朝鮮戦争の終結に向けて南北対話が進み、歴史的な局面を迎えている。第2次大戦中の日本軍国主義による植民地支配、そして朝鮮戦争から現在まで続く、長い苦難の歴史に終止符を打つことは、朝鮮民族にとって長年の悲願だった。それは故郷を追われ、日本での差別とたたかいながら生きてきた在日朝鮮人も同じだ。ヘイト(嫌悪)行為などがくり広げられるご時世にあって、在日朝鮮人がなぜこれほど日本に住むようになったのか、どのような歴史をたどり、いかなる経験をしてきたのかを知ることは、日本人にとっても曖昧にしてはならないものだ。下関の在日朝鮮人1世の故・姜海洙(カン・ヘス)氏が2002年11月、みずからの体験を本紙に語った内容を紹介する。姜氏は戦前、日本の植民地統治下の朝鮮から下関に移住し、戦中から朝鮮青年の団結の中心になり、在日者の生活擁護と民族的な誇りを回復するために奮闘した。戦後も在日朝鮮総連や商工会の下関支部の責任者として献身的に活動し、在日朝鮮人から熱い信頼と尊敬の念を集めた。
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戦前の下関の朝鮮人の活動の状況については誰も明らかにしていない。
私は1933(昭和8)年8月頃、小学校4年生のときに、親に連れられて下関に来た。すぐ上の兄が1923年に先に来ていた。6人兄弟で姉3人が嫁ぎ、兄が独身で1人で来ていた。その後両親とともに家族がみな下関の大坪に来た。
植民地時代の朝鮮の田舎は本当に生活が苦しかった。朝鮮では、コメの飯を食べたことがなかった。家は小作で農業をしているのに、コメの飯が食べられず、コメを売って年がら年中ムギばかり食べていた。3~4月ごろにはムギが切れるので、コメぬかを餅のようにして食べていた。1日置けば、カチカチになって歯が立たないようなものだった。魚などは塩づけにした臭い魚を月1回食べられるかどうかだった。近所のおじさんで毎年一時期部落からいなくなる人がいた。よその部落に行って乞食をして、作物ができるころに帰ってくる生活だった。
これは植民地支配のもとでの生活の現実なのだが、日本に行けば少なくともコメの飯が食べられると聞いて、日本に行くことがあこがれだった。だが誰でも行けるわけではなく、日本につながりがあることを証明する手紙などを見せて恩着せがましく許可をもらった者だけが行くことができたのだ。だが、日本での生活はひどいものだった。
下関では、当時松井信助市長の時期だが、全人口16万のうち1割が朝鮮人というまでになっていた。小学校のクラス児童50~60人のうち朝鮮人が5、6人いた。大坪、園田、彦島などに朝鮮人の集団部落ができたが、とくに大坪の部落になぜ朝鮮人が永住することになったのか。
この地域はもともと、松の木などの雑木林であり、火葬場と刑務所があり、被差別部落があるところだった。その奥の山のふもと、もともと人が住まなかったところに、日通などの企業が朝鮮人対象の社宅をつくり、ハーモニカのような長屋があった。日本人が経営していた豚小屋の汚物が雨が降れば流れてくるので、穴を掘ってためていた。だからこのあたりは臭くて「トンクルトンネ」といわれたが、直訳すれば「ウンコの部落」という意味だ。
朝鮮人は協和会に組織されていた。今の交通安全協会のようなものだが、朝鮮人は協和会の手帳を渡された。特高警察は朝鮮人の統制の方法として、飯場(土木工事や鉱山の現場にある労働者の宿泊所)と遊郭の親方を手下に使っていた。
下関の高尾から元町にいたる基点、元の市民病院裏あたりに交番所を建てて、そこに留置場を置いていた。特高の作田巡査部長は、朝鮮語がペラペラだった。早川という巡査が駐在し、留置場に入れた朝鮮人にリンチを加えていた。
日中戦争が始まって、強制連行が始まると、大坪の部落は飯塚、宇部、小野田や遠くは北海道の炭坑から逃げてくる朝鮮人のたまり場になっていった。飯場の親方が彼らをかくまってやるが、親方は特高などの権力とつながっており、かくまわれた朝鮮人は奴隷のように扱われた。飯だけ食わせて、「いうことを聞かないと警察に突き出すぞ」と脅していいなりにさせるというやり方だ。
だが、大坪の部落の中には権力は一歩も踏み込めなかった。入れば袋だたきにあうからだ。だから大坪の部落の親方を手先にして統制していたのだ。親方は、篭寅組のヤクザの下請で、ヤクザのような態度で鮮魚のトロ箱打ちなどの仕事に飯場から人夫を出していた。
関門トンネル建設とか、小月飛行場や火の山要塞などの建設に朝鮮人が動員されたが、これは地元の朝鮮人ではなく、朝鮮から強制連行された者が使われた。軍事的に重要な建設には下関の朝鮮人は危なくて使えなかったのだと思う。
朝鮮人経営の遊郭は、下関で20軒ほどあった。大坪、今浦、新地が多かった。この親方も権力とつながっている。朝鮮まで遊郭で使う婦人を買いに行っていた。今の朝鮮会館の横手にある公園は池だったが、戦時中のある日、女の人がうつぶせになってプカプカ浮いているのを見た。大坪の遊郭の女が自殺した姿だった。
朝鮮人の生活は苦しかった。独身者は飯を食わせてもらえるだけで、飯場で雑魚寝だ。もちろん部屋はない。少しでも金が入れば遊郭に行って、すっからかんになって、また働くという状況だった。家庭持ちは家族が5人から10人が普通だった。旦那があくせくして土方か仲仕(荷役労働者)などをして働いて、日当をもらっても生活できなかった。
当時の重労働はほとんど朝鮮人がやり、日本人はいなかった。浜仲仕の仕事は船から陸揚げをするのだが、100㌔ほどの砂糖袋を2つから3つも肩に担いで波のようにたわむ板の上を渡るという重労働だった。その仕事をしていた朝鮮人は、みんな肩にコブができてそのうえに毛がはえていた。便所に行ったとき、隣で用を足す仲仕たちが立ったり座ったりするときにボキボキと関節の骨が、うなり声とともにしたことを今でもはっきり覚えている。そのように体が変形するような労働だった。
山の上に共同の井戸があったが、深かった。家庭の婦人がつるべを使って朝から晩まで水をくむのがたいへんな労働だと子どもながらに見ていた。近くに日和山の浄水場があり、日本人の家庭には水道がついているのに。
高尾の市民病院の裏に火葬して骨を拾ったあとの灰やコークスのような物が山積みに捨てられていたが、その上に大坪の朝鮮人のおばさんたちがハエがたかるように集まっていた。金歯とか金の指輪などを探して見つかれば大もうけになるからだ。
朝鮮人の子どもは着ているものですぐわかった。ズボンのひざがぬけるとあり合わせの色の違う布でつぎをあてていた。昼飯は家まで走って食べに帰っていた。おかずはキムチしかなく、臭いといわれるからだ。傘もまともな傘がなく、穴があいた傘でぬれて歩いていた。友だち同士でも朝鮮人はのけ者にされ、「おい、ヨボ」といわれて名前で呼ばれなかった。先生が先頭に立って、ことあるごとに「この朝鮮人が」といって差別する状況だった。遊郭の息子など一部は中学まで進学したが、普通の者が希望してもばかにされ、まともに扱ってもらえなかった。当時は日本人も汽車に乗るときは、身分証明書をもらって切符を買っていたが、これは朝鮮人対策、つまり強制連行した朝鮮人が逃げるのを防ぐ手段だったと思う。
独立と統一の強い願い
こうしたなかで、朝鮮人は卑屈になっていただけではない。次第に抵抗勢力ができていった。「内鮮一体・皇国臣民化」を掲げる協和会が青年団をつくっており、幹部は遊郭の息子らだったが、サッカーや演劇活動をしていた青年たちのなかに弁論部が生まれた。一般の青年はこの活動のなかで目覚め始めていった。
ものがいえない状況のなかで、弁論大会などでは自分の考えの3分の1でもしゃべると、すぐに抵抗するもの同士が心の中で共感しあい、広がっていった。研究会などで書籍の勉強もやるようになり、独立運動を志向するようになった。こうしたなかで、文学活動をしていたものが憲兵隊に連行されていった。終戦直後、協和会で権力の手下になっていたものたちがいち早く逃げて、大坪の青年たちが遊郭の女の子たちを解放した。
戦後、下関の朝鮮人が日本共産党に集団入党し、宇部・小野田をふくめて、全国のどこよりも激しいたたかいをしばしばやったが、それには戦前からのこのような抵抗があったのだ。
国、言葉、名前を奪われた朝鮮人は、戦後、アメリカ占領下の日本で子どもたちの民族教育のために、塾のようなものから始めて学校を建設していった。だがGHQは「朝鮮人は、日本の学校で日本人と一緒に戦前と同じように日本の教育を受けさせる」と対応した。これに対して山口民政府(県庁)に山口県下の朝鮮人が大挙して3万人押しかけ、要請行動を起こして勝利した。このたたかいが後の大阪方面の民族教育のためのたたかいへと波及していった。
戦後、下関は全国の朝鮮人が帰国のために集まってきた。そして帰れなかった者が残って定住するようになった。しばらくは失対事業で日当を得ることに依存していた。だが朝鮮人には納税の義務はあるが権利はない。保険もかけられない。帰国運動が起こったとき、失対の生活より社会主義国で貧しくても平等に暮らせるということで、帰国したのだった。
「高度成長」期になってから、パチンコ屋、土建屋、販売業はもとより、廃品回収業など日本人がしない仕事をやるようになった。今でも朝鮮人への就職差別は厳然としてある。日本人も就職難に苦しんでいるなかで、朝鮮人は論外だ。パートの店員の応募でも免許証を見せて、朝鮮人とわかるとその場で「あとで連絡する」といわれて、体よく断られる状況だ。
とくに「北」の国籍ということでの差別が、たとえば役所などでの認可をとるときにも作用している。日本にいる朝鮮人はほとんど南の出身者だが、朝鮮籍を持っている。それは、アメリカの植民地と化した「韓国」よりも独立した朝鮮、そのような統一された朝鮮を望んでいるあらわれだ。
それはまた、日本の植民地支配のために苦労したが、そのなかで、親たちがどんな思いで育ててくれたか。その親の恩を身にしみて感じているからだ。主権のない国民がどれだけみじめなものか、どのような困難のなかでも少少ひもじい思いをしても、自力で国を支え統一する、死か屈服かを迫られたときは、死を選んだ方がよいという思いは、在日朝鮮人1世に共通した思いだ。