畳が浮いた。消防の救助ボートに2階の窓から乗り込み、妻と一緒に間一髪で救出されたが、家の裏にあった1階建ての家屋では、普段から親しくしていた家族3人が逃げ遅れて死亡していたという。
真備町は米どころであると同時に、ブドウの名産地でもある。田や畑には川底のヘドロ混じりの泥や流木、石、倒壊した家屋のがれきや決壊した堤防のコンクリート壁などが流れ込んだ。農機具も水に浸かって使い物にならないなど、壊滅的な打撃を受けて多くの住民が生活の糧を失った。そのほか、街のスーパーや病院、町役場などもすべてが水に浸かり、街全体の機能が停止した。
被災から約2カ月後の真備町内では、住宅街はみなもぬけの殻となり、ほとんど地元住民の姿はない。町内のほとんどの住居が丸ごと浸水したため、とても家へ戻って生活できる状況ではない。住宅を今後解体するのか、はたまたリフォームするのか決めかねている住民がほとんどだ。とりあえず家の中の泥や家財道具をすべて出し、床や壁、天井の板を剥がして乾燥させる状態までこぎつけた。作業の手が切れた住民は仮設住宅やみなし住宅、避難所へと拠点を移し、普段用事がない限り真備町内には戻って来ない。夜になると家の明かりは灯らず、街は真っ暗になる。
人気の少ない町内では、全国各地から集まってきたボランティアや土木作業員たちが家の中へ入り、壁板や床板、天井など浸水した部分を剥がしたりする作業にあたっていた。被災直後は街中にがれきや泥が堆積し、家の中も一度水で浮いた家具が乱暴に転がっている状況だった。そこから約1カ月半の間にボランティアの活躍もあって、現在ではほとんどの家で片付けが終わり、残りの家の床板はがしや、あとから出てくるゴミ出し、側溝の泥かきなどの作業にあたっている。被災直後の1カ月間に比べると、やや落ち着いてきた状態だという。
機能麻痺した市役所支所
真備町には倉敷市役所の真備支所があるが、支所が被災して1階はすべて冠水し、2階へ続く階段の途中まで水が迫った。町全体が壊滅的な洪水の被害を受けたなかで、本来なら災害時の拠点として指揮をとるはずの支所の機能が麻痺した。職員らは被災直後の2週間は支所にも入れず、支援物資の受け入れ業務へ回り、3週間目にようやく支所1階の片付けに手を付けたという。汚水や田の土などを含んだ川の水に浸かったため、書類や機材もドロドロになった。その異臭は鼻をついた。行政文書や大型の機材などを撤去し、片付けが済むまでに2週間を要した。そこから壁や天井の板を剥がし、支所2階を使って窓口業務の一部を再開したのは被災から約1カ月後の8月4日。全業務を再開したのは8月16日からだった。そこから土日返上で職員らが詰めて業務に奔走してきた。
支所のある男性職員は「何もかもが水に浸かり、真備町そのものの機能が麻痺し、説明会を開くにも説明会をおこなう会場もないような状態だった。ようやく支所でも全業務を盆明けから開始した。9月上旬から被災した家屋の公費解体の受付を開始するとアナウンスしているが、まだ具体的にいつ始まるのかという話も聞いてはいない。みな町外へ生活拠点を移し、用事がある人だけが真備町へやってきて、夜になると仮設など外の街へ帰って行く。2学期も始まるが、真備町内の小中学校では授業ができないため、子どもたちは町外へ通うことになる。これまで仲の良かったクラスメイトや習い事の繋がりなど、真備町で培ってきた環境から出なければならなくなる。真備の子どもたちが他の地でも元気にやっていけているのかが今は一番心配だ。また、高齢者も多いため、健康面や精神面での負担も気がかりだ」と話していた。
住居再建の目途が立たず足踏み
水に浸かった家屋も、家具や泥を出す作業はほとんど終了しており、解体やリフォームに向けて板を剥がし、断熱材をとりのぞいて消毒し、乾燥させる作業が進んでいる。汚水混じりの泥水に浸かったために湿気を多く含んでおり、乾燥させなければリフォーム作業にもとりかかれないため、どの家も木の骨組みがむき出しのまま開け放たれている。
家を解体してしまうのか、リフォームしてまた住むのか、答えが出ず次の生活へ向けた一歩を進められない住民も少なくない。自宅の片付けをしていた男性は、「休む暇もなく動いて、ドロドロの家をなんとか片付け終えた。ただ、リフォームするか、解体して新築するか、息子を頼って関西へ移って暮らすか、まったく答えが出ていない。公費解体の受付も始まっていない。市や県の補助がどれくらいあるのかもよく分からない。公費解体が始まっても、順番に解体していって、そこから新築して住めるようになるまでどれくらい時間がかかるか見当もつかない。2年間で仮設から出なければならないが、生活基盤を得られているかどうか分からない。リフォームをして住めるようにしたところで、自分たちがあと何年暮らせるかも分からない。息子たちに数年後、“あのとき解体しておけばよかった”と思われるのもいやで、この歳になって借金を作ってまで家を建てるのも気が引ける。“真備でまた暮らしたい”という思いはみなが持っているはずだが、このままでは時間だけが過ぎていき、真備を出て行く人は増えるだろう」と複雑な心境を吐露していた。
公費解体は半壊以上の被災建物や被災工作物等を市が災害廃棄物として解体・撤去をおこなう事業で、「9月上旬から受け付けを開始する」としているが、住民に対してはいまだ音沙汰がない。したがって次へのステップを踏み出すための判断材料は乏しい。今月8日と9日にようやくその説明会が真備公民館で開催されることになったが、真備の人人は個個ばらばらの状況のなかでもどかしさを募らせていた。
孤立無援の稲作農家
真備町では川沿いの地域で農業を営んでいる農家が多く、そのほとんどが稲作農家だ。田んぼには再起をあきらめざるをえないほど大量の流木やがれき、石や土砂、油などが混じったヘドロが流れ込み、ほとんどの農業者が農機具の損害を受けた。農機具の買い換えや倉庫の建て替えには九割補助が出るが、死にかけている田んぼや畑を再建し、再び農業に従事するにはあまりにも孤立無援の状況に置かれている。
田や畑に流れ込んだ泥は5㌢以上の場合、行政が撤去作業をおこなうことになっている。堆積した泥が5㌢以下の場合、各農家が自力で撤去するか、田の土の中に泥を混ぜ込んでしまうしかない。だが自力で泥を撤去しようと思っても農業機材は使い物にならず、ユンボなどの重機は手に入らないため、動こうにも動けない状態だ。田の中には川から流れてきた泥に混じってがれきや石が入り込み、その上から雑草が伸び放題になっている。大きながれき以外はどこに何が転がっているかも分からない状態だ。「草が枯れてからでないとどうしようもない」という農家が多いが、その頃には雑草の種が大量に田の中に落ち、来年元のように稲作ができるかはわからない。資材の購入に9割補助を受けられるとしても、田や畑の泥やがれきの撤去はいくら資金があっても解決できる話ではなく、あとは個人の責任で時間と労力を割いてとりくむしかない。
所有する田と畑の両方に泥が入ったという農家の男性は「田んぼはもうあきらめるしかない」と話していた。自分で泥の撤去をしなければならないが、そのための重機もないため、畑はスコップを使って1人で手作業で除去するという。仮設からわざわざ通うのも負担が大きく、この日からかろうじて残った自宅2階の一部屋を掃除し、簡易ベッドを置いて寝泊まりしながら1日も早い農業の再開を目指していた。
真備はブドウの産地でもあり、夏から秋にかけて収穫の最盛期を迎える。町内の選果場では農場が水に浸かっていない農家が収穫したブドウの出荷作業をおこなっていた。だが、町内では多くのブドウの農場が洪水の被害にあった。被災した7月上旬は収穫の1週間前で、袋がけまでしていたが、泥水に浸かり出荷できなくなった。また、泥水に浸かった葉っぱには泥がこびりついているため光合成ができず、放っておくと木全体の栄養が失われて枯れてしまう。復旧を目指すブドウ農家では、葉を洗い、枝を切って脇芽を出させて再生を図っている。
あるブドウ農家の男性は「来年どうなるかも分からない。ビニールハウスが壊れたり、農機具や軽トラなど必要な機材すべてを失った。補助を受けられると思って先に資金を手出ししても、あとからいろいろな条件がついて先に動いた者が損をしてしまうともいわれる。だが、迷っているよりも今できることを地道にやるしかない。被災した者が誰かのてのひらの上で転がされているのではないかと思うこともあるが、自分たちはここで負けるわけにはいかない。良い方向へ向かうと信じて動き続けるしかない」と話していた。
建築業を営む男性は「仕事をしなければ食っていけない」と、できる限りの仕事を再開していた。自宅も事務所も工場もみな水に浸かり、トラックや材木、工具もすべて使い物にならなくなった。被災直後は知り合いや仕事仲間が片付けを手伝ってくれ、片付けのためだけに人も雇った。材木は泥水に浸かってしまった。ぬれただけなら良いが、洗ってもにおいがとれず、どうしても使い物にならない。「資材や工具、車などみなやられてしまった。重要な重機やトラックはこれから仕入れなければならず、今見積もりを出してもらっている状況だ。こうしている間にこれまでとってきた仕事が他の同業者に持っていかれるのではないかと心配になる。仕入れていた資材はみな使い物にならなくなったが、その代金も支払わなければならない。とにかく今は自宅のことよりも仕事へいち早く復帰できることが最優先だ」と語っていた。
取材で出会った人人の多くが「真備に戻ってくる人がどれくらいいるだろうか」と語っていた。2カ月を経て泥やがれきの処理は進んだが、生活再建へ向けた次のステップとして求められているのは、住宅再建のための支援スキームだ。足踏み状態をよぎなくされていることへのもどかしさを多くの住民が感じており、行政側の政策やサポートが追いついていない。しかし、そんななかでも、どうしようもない壊滅的な被害のなかで悲観するのではなく、立ち上がって前を向き、少しずつ復興へ向けた努力を始めている人人もいる。住民の要望をくみとり、復興への思いや努力に寄り添い、牽引する行政の災害対応が求められている。