いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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米国下請け軍隊が叫ぶ「国民の敵」 忘れ得ぬ軍部暴走の果ての国難

第2次大戦の悲劇に反省のない軍国主義の亡霊

 

 現職の幹部自衛官が野党議員に、「おまえは国民の敵だ」などと数回にわたって罵声を浴びせた事件は、日本の進路にかかわる重大な問題として論議を呼び起こしている。かつて天皇制ファシズムのもとで、議会や政党政治を否定した軍の横暴な振る舞いを許した結果、320万人もの国民の尊い生命が奪われ、国土は廃虚と化したからである。戦後、その深い反省と教訓のうえに、自衛隊については文民統制(シビリアン・コントロール)が揺るがせにできぬ鉄則とされてきた。今、あらためてその意義を社会的に厳格に確認することが求められている。

 

 防衛省の統合幕僚監部に所属する自衛官が16日夜、国会近くで遭遇した民進党の小西議員に対し、公道上で罵声を浴びせた。数人の警官が到着したあともくり返し続けていた。この自衛官は、同監部指揮通信システム部の三等空佐(30代)であった。旧軍隊でいうなら、参謀本部(軍令部)の佐官にあたる。

 

 事件発覚後、小野寺防衛大臣は謝罪と、「判明した事実に基づき厳正に対処したい」とのべる一方で、「国民の一人として当然思うことはあると思う」などと、同自衛官を擁護するかのような態度を示した。

 

 自衛隊は、「自衛官は政治目的のために政治的行為をしてはならない」(自衛隊法61条)と、現職隊員が政治に関与することをいっさい厳禁している。防衛省の豊田・防衛事務次官や制服組トップの河野統合幕僚長はこのたびの事件でも、そのことにはふれず「品位を重んじるよう定めた自衛隊法58条に抵触する恐れがある」「暴言と受けとられるような発言は不適切」という問題にとどめている。こうしたこともあいまって、多くの者が戦前の青年将校による5・15事件や2・26事件を思い起こし、「自衛隊に対する文民統制はどうなっているのか」と厳しい視線で注目している。

 

軍部台頭させ統制強化 かつて5・15事件以後に動いたこと

 

2・26事件 虎ノ門付近で検問する反乱軍兵士(1936年)

 1932(昭和7)年に発生した5・15事件は、海軍の青年将校が中心になって、政党や財閥の腐敗を口実に首相官邸、日本銀行、政党本部などを襲撃し、犬養毅首相を射殺した事件であった。これを機に、陸軍の横暴な振る舞いが強まり、その4年後に2・26事件が引き起こされた。

 

 1936年2月26日の早朝、皇道派(隊付き将校が中心)の青年将校が1500人の反乱部隊を率いて、「君側の奸」(天皇の側に立っていると見せかけた逆賊)を討つとして、首相官邸や新聞社、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠し、高橋是清・大蔵大臣をはじめ、内大臣、教育総監ら9人を殺害した。天皇の支持を信じていた首謀者たちは「逆賊」とされ、ほとんどが処刑された。

 

 この2つの事件は、昭和恐慌がもたらした国民の生活の困窮と政党政治の腐敗・崩壊、外交の孤立化など、天皇制政府の統治能力の失墜があらわになるなかで起こった。1929年10月24日にニューヨーク証券取引所での株価大暴落を端緒とした世界金融恐慌のもとで、中小企業の倒産や賃金の不払い、農作物の価格下落による農村での娘の身売りが常態化していた。そうしたなかで、東京へのオリンピック誘致やヒトラーへの賛美があおられ、民衆の憤激は高まる一方であった。

 

5・15事件を伝える大阪朝日新聞(1932年)

 天皇制権力は頻発する労働者のストライキ、小作争議を、憲兵や警察の銃とサーベルで弾圧し、出版物の検閲や伏せ字を強いるなど思想・言論の自由への抑圧を強めた。そうして、軍部の謀略による満州事変(1931年)を引き起こし、一銭五厘の赤紙で一家の働き手を中国への侵略戦争にかり出していった。

 

 青年将校たちは国民の間で「社会主義」を掲げる勢力を含めた政党への不満、見限りが高まるなかで、国民的感情を吸収する形で生活の窮状、政党と財閥系大企業との癒着などの政治腐敗を非難する装いをとった。その実質は、欧米諸国との海軍比率を定めたロンドン海軍軍縮条約(1930年)を結んだ浜口雄幸・民政党内閣を「統帥権の干犯」と攻撃し、天皇を頂点に頂く「ナチスのような軍による統制経済」(ファシズム)を夢想していた。天皇や宮中グループはこれらの事件をテコにして、「粛軍」を掲げる参謀本部の将校(統制派)を称揚し、青年将校たちが唱えた方向を推進した。

 

 戦前の軍隊は明治憲法で、天皇の統帥権(軍隊指揮権)を規定していた。絶対的指揮権を持つ天皇を「大元帥」として、それを補弼(ひつ)する武官が直接指揮・監督する権限をゆだねられていた。陸・海軍大臣は現役武官に限られ、軍は議会からも内閣からも統制を受けることはなかった。

 

 大正初期には、藩閥政治に対抗する政党政治の確立や大臣に文官を登用するよう求める世論が高まり、陸・海軍大臣の認容資格が緩和されたこともあった。しかし、2・26事件を期して、「陸海軍大臣現役武官制」を復活させ、議会内閣制を破壊し独断で突っ走る体制が築かれていった。

 

 2・26事件の翌年、天皇と直結した近衛文麿内閣が「戦争不拡大の方針」のもとに登場した。しかし、軍部が引き起こした盧溝橋事件を機に、「暴支膺懲」を掲げた日中全面戦争へと拡大し、日独伊防共協定を締結した。近衛は、当時の蒋介石・国民党政府の「反日・侮日が甚だしい」として、「国民党政府を相手にしない」と対話による交渉を拒絶し、武力侵攻へと突き進んでいった。国内では大本営を設置するとともに、国民精神総動員運動を始め、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」などのスローガンの下に、節約や貯蓄の奨励、勤労奉仕、ぜいたく廃止などを強要した。こうして、1940(昭和15)年には「紀元2600年」を盛大に祝い「日本は神の国」とふりまくなかで、全政党が解散し大政翼賛会に結集する体制を築き、産業報国会、部落会、町内会、隣組を組み込んでいった。

 

国民犠牲に国体を護持 米国は占領統治に天皇を利用

 

 中国への全面侵略が拡大するなかで、中国市場を奪いあう日本と米英諸国との対立が先鋭化した。米英は中国での市場・権益を確保するために中国の抗日戦争で、蒋介石を支援し、石油や鉄鋼の禁輸など日本への経済制裁を強めた。1940年、近衛政府が日独伊三国同盟を結び、北部仏印に侵攻しアメリカの蒋介石への物資の支援ルートを断つ方向をとった。

 

陸軍記念ポスター(1943年)

 アメリカとの戦争を決定的にするこの方針は、国民の怒りを恐れて中国との戦争で敗北の泥沼に陥ったことを覆い隠してきた天皇制政府の窮余の一策であった。そして翌年10月、天皇とその側近たちは陸軍大将・東条英機を首班にした内閣を立てて、12月8日の真珠湾攻撃で「負けるとわかっていた戦争」に突入していった。

 

 41年当時、日中戦争に動員された100万の日本軍の主力は抗日戦争のまえに釘付けにされる状況であった。年末時点で、戦死者はすでに18万5000人を数え、勝利の見こみは断ち切られていた。天皇をはじめ日本の戦争指導者には、アメリカとの戦争で勝算の見こみはなく、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ちうるや否もおぼつかなし」(永野修身大将)と吐露するほどであった。

 

 事実、開戦翌年6月のミッドウェー海戦での大敗北を喫して以来、日本軍は敗退につぐ敗退を重ね、アメリカに制海権、制空権を奪われ、南の島にとり残された兵隊は飢えとマラリアでつぎつぎに死に、丸腰で輸送船に乗せられた兵隊がまとめて殺される状況が放置されつづけた。

 

 一方のアメリカは、1945(昭和20)年には日本の敗戦がすでに決定的であったにもかかわらず、東京、大阪をはじめ日本の都市という都市の民家を狙った空襲、沖縄戦から広島・長崎への原子爆弾投下にいたる大量殺りくを強行した。こうしたなかで、天皇とその側近たち、指揮下の軍人政府の中枢は「本土決戦」「一億玉砕」を叫ぶその裏で、アメリカと秘密裏に連絡をとってみずからに戦争責任がおよぶことを避け、支配的地位が保証される形で降伏する条件を探ることに腐心するだけであった。そして、それと引き替えにアメリカの民族絶滅作戦を容認し、幾十万の非戦闘員を殺されるままにまかせた。

 

 満州事変以来、日本人の男子総数の4分の1、のべ1000万人が兵隊にとられ、そのうち約200万人が戦死した。さらに、原爆や空襲で、県民の4分の1が殺された沖縄戦や旧満州などで非戦闘の老幼男女100万人が無残に殺された。1500万人が家財を焼かれ、失った。国民はほぼ5世帯に1人の割合で親・兄弟、肉親を奪われ、さらに親せきや知人、友人で戦争の犠牲者を持たないものはいない状況となった。

 

20万人以上の県民が殺された沖縄戦

 

原爆投下後の長崎。肉親を探す人人(1945年)

 

 近衛政府が「平和のため」「邦人の生命財産を守るため」といって開始した中国への侵攻作戦で、中国東北部の「満州」では46万人をこえる日本軍兵士が犠牲となった。そして敗戦がはっきりするや、関東軍の上層部はいち早く逃げ出し、およそ60万人ともいわれる日本軍兵士たちはソ連によってシベリアに抑留された。さらに、取り残された24万人の民間人、6万人の兵士は極寒のなか凄惨極まる避難を強いられ、子ども、女性、年寄りなど、体力のない者から犠牲を強いられていった。

 

 過酷な戦争のなかで生活に押しひしがれた人民の憤激はいたるところで強まる一方であった。近衛文麿が天皇に「最も憂ふるべきは敗戦よりも、敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命に御座候」と、アメリカに降伏するよう上奏したように、権力機関はつねに国民の怒りと行動、革命的な決起を恐れていた。

 

 天皇を中心とする支配階級は原爆や空襲を「天佑」(天の助け)として歓迎した。アメリカの皆殺し作戦とそれにこたえる日本軍の無謀な作戦は、国民が天皇制軍国主義の責任を追及し、みずからが主人公となった新社会を築くために立ち上がれないほど疲れはてさせた。この点では、日本占領を容易に進めようとしていたアメリカとの利害が一致していたのである。こうしたことが、今日の政治・軍事・外交、経済・産業、文化・教育にいたる無能力統治、戦後70年にもおよぶ対米隷属社会の源流を形成している。

 

対米従属に眼をつむり何が「国民の敵」か

 

 戦前の絶対主義天皇制のもとでも、天皇は1882(明治15)年1月の「軍人勅諭」で、「軍人は世論に惑わず、政治にかかわらず、ただただ一途に己が本分の忠誠を守り」と、軍人の政治関与を禁止していた。また、陸海軍刑法(軍法)においても、軍人の政治関与を禁止し、軍人には選挙権・被選挙権も与えていなかった。そして、現役将校が演説または文書をもって、その意見を発表したときには、「3年以下の禁固に処す」との明文もあった。

 

 それは、明治維新によって欧米の憲政(立憲君主制)を導入した専門家が、軍人が政治に関与すれば政争の結果、武力行使に出るのは自然の流れで、そうなれば立憲政治が窒息し、国家動乱を招くという、先進諸国の教訓を取り入れたものであった。国民の生命と財産を守るための軍隊は、主権者である国民全体を代表するものであり、軍が独自の政治的見解をもって行動することを厳禁し、国民によって選ばれた議会や政治家によって統率されなければならないというのが、近代国家に共通する憲政の常道であった。

 

 しかし、そのようなたてまえ上の「文民統制」は機能せず、その規定にもとづいて日本の軍人の言動が裁かれたり、罰せられたりしたことはなかった。それは、戦前の日本の陸軍・海軍が叫んだ「邦人の生命と財産を守る」という大義名分とは裏腹に、国民を犠牲にして肥え太る天皇を頂点とする財閥や大地主の利益のための軍隊であったからである。いざ「国体」(天皇制による国家支配)が危機におちいれば、国民の生命や家財などいとも簡単に葬り去る。このことは、日本の民衆が国民的規模で体験し肌身でつかんだ確かな真理である。

 

 自衛隊は戦後、アメリカの占領期に朝鮮戦争に乗り出したアメリカの必要から、米軍の指揮のもとで警察予備隊の名で創設された。当時の「民族独立」「再軍備反対」の国民世論の高まりのもとで、最初から文民である首相や防衛庁(当時)が、自衛隊を指揮監督すること(文民統制)が自衛隊法によって規定されてきた。そこから今日まで、防衛大臣を政策の専門家である文官(背広組)が支え、軍事を専門とする自衛官(制服組)を統制する仕組みが機能してきたと、説明されてきた。

 

 しかし、過去にも文民統制を犯すかのような振る舞いは問題になってきた。1963年には、防衛庁の統合幕僚会議事務局が「朝鮮半島有事が日本に波及する事態」を想定し、自衛隊の防衛出動や戦時立法などを「統合防衛図上研究」として研究していた「三矢研究」が暴露された。1978年には、統合幕僚会議議長であった栗栖弘臣が週刊誌のインタビューで「(日本が奇襲攻撃を受けた場合、自衛隊の)現地部隊はやむにやまれず、超法規的行動をとることになる。法律がないから何もできないなどと言っちゃいられない」と発言し、議長を解任、勧奨退職に追い込まれた。しかし、懲戒処分を免れている。

 

 1992年、陸上自衛隊高射学校の戦史教官(陸自三佐)が週刊誌に、「(政治腐敗を)断ち切るにはどのような手段があるか。革命かクーデターしかない」と明記した論文を寄稿したことが、「品位を保つ義務に違反した」として、懲戒免職処分となった。そして、田母神俊雄・航空幕僚長更迭の一件(2008年)、南スーダンPKOやイラク日報隠ぺい事件(2017年)にいたっている。その都度、文民統制(シビリアン・コントロール)の欠落が糾弾されてきたがどこ吹く風で、ついには中枢の30代幹部自衛官が「国民の敵」と立法府の構成員に向かって恫喝するまでになった。「軍事について素人が口を挟むな」という武官の圧力に、文官や野党がおたおたする状況は、戦前そっくりである。

 

 軍事専門家はもとより、多くの者が知っているように、朝鮮戦争から南スーダンに至るまで、実質的な軍隊である自衛隊に対する指揮権を持っているのは米軍である。事実、在日米軍司令部中枢と日本の外務、法務などあらゆる省庁の高級官僚で構成される日米合同委員会が、日常的な協議で「日米安保」についての密約を積み重ねてきていることは既に暴露されている。

 

 そのうえで、日米安全保障協議委員会の「防衛協力小委員会」が日米共同作戦の統一指揮権をもった実質的な「日米統一司令部」となっている。政府・防衛省はそれを追認する機関でしかない。それは、今や「集団的自衛権」の名のもとに、地球の裏側までアメリカの海兵隊の肩代わりとして、日本の若者を送り出すまでになっている。

 

 首都圏をはじめ日本の制空権を他国の軍隊である米軍に握られ、米兵の犯罪や米軍ヘリコプターの墜落・部品落下などの横暴な振舞に抗議できない政府に「国民の生命と安全」「邦人保護のため」といわれても説得力などない。そして「国民の敵」と叫ぶ自衛隊は、日本を単独占領し従属国として従えている米国の下請けと化し、「昔天皇、今アメリカ」で統率されていることについて、曖昧にするわけにはいかない。日本社会を食い物にして、独立国としての主権を犯しているものには眼をつむり、小西某あたりを「国民の敵」などと認識していることそのものが笑止千万といわなければならない。これは「2・26」や「5・15」への逆戻りなどではなく、米軍直属軍隊の思い上がりと暴走であり、軍人が大きな声を出して文民を恫喝するのに対して、日本の独立と平和を目指す国民的な運動を強めて、跳ね返すことが求められている。

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