広島市北部で19日未明、集中豪雨によって広範囲の複数の場所で土砂崩れが発生し、死者39人、行方不明者は51人(県警発表、21日午後現在)を出す大惨事となっている。災害発生から2日たっても被害の全貌は把握できておらず、安否の連絡がつかない人人が通報によって次次に不明者に加えられ、今後さらにその数は膨らむ趨勢にある。被災現場では家屋も道路も土砂に飲み込まれたままであるため不明者の捜索が進まず、ライフラインの復旧はおろか被災者の生活再建のメドはまったく立っていない。いまだに把握できないほどの被災者数に加え、学校や公民館など市内20カ所の避難所には家に帰れない1000人をこえる住民が避難生活を送っている。災害発生から2日間の現地を取材した。
後手に回った避難勧告の発令
広島市では19日夜から断続的に雨が降りはじめ、「空爆のような」雷が響くなか、安佐北区では20日午前1時から4時までの3時間だけで217㍉(8月の平均雨量の約1・5倍)の猛烈な雨が降り注いだ。
もっとも被害の大きい安佐南区八木地区は、麓を切り開かれた阿武山から太田川に向かって20カ所をこえる傾斜地で土砂崩れが発生し、雨水の濁流とともに大量の土砂が家もろとも400棟がひしめき合う住宅地を飲み込んだ。最初の発生が20日の午前3時半ごろといわれ、約500㍍離れたJR可部線の線路に到達するまで数十分の間だったという。
多くの住民が激しい雷や雨音で目を覚ましたときには「すでに土砂で玄関のドアが開かなかった」「道路は川になって避難できる状態ではなかった」と語っており、市の避難勧告発令が午前四時だったことに加え、すべての対応が後手に回ったことが指摘されている。土砂の生き埋めになった26人の死亡が確認され、いまだ39人が不明となっている(ともに市災害対策本部、21日午後8時現在)。
八木地区に親子3人で暮らす50代の男性は、「2時半ごろに雷の音で目が覚め、外を見たら玄関の床下まで水が来て、道も川のように流れていた。1時間以内に20㌢以上水位が上がって床上に泥が上がってきて逃げようにも逃げられない。警報も避難勧告もなにもなく、まったくの無防備だった。雨音と雷で防災無線は全く聞こえないし、3時に停電したのでテレビも付かず情報が遮断された。土砂崩れの通報を受けた消防の救急車が線路の向こうまで来ていたが土砂と水で入ってこれず、ほとんどなすすべなく家の2階で夜明けを迎えた」と語る。
車が入ってこれるようになったのは発生から10時間近くたった午後2時ごろで「備えもなければ、救助もなにもなく、恐ろしかったが命があっただけよかった。30年以上暮らしてきてはじめての経験だ」と疲れきった顔つきで語った。
土砂崩れ現場に近い県営住宅で祖母と2人暮らしの19歳の女性は、「午前3時半ごろ裏山がゴーと音を立て始めて竜巻かと思った。真っ暗で何も見えず、様子を見に行くともう土砂崩れがはじまっていた。一度祖母と一緒に避難したが、近所の人から“避難所が決まっていない”といわれて一旦戻り、その後、相談して近くの小学校に避難するなど混乱した。夜が明けてからヘリが上空から“避難してください”といっていたぐらいで、避難指示はほとんど伝わっていなかった。家ごと消えてしまった近所の子がまだ見つかっておらず心配だ」と話した。
この地域が山を切り開いて造成された危険箇所であったにもかかわらず、その防止策や行政からの危機意識の喚起はほとんどなく、災害発生後も避難勧告の遅れをはじめとして組織的な危機回避策はほとんど機能していないことが浮き彫りになっている。
住民たちは休む間もなく、不明者の捜索をはじめ埋もれた家や道路の泥かきやガレキ撤去に追われているが、町を飲み込むほどの大量の土砂に対して手作業の人海戦術ではなすすべもない。土砂をまともに受け止めた上流部の宅地では、住居の1階部分が埋まるほどの土砂が堆積し、そこに山からの水が絶え間なく流れ込んでいるため、不用意に足を踏み入れると腰まで沈んでいくほどぬかるんでいる。手の施しようもなく、身一つで難を逃れた人たちも心身ともに疲労して途方に暮れている姿も少なくない。
もどかしさが募るなか、市や県、警察、自衛隊などの現場対応が遅く、住民の焦りと裏腹に救助、復旧作業がまったく進展しないことにいらだちも募っている。県から自衛隊派遣要請が出されたのも発生から3時間もたった20日午前6時半だったが、本格的に自衛隊が集結しはじめたのは翌日の21日になってからで、重機を積んだ自衛隊車両が国道54号線に鈴なりになっているが1日中そこを動かない。「なぜ動かない」「飾りなのか」と不思議がる住民は多い。
3人が死亡した可部東地区に住む20代の女性は、隣の家が裏山の土砂に押し流された状況を語った。雷と豪雨で寝られずにいると、まだ暗い午前4時ごろに1回目の土砂崩れが隣家を直撃した。「家がスライドするように土砂に押し流され、大人の腰まで埋まるほどの土砂をかき分けて隣のお父さんが子どもを抱いて逃げだそうとしていた。屋根から懐中電灯で照らしてあげることしかできず、すぐに父が119番に通報して数人の消防隊員が駆けつけたが、15分ぐらいで2回目の土砂が押し寄せて何も見えなくなった。その後、父親から子どもを受け取った消防隊員が飲み込まれたことがわかった。もう少し早かったらと思うと残念でならない」と対応の遅れを悔やんだ。
自衛隊がヘリで到着したのは、それから5時間たった午前10時ごろで「3人の不明者の遺体を見つけた段階で、不明者の多い八木地区の応援のため1人もいなくなった」。可部東地区も大量の土砂とガレキで家は埋まり、道路は寸断され、孤立無援状態となっているが、復旧作業にあたる自衛隊や警察の姿は見えない。自力で家の土砂をかき出しながら「家には入れず、仕事もできない。これから一体どうなるのか…」と先行きの不安を語る人ばかりだ。
不明者が多い八木地区でも21日になって災害現場で動いているのはユンボ一機だけ。大量の土砂やガレキを撤去しなければなにもはじまらないが、土砂の多さや二次災害の危険性を理由に他の重機が動く気配がない。大阪府警など他府県の警察や消防隊員がスコップをもって集結しているが手の施しようがなく「県警・陸自など3400人投入」とメディアが大きく報じても、「2日たってもなにも変わらない」のが現地の実感だ。
広島市の警戒喚起、避難勧告の遅れに続き、さらに遅れた県の対応、生存の可能性が限りなく厳しくなっていく状況下での自衛隊の存在感のなさ。市、県、国がそれぞれ対策本部を設置し、警察、自衛隊がそれほどの人員を投入しながらも、いまだに被害の全容把握ができないことも統治する側の機能不全状況を物語っている。災害情報を知りながら静養地でゴルフにいそしんでいた安倍首相の感覚そのままに、あきらかな感覚の違いがあらわれている。
災害地域で働く住民は、「八木地区の崩落場所は、そもそも山を削って宅地を造ったのに法面のコンクリ打ちもされておらず、大雨が降ったら絶対に危ないといわれていた。そういう場所は無数にあるが造成を許可した県はなにもしてこなかった。さらに70年代に国道54号線の拡幅工事のために平地から立ち退き要請を受けた人たちの移転先にもなった。都市開発のために無理な造成をした結果で、“高台は安心”といいながら津波と同じ結果になっている。住宅ローンを抱える一軒家も多いが、土地も売れないし、自己破産が増えないか心配だ。個別責任で切り捨てるのではなく、先を見通せる対応を早急に示してほしい」と話していた。