東日本大震災から6年が経過した被災地は今どうなっているのか。本紙記者は原発事故に見舞われた福島県に続いて、岩手県、宮城県の沿岸部にも足を運んだ。
水産業を基幹産業にしたこれらの地域は、漁業者だけでなく加工、製函、製氷、運送、販売などみなが連関しあって地域経済を形作ってきた。漁業の復興なくして地域の復興は語れない地域がほとんどだ。漁村地域では、漁船や漁具、養殖の生け簀など、ハード面ではほぼ100%整備が完了し、漁師たちがみずからの手足を使って生産に励むことができるよう体制は整いつつある。このなかで、今回の取材は被災地のなかでも協同組合の力に依拠して立ち上がったことで注目された岩手県宮古市の重茂(おもえ)から歩を進めた。
重 茂
まだ辺りも薄暗い朝6時前、重茂地区にある各浜では、養殖ワカメのボイル加工が始まっていた。3月半ばとはいえ朝晩の冷え込みは厳しく、気温は氷点下になることもある。漁師が次次とボートに乗って港へ帰って来て、刈りとったワカメをクレーンで吊り上げ、トラックの荷台へと移していく。岸壁にズラリと並んだボイル用の釜からは、真っ白い湯気が立ち上っている。
重茂の漁師たちが漁に出るのは夜中の12時や1時だ。それから沖に設置してあるロープで養殖したワカメを暗いうちに刈りとって来る。船外機付きボートでワカメを刈る作業は1~2人でおこなうが、浜でのボイル加工は人出が必要となるため、一家総出で朝から働く。海からも陸からも次次に人が集まってきて、浜は活気に溢れている。
とってきたワカメは、90度以上の熱湯を湧かした釜でまずボイルする。約40秒熱湯で加熱すると、釜の中から大きなざるのような籠をクレーンで引き上げ、ホースで水をかけて冷やす。そこから隣の冷水プールにボイルしたワカメを移して木の棒を使ってかき混ぜながら熱を冷まし、十分冷えたところで水の中からワカメを手で引き上げて袋に詰めていく。この一連の作業を数人で釜を囲みながら、黙黙と流れ作業で続けていく。
ボイルが終われば、袋詰めしたボイルワカメをまたトラックに積み込み、日持ちのする「塩ワカメ」にするため、別の加工場で塩蔵加工する。その後も家に帰って前日に加工したワカメをサイズごとに選別したり、枯れた部分を切り落としたり、茎と葉に分ける「芯とり」作業をして、箱詰めまでして出荷できる状態にしておく。
重茂でとれる養殖ワカメのほとんどは漁師が箱詰めまで手がけている。その全量を漁協が買いとって、取引相手に販売している。漁師たちは夜中の漁から働き詰めで、すべての作業が終わるのが夕方の5時頃だ。そして翌日の深夜にはまたワカメの刈りとりに出る。養殖ワカメ漁は、だいたい2月末頃から長くて4月の半ば頃までおこなう。この期間約50日間は、漁師の睡眠時間は3、4時間ほどしかなく、体力勝負だ。また重茂の養殖は湾内ではなく外洋でおこなっているため、時化がひどいことでも有名だ。ときには3㍍もの波の上で小舟に乗ってワカメを刈りとる。船酔いを克服し、なおかつ波の上でまともに作業できるスキルを身につけるには6年はかかるといわれるほど過酷な環境だ。
本州最東端に位置する重茂のワカメの特徴は、太平洋の荒波に揉まれて肉厚だが食感は柔らかく、日本でとれるワカメのなかでもトップブランドとして認知されている。市販で出回る中国や韓国からの輸入ワカメと比べても10倍の値段で取引されている。
浜でボイル加工をしていた漁師は「養殖ワカメの時期は寝る間もなく体力的にもきついが、働いた分だけもうかる。重茂は陸の孤島みたいなものだから、朝方ワカメをとって帰って来るだけでは、1日の残りの時間はやることがなくなってしまう。“それならもっと働いて2倍3倍のもうけを出そう”ということで、昔から漁師が出荷直前まで手をかけて加工をおこない、箱詰めまでやる。手足が動く者ならみなが働きに出る。家内工業体制がしっかりしていないとできないことだが、頑張ればもうかるし、もうかれば後継者もできて働き手が増え、良い循環ができている」と話していた。
重茂漁協の伊藤隆一組合長に聞くと「重茂には海と山しかない。他に働き場所があるわけでもなく、海へ出なければメシは食えない」と話していた。重茂ではほとんどの漁師が1年を通して何らかの漁をしている。沖へ出て魚を釣る漁船漁業以外の、養殖業や磯見をおこないながら生計を立てている。3~4月は養殖ワカメ、4~5月は天然ワカメ、7~8月はウニとりと養殖昆布、9~10月は天然昆布、11~12月はアワビとりというようにサイクルができあがっているようだ。多い人では年収2000万円、1500万円などざらで、平均しても800万円は稼ぐのだという。
漁業再開が復興を牽引
六年前の3月11日、重茂地区も甚大な津波被害を受けた。太平洋に面したリアス式の海岸に面するこの地域では、押し寄せた津波が切り立った斜面を駆け上がり部落を襲った。なかには海抜40㍍にまで達した地域もあり、4百数十軒あった住居のうち90軒以上が流され、800隻あった漁船も14隻を残して流出した。養殖や加工設備もすべて流された。
多くの組合員が船を失い、なかには住む家を失った住民や漁師もいたなかで、「とにかく動きだそう」「漁師が働く環境を作ろう」と、津波にあった港のがれき撤去などをおこないながら、動き出したのが漁協だった。県外から若手漁師たちが中古船を調達して修理して使えるようにし、それ以外にもいち早く発注・購入した漁船も含めてこれらはすべて漁協が所有し、組合員みなで共同利用することを決めた。水揚げによって得た収益は組合員みなで共同分配することをとり決め、漁業再開を目指した。被災地の多くに絶望的な空気が覆っていたなかで、がれきのなかから立ち上がっていく様は勇気を与えるものにもなった。
そして震災の年の5月20日からの天然ワカメ漁を皮切りに、6月には定置網、翌年3月からの養殖ワカメを収穫できるよう七月までに種付け施設を半分ずつ2年計画で整備していくことを決め、着着と前浜での漁再開に向けて動き出した。
組合長は「漁師のなかには住む場所を失い、漁もできないなかで、重茂を出て行く者もいた。当時は他の地域に出れば土建業をはじめ力仕事ならいくらでもあったし、生活もかかった若い世代や家庭持ちは働かなければならなかった。こればかりは仕方が無い。だが、被災したからといって漁業をあきらめるということは、この村をあきらめることになる。時間が経てば経つほど一度離れた住民は戻って来にくくなる。そうならないためにもいち早く漁師が働ける環境を作る必要があった。震災の年の5月には漁に出られる体制ができたことで、自分たちで働いて無事にワカメが収穫できることを確認でき“もう一度漁師で食っていこう”という確信にもなった」と振り返った。
国からの補助事業などもあったが、事前着工してしまった場合は補助が適用されないことなども耳に入った。しかし、「補助なんかは後からついてくるもの」と漁協の預金から思い切った投資もしながら現場の復旧を最優先し、漁師たちもできる作業は手伝いながら一丸となって生業の再建を目指した。
いち早く漁師が漁業を再開できる態勢を立て直したことは、組合員や後継者の流出を防ぐことにもなった。重茂のなかでもっとも大きい音部漁港では、19世帯が津波によって流された。だが、このうち17世帯は被災後も新たに高台に住居を建て、重茂での漁業を基盤にして生活を再建していく道を選んだ。
組合長は「人里離れた隔離されたような地域だからこそ、お互いに助け合って生きる意識は強い。震災後も重茂で生きていくためには、自分たちの力で共同でやるしかないとみなが奮起した。これは親の代から受け継がれ、この地域に根付く血筋でもある」と話していた。
共同精神と結束の伝統
重茂漁協の前には、初代組合長西舘善平の碑がある。『「天恵戒驕」(てんけいかいきょう)天の恵みに感謝し驕ることを戒め不慮に備えよ』ー私たちのふるさと重茂は天然資源からの恵みが豊富であり、今は何ら不自由はないが、天然資源は有限であり、無計画に採取していると近い将来枯渇することは間違いない。天然資源の採取を控えめに、不足とするところは自らの研鑽により、新たな資源を産み補う。これが自然との共存共栄を可能とする最良の手段である(初代組合長 西舘善平 記す)、とある。
重茂では、この「漁協の精神」が代代受け継がれてきた。地域では、前浜の海の環境を守るために「合成洗剤追放運動」の看板や表示があり、合成洗剤は一切使用しないよう呼びかけて環境保持に努めてきた。
重茂半島の東端にある重茂漁協は、宮古市内から半島へ渡り、さらに山を越えた場所にある。昭和50年代までは道路も舗装されず、細く曲がりくねった道路が続く場所にあることから、いくら品質の良い海産物がとれるとはいえ、地理的には不利で流通面でのハンデがあり、5日しか鮮度がもたない生ワカメなどはだれも見向きもしない状況だった。そこで、当時加工業者しかおこなっていなかった塩ワカメの生産を「見よう見まね」で漁協主導で始めた。生のまま出荷すると日持ちしないため、輸送に時間がかかる重茂にとっては対策が必要だった。この当時の一般的な塩ワカメは塩の中にワカメが入っているような加工品だったが、重茂はワカメに塩をまぶしたような状態で販売を始めた。
「陸の孤島」ともいわれるような地域的なハンデがあるからこそ、漁協を中心とした組合員の結束力や共同精神は強い。そして、「6次産業化」をすでに60年前から独自におこない、時代の流れに先駆けて地域の生業を確立させてきた。生産、加工、販売までを協同組合が当たり前にやっているのである。しかも、そのことによって外部からのピンハネがなく、塩蔵ボイルして日持ちするワカメは市況を見ながら出荷調整をすることもできる。地域に雇用を生み出すこともできる-という循環ができあがっている。
早朝の漁港でワカメのボイル加工の写真を撮らせてもらっているとき、作業者のなかに数人の漁協職員も混ざっていることに気付いた。聞いてみると、重茂漁協では職員も早朝から浜で漁師の仕事を一緒に手伝い、それから出勤しているのだという。これも古くからこの漁協でおこなわれてきた慣行なのだと。「漁協の職員が漁師と同じ目線で物が見えるようにならないといけない。そのためには一緒に働いて雑談もしながら、漁師の感覚を肌で感じて考えていることをくみとり、これを日頃の業務に生かしながら信頼関係を築いていかないといけない」と組合長は話していた。
漁師同士の結束力も強く、技術公開もオープンだ。ワカメの養殖は沖に沈めたロープで育てており、漁師それぞれが自分のロープのワカメの発育を管理して収穫をおこなう。普段からの手入れや管理の方法によって品質の良し悪しが決まるが、重茂の漁師たちはこの管理方法を教え合って品質向上に努めている。「この地域では誰も隠すことはしない。独りよがりでいくら個人が良い物を作ったところで、一定の量が揃わない限りは仕入れる者にとって僻地と取引するメリットなどない」と語られていた。漁業者全体で品質を高める努力を続けてきたなかで、今では岩手県内38漁協の取れ高のうちの2割以上を占める「重茂ブランド」を確立しているようだ。
「復活」向け研究と努力
重茂漁協では、震災直後に漁船を組合員で共同利用し、収益も平等に分配して漁業を再開させた。この6年間、漁協を中心に新しいとりくみも仕掛けながら復興へと歩みを進めてきた。
最近奏功したのが養殖ワカメの「春いちばん」という品種だ。通常養殖ワカメを3、4月頃に150㌢まで成長した段階で収穫するが、そのためには1、2月に成長段階の新芽のワカメを摘みとる「間引き」をおこなう。これまで商品にはならなかったような新芽を、収穫方法や扱い方を改善して期間限定でとり扱うことで、普通ならキログラムあたり40円にしかならなかったものが、今では800円で漁協が買いとって都市部で販売し、あちこちから注文が殺到している状態だという。
ワカメは紫外線に弱く、日に当たるときれいな緑色が出ない。新芽の間引きはこれまで時間など決めずに昼間におこなったりもしていたが、「春いちばん」は夜中の1時に沖で刈りとり、まだ真っ暗な朝3時には浜へ戻り、7時までに加工や箱詰めまでして、9時にはトラック便で都市部の消費者のもとへと輸送する。
漁協の職員は「成長して150㌢にもなるワカメを収穫して、ボイル加工、塩蔵、箱詰めまでするとなれば大変な労力が必要となる。だが、新芽を生で売るなら長さも60㌢で高齢漁師でも刈りとりしやすい。ボイル加工の必要もなく、油代も安くつく。キログラムあたり800円で買いとれば漁師ももうけになるし、販売する漁協の側も利益が出る」と話す。
養殖ワカメ漁は本来、漁師が収穫して自家加工する。生ワカメのまま出荷して漁協の施設でボイル・塩蔵加工をおこなうよりも、みずから手をかけて付加価値をつける漁であり、漁師やその家族は夜中から夕方まで働く。だが、同じ地域でもなかには体力的・人員的な条件が整わないために自家加工体制がとれず、安い生ワカメのまま漁協に出荷する漁業者もいる。「春いちばん」を始めたきっかけは、こうした漁師への収入対策でもあったという。
重茂漁協では、毎年3月11日に合わせて、「復興商品」として新商品の開発もおこなってきた。これまでにも重茂の特産品である肉厚な天然アワビが丸ごと入ったカレーや、乾燥きざみめかぶ、茎ワカメなどを売り出してきた。
6年前の地震・津波で同じように被災した加工業者も多い。浜の水揚げを回復させていくなかで、稼働率や売上が落ちている加工会社に重茂の水産物を原料として提携して加工品を作り、震災を風化させないために「復興商品」として世間に送り出してきた。地元の海産物を使ってもらい、被災者も自分の手足を使って働くことで稼いで生計を立て、復興を目指す。
「重茂だけが漁をしてもうかっていい思いをするわけにはいかない。それでは復興にならない。被災した者同士が協力し合って働かないといけない」と漁協職員は話していた。
アワビのカレーにしても、1個2000円する重茂産天然アワビが缶詰のレトルトカレーに丸ごと入っている。これが漁協のインターネット販売では3000円で売られており、材料費や手間賃も加味すればもうけは100円ほどしかないという。「重茂の海産物を食べてもらって復興をなしとげたい。復興商品に関しては、もうけのために作って売っているのではない。自分たちがとり、作った商品をできるだけ安くたくさんの人に食べてもらいたい。復興商品をとり扱ってもらっている販売店でも、できるだけ原価ぎりぎりで売ってくれるところへ提供している。こうすることで復興商品をきっかけに重茂の漁業や特産品へと目が向きやすくなるという相乗効果も生まれている」と話した。
現場では漁師や地域住民が重茂の漁業にかかわり、働くことを中心に復興を目指してきた。だが、漁協が運営する加工施設で働く住民は震災前に150人いたが、現在は60人ほど。依然として働き手が戻ってきていない。震災以降、津波で流された遺跡を探したりして資金を得る副収入的な「復興」事業が登場し、そうした数時間作業をしただけでも簡単にお金が手に入るような仕事へ人材が流れていることも要因の一つに挙げられている。
漁協のある職員は、「遺跡掘りで3時間働いて8000円などの話が舞い込んでくる。
だが、重茂の復興は自分たちが一生懸命とって働いて作ったものを消費者に食べてもらって、初めて成し遂げられるものだと思う。震災から6年が経つが、“被災者”のままではいけない。働かずして真面目に働くよりも多く金がもらえるという、まるで生活保護のような矛盾したものに頼っていてはいけない。元気に働ける人はまともに8時間働いて、自分の仕事で稼がないといけない。いつまでも国民の税金のお世話になるわけにはいかない」といった。(つづく)