(9月2日付掲載)
能登半島地震から8カ月が経過するなか、本紙は能登被災地に赴き、被災した人々の置かれている境遇や復旧状況について取材した。時間とともに能登被災地の報道は減り、国は「経済を回す段階」「元に戻す復旧よりも集約化」などといって生活再建を自助努力に丸投げし、ただでさえ乏しい公的支援を次々に打ち切っている。家屋被害は石川、新潟、富山、福井4県で13万棟余りにのぼり、石川県では約8万棟の被災家屋のうち公費解体の対象家屋(半壊以上)は約3万3000棟。それだけの人々が住まいを失っている。現行制度では仮設住宅に入れる条件も限られ、ふるい落とされた人々が故郷での生活再建を諦めれば、地域コミュニティは消滅の危機に立たされる。安全保障の強化を声高に叫ぶ一方で、極限状況の下にある地域とそこに生きる人々を国はどのように扱っているのか――。8カ月たった能登被災地で見てきたことを記者座談会で描いてみた。
震災8ヶ月の能登現地を取材して
A 本紙は3月にも能登現地の取材をしたが、それから5カ月たった今回の取材でも現地の状況は大きく変化していなかった。とくに深刻なのは珠洲市や輪島市など被害が最も大きかった奥能登地域で、当初の危機的状況は脱したとはいえ、道路もなんとか通れるようになった程度だ。金沢から輪島までの幹線道路「のと里山海道」も奥能登に近づくにつれて荒廃しており、崩れた場所に迂回路をつくったり、土嚢で固めて通路が確保されているが、「とりあえずの仮復旧の状態」(土木業者)だ。被災者を悩ませていたのは道路の穴や段差などで起きる車のパンクで、山道などで起きたら身動きがとれなくなる。「まだ道路とはいえない」と語られていた。
半島北端の沿岸部を繋ぐ「奥能登絶景街道」は、あちこちで土砂崩落が起きて道路を塞いでいるため、買い物や病院に行くためには何時間もかけて山道を迂回しなければならず、実質的に孤立している漁村集落も多々ある。生活できる基本的なインフラが整ったとは、とてもいえる状況ではない。
とくに被害が大きかった珠洲市や輪島市では、中心市街地でも無残に倒壊した家屋が被災直後のまま放置されていた。住宅地に一歩入ると道路の両側はガレキの山。電柱も軒並み根元から傾いており、道路の陥没箇所や段差も多いので、車も覚悟して運転しないといけない。8カ月の時が経っていることを忘れてしまう生々しい惨状がそのまま横たわっている。
現場で稼働している解体業者の数は限られており、石川県内での公費解体の進捗率はまだ1割程度だ。穴だらけの道路の修復やガレキの山となった住宅地の片付けが進まぬなか、ようやく仮設住宅が整備され、人々は各地の公民館や学校にあった避難所での間借り生活を終え、抽選で当たった順番に仮設住宅への入居を始めている。
そのため避難所は次々に閉鎖され、風呂などの提供をしていた自衛隊も8月末をもって撤退。食事や飲料水の提供などの公的支援も「すでに店が再開している」「経済活動を圧迫する」などの理由で打ち切られている。
B だが、いまだに上下水道が使えない地域もあり、トイレや風呂、炊事や洗濯がままならない住民たちも多数いる。とくに珠洲市では事業所やコンビニでも「トイレ使用不可」が多く、トイレや風呂、給水などの支援はまだまだ必要だ。水道は本管は仮復旧しているが、自宅内に繋がる配管や浄化槽の多くが破損しており、たとえ自宅に戻ることができてもトイレや風呂が使えない人が多くいる。市内の水道業者も被災しているため数が限られ、市外の指定業者に修理を依頼しても1年先のことだといわれていた。被災地での宅地内漏水については、れいわ新選組の山本太郎参議院議員が国に対して実態調査を求めたが、国も県もその数すら把握していない。「行政の手を離れた個々の問題」という対応で切り捨てている。
A 厳冬の1月から酷暑の8月まで、避難所となった公民館や学校の隅での段ボール生活のたいへんさは察するにあまりある。高齢者の認知症が進んだり、エコノミークラス症候群で血栓ができたり、呼吸困難になる人も出ており、避難生活で体調を崩して亡くなる人が急増している。現在までの死者は、震災関連死を含めて約350人。震災関連死の申請者がまだ300人おり、今後さらなる増加が予想される。
そのなかで被災者自身がボランティアとなって避難所のお世話を続けていた。当初700~800人が身を寄せていた珠洲市内の小学校では、停電と断水のなかで石油ストーブを持ち込んで暖をとり、体育館、教室、廊下まで避難者で埋まっていたが、8月末には30人程度になっていた。いまも畳一枚分の段ボールベッドでの寝泊まりだ。
行政からの支援は乏しく、炊事場もないため、調理師免許をもった住民を主体にしてガスコンロ、炊飯器、保冷庫などを持ち込み、仮設テントを張って屋外に炊事場を作って炊き出しをしてきたという。全国から食料などの支援物資が届いたことで提供が可能になったが、行政からの配食支援(弁当配布)は朝夕の2回から夕方の1回だけになり、それも配られるのではなく、それぞれが公共施設に受けとりに行かなければならないことにボランティアたちは憤っていた。
「国や行政は“経済を回すため”といって支援を減らしていくが、避難所では炊き出しをしなければ三食もまともに食べられない避難者たちがまだいる。とくに交通網が遮断されている珠洲市北側の大谷地区ではガス、水道、下水もなく、自衛隊も撤退した。食料を買うにもコンビニまで車で30分以上かかる。そのような避難所では調理師のボランティアが炊き出しをしてきたが、8カ月もすれば生きるために仕事をしなければいけない。過労も限界が来ている」と話していた。
実際に行ってみると、唯一のスーパーが完全に倒壊しており、仮設住宅や家屋解体もこれまで資材が運べなかったためとくに遅れていた。自宅前に座り込んでいた高齢男性は、まだ罹災証明書の申請中だといっていた。自宅の床が傾いているが家屋の被害度認定がドローンでおこなわれたため「一部損壊」と認定され、半壊以上が入居条件となる仮設住宅にも入れない。建築士に見てもらうと「このままの状態で暮らすのは危ない」といわれ、2回目の行政による家屋調査を待っている段階だという。僻地の集落では8カ月を経てもこんな調子だ。
「道路も途絶えて、輪島まで行くのに通常の3倍の時間がかかる。水道も出ないから、給水タンクに毎日くみに行っている。市は“12月末までには通水する”というが、工事ははかどっていない。延期、また延期でいつになるのかわからない。地域の住民は金沢方面へ集団避難しているが、今後果たしてどれだけの人が帰ってくるか。残っているのは年寄りばかりで、どの部落も人がおらんようになるんじゃないか」と話していた。
珠洲市大谷地区(約900人)は1300年前から続く「浜揚げ式製塩」が盛んで、沿岸にいくつもの塩田が並ぶ半農半漁の町だ。市街地はまだ人の目が届くが、このようにメディアも取材に行かないような沿岸部の漁村や山村の集落では、家屋だけでなく、インフラも手つかずのまま復旧されていない地域が無数にある。そんな奥能登の集落が軒並み存亡の危機に立たされているが、国の方針を背景に行政の側が住民の離散を促しているようにも見える。住民が戻ってくれば金をかけてインフラを復旧しなければいけないからだ。
C そもそも珠洲市(人口1万3000人)は本州で一番人口が少ない市だ。輪島市にしても人口は2万人程度で、ただでさえ自治体のマンパワーも予算も少ない。そこを住宅やインフラの大半が崩れるような震災が襲ったわけで、小さな自治体の力だけで立て直せるわけがない。「地元からの要請がない」などといっている場合ではなく、国が前のめりで予算を付け、バックアップ体制を強化しなければ衰退に拍車がかかることは目に見えている。補正予算を組まなかったことにもあらわれているが、はじめから「過疎地」「限界集落」扱いをして復旧させる気がない。「能登復興支援」「頑張れ石川」「北陸応援」などの恩着せがましいメディアのキャンペーンと現実に冷酷なギャップを感じずにはおれなかった。
住民置き去りで進まぬ復旧 動き始めた生産者
B 石川県では公費解体の進捗率は全体の1割程度(8月末現在)。3万軒のうち、わずか3000軒だ。熊本地震でも3万軒余りの公費解体が終わったのは2年後だった。この調子では能登はそれ以上の時間がかかるとみるほかない。緊急応急措置であれば緊急予算を組み、随意契約をしてできるだけ短期で終わらせるが、すでに解体も道路補修なども一般競争入札に切り替わっており、契約金額も少なくなり工期も延びる。そういう杓子定規の対応が今も続いている。
奥能登の公費解体現場では、金沢から来ている解体業者たちは「赤字だ」といっていた。解体で出るガレキを手作業で細かく分別して出さなければならず、そのために人手が必要なのにその人件費は度外視されている。さらに、指定されたガレキ置き場まで何時間もかけて往復しなければならないためダンプの数も必要になる。酷暑での過酷な作業だが、現地の宿舎はゼネコンの下請け業者が押さえており、金沢から通うにも片道二時間以上かかる。一度奮起して集まった業者も「従業員を食べさせなければならず、これではとても見合わない」といって撤退していったという。目も当てられない状況だ。
「珠洲で動いている解体業者は県内よりも県外の方が多い。ゼネコンが請け負った仕事は一次下請がピンハネして、孫請け、ひ孫請けに仕事が流れる。そして地元の人間を雇わず、県外から人件費の安い外国人労働者を連れてきている。金が入ればいいゼネコンからすれば、長引けば長引くほど利益が上がる仕組みなのだ」「奥能登では事業所が閉鎖し、仕事を求めている人がたくさんいる。私は珠洲出身だから地元の人間に声をかけて一緒に作業をしているが、自分の地元のことだからみな必死で働く。赤字でも自分たちが動かなければ、復興は進まない。なぜそんな思いを持っている地元被災者を積極的に雇用してチームを組織しないのか」と疑問を口にする業者もいた。
ゼネコンにとって災害は「特需」であり、復旧や復興事業は利権化するのが常だ。日建連や全建などを頭にしてそういう災害時の図式ができあがっている。そのうえ、それぞれの被災地の条件を無視した煩雑なルールでがんじがらめにして肝心の復旧が前に進まない。優先順位が違うのだ。国は「半島だから」「道路事情が悪いから」とあれこれ理由を付けるが要するに急いでやる気が無い。
なによりも地元の被災者を復興の主体に据えるという考え方がないのも大きな特徴だ。被災者を避難所や仮設住宅に押し込め、ただじっと指をくわえて見ている状態に留めてしまえば、再び立ち上がる気力も体力も奪ってしまう。仕事がなければ他所に流出もしていく。「自分たちの地域を自分たちの手で再建したい」という被災者自身の力や要求を抑えつけ、利権を優先する構図になっていることも復旧が遅れる要因として語られていた。これはどこの被災地でも共通する問題だ。
C そのように復旧すら遅々として進まない荒廃した町を見せつけながら、「いつまで支援に頼っているのか」「時間が来たから自立しろ」「仮設住宅に入ったのだから、今からは自助努力せよ」という調子で支援を打ち切り、放り出していく残酷な棄民政治だ。
B 奥能登では作業員の宿泊場所や食べる場所も足りないのだが、営業している民宿も半壊したり、雨漏りを補修しながら「なんとか復興の力に」と作業員を受け入れている。ある民宿では、瓦がずれて雨漏りするので、高齢の女将さんが夜も寝ないでバケツで水を受けては捨てていたという。行政に相談すると、業者がやってきて屋根に上り、その部分だけにブルーシートを小さく切って貼って帰ったが、すぐに風で飛んでしまって雨漏りが止まらない。また役所に相談すると「おたくは前回の工事で修理の補助金(5万円)を支出済みなので、行政ができることはありません」といわれて終わりだったという。
「トイレも水漏れし、床も傾いているが“一部損壊”なので支援はない。瓦も不足して値段が上がっていて屋根を全部やりかえたら600万円。トイレを直すのにも通常の2倍の値段だ。リフォーム代の返済もあり、やめるにやめられないのだが、せめてもう少しでも支援があればもっと人を泊めることができるのに…」と語っていた。
本館が半壊して使い物にならず、別館のみで営業している民宿では、国の支援制度「なりわい補助金」の申請を検討したが、「原状回復のためにかかる費用の4分の3を国や県が負担し、4分の1の負担で済むという制度というふれこみだったが、一度給付されたら10年以上その制度は使えないとか、営業をやめて建物を解体する場合は国や県の負担分を返還しなければならないなど条件が厳しくてやめた」という。補助金といってもさまざまな条件がついており実質は借金だ。先のことはわからなくてもとにかく復興のために頑張ろうとする事業者にとっては安易に手が付けられるものではない。なけなしの身銭をはたいて再建するしかないのが現状だ。
七尾の和倉温泉もしかり、能登半島では旅館や宿泊施設が軒並み被災して営業が再開できてない。「作業員の宿泊場所がないから工事が進まない」とか「観光業支援」というのなら、なぜ被災した旅館やホテルを支援して復興拠点として活用しないのかだ。
A 漁業の街・輪島市では、港が壊れて漁に出られない漁業者たちが結束し、ガレキの片付けや漁場の調査などをやり、国に陳情して国が日当を出す仕組みをつくっていた。港では早朝から漁師たちが総出でガレキの仕分け作業をやっていたが、「何カ月もやることもなく避難所や仮設住宅で寝ていたらストレスで死んでしまう」「漁に出られないのは苦しいが、漁師が結束して頑張らなければ漁業そのものが再建できない」「補助だけに頼っていたら二度と立ち上がれなくなる」「早く自分たちがとってきた魚を食べたいし、みんなにも食べてもらいたい」とみな意気軒昂だった。「輪島の漁師は負けずに頑張っていると伝えてくれ!」ともいわれた。
若い漁師たちは解体現場でアルバイト作業員として働き、港付近の工事現場でガードマンや旗振りの仕事をやっているのも漁師や海女さんたちだった。みんな家を失って、生業の漁業の再開も見通せない苦しい境遇にあるが、仕事をしているときは明るいし、「負けておれるか!」と自分にもまわりにも言い聞かせているようにも見えた。市内では家も道路もガタガタに崩れ、言葉を失うような凄惨な災害に見舞われながら、そこでくじけていくのではなく、苦しいときこそみんなのために一致団結して立ち上がる能登のコミュニティの底力を見た思いがした。
輪島朝市の商店主たちも同じように狭い仮設住宅や雨漏りする家で暮らしながら、「このままじっとしていたら死んでしまう」といって、無事だった在庫の商品を集めてスーパーの一角を借りて十数軒で仮営業を始めていた。家や財産を失って失意のなかにあるはずなのに、みんな明るいのが印象的だった。
ガレキの解体業者の話とも繋がるが、みんな地域の一日も早い再建を願っているから仕事も早い。損得勘定で自分だけどうにかなればよいという話ではなく、地域全体のために動けるものから動いていく。それが一歩、一歩立ち上がる流れを作っていく。当たり前といえば当たり前だが、やれ「公費解体や仮設に入れるのは半壊以上」とか「宅地内の修理は自費でやれ」「自費解体のガレキは受け付けない」などと被災者を線引きし、個別の問題として切り捨てていく国の制度や姿勢とは対照的に、絶対に故郷を建て直すという思いをもって支え合い、助け合いながら働く被災者たちの姿に胸を打たれた。極限状況の中で、冷淡に切り捨ててコミュニティを潰していく力と、それに抗いながら地を這うようにして再建のために立ち上がる人々とのせめぎ合いがある。
コミュニティ再建が鍵 故郷取戻すたたかい
A 時間とともに倒壊家屋の解体などは進んでいくだろうが、問題は人々の暮らしや生業の再建であり、壊された地域コミュニティをいかに守るかだ。「5年後、10年後に町がどうなっているか。それを考えると怖い」と語られていた。
「この部落には30軒あったが3軒になった」「10軒のうち残ったのは自分の家だけ」とか、7~8割が解体対象という壊滅的な地域もある。倒壊家屋が片付けられた後は集落の大部分が更地になり、人々が暮らしていた跡形すら消えてしまう。そして「居住人口が少ない」という理由でインフラ復旧は縮小・放置され、若い人が帰ってくる場が失われるという事態になりかねない。震災当初から国が「集約化する」とか「元に戻すのではなくコンパクトに」などといっているからみんな警戒している。
B 能登地方はもともと自給自足的なコミュニティで、お金がなくたって田畑で米や野菜を作るし、山に行けば山菜や果実類、海に行けば魚やエビ、サザエやアワビ、海藻など豊かな幸が手に入る。輪島朝市ももともとは物々交換の文化から始まったものだ。
とくに冬場は雪に閉ざされ、地元の人でさえ「地獄」というほどの日本海側からの寒風が嵐となって吹き付ける。昔から冬場は都会に出稼ぎに行き、春に帰ってきて畑を耕してきたといわれ、厳しい自然のなかで生活の知恵を磨き、お互いに支え合って生きてきた地域だ。祭も盛んで、世界遺産になった「キリコ祭り」や「曳山祭り」「あばれ祭り」「火祭り」など熱狂的なものが多く、「能登の人間の心のよりどころ」「祭があるから一年頑張れる」といわれていた。それだけに人と人との繋がりも密接だし、郷土愛も強い。
そのコミュニティが離散の危機にさらされている。地元に残って仮設住宅に入っているのは全被災者のうちごく一部で、数万人が故郷を離れ、県内外の別の町に自主避難している。今はさまざまな災害支援を受けるために住民票を置いたまま他所で暮らしている人たちも、解体などの一連の片付けが終われば、そのまま避難先に転籍してしまう可能性が高い。仮設住宅の居住期限も2年だが、そもそも狭すぎて家族持ちの現役世代ほど出て行くことになる。
すでに数千人規模で人口流出が進んでいることが騒がれているが、それこそ2年後、3年後にどれだけの人が元の地域に住んでいるのか――それを誰もが問題にしていた。
C 珠洲市ではかつて原発建設計画が持ち上がり、住民との攻防の末、凍結された歴史がある。かつての予定地では数㍍も地盤が隆起しており、建設されていたら破局的な事態になっていたことを考えると郷土を守った住民パワーは賞賛されてしかるべきだ。だがそのコミュニティが離散した場合、後に何が起こるかだ。
東北の福島では原発事故後、浜通りの原発立地自治体は丸ごと生活基盤を奪われ、今や広大な核廃棄物の処分場やさまざまな実験施設にされている。今後、能登半島が広大な荒れ地と化したとき、それこそ原発ではないにしても核廃棄物処分場や軍事基地、ミサイル基地を設置する可能性だって今の政治ならやりかねない。地方をそのような対象にしか見なしていないのだから。住民がいなくなり、安価な労働力として都市部に流出すればもっけの幸いなのだ。
帰還望む住民が圧倒的 地方切捨てに抗して
A 石川県や各市などがおこなった避難住民へのアンケート調査では、「被災前に住んでいた地元に戻りたい」という回答が8割以上だったことにも示されるように帰還を求める声は強い。珠洲市で壊滅的な被害を受けた地域でも「見ての通りほとんどの家が壊れているが、それでも戻りたいという人が圧倒的だ」といわれていた。国の「居住人口の減少に伴う集約化」という方針とは相反する住民意志だ。
住民からは「すでに国や行政が町を復興させる気があるのかも疑わしくなっている。復旧を遅らせ、じわじわと住民が帰還を諦めるのを待っているのではないか」「東北の震災被災地からきたボランティアの人が、“集団移住を早くから既成事実にして、地元に残る選択肢を残さなかったことは失敗だった”と語っていた。同じように国が能登の集約化を求めているなかで、県も市もなかなか方針が固まらず住民にまともな説明すらできない。だから生活や地域の再建が宙づり状態になっている」と語られていた。
「戻りたいのに戻ることができない住民に対して、みなし仮設や二次避難所の期限を迫り、“自宅を修理するか、それを諦めるのか”と結論を急がせる。まるで死ねといっているようなものだ」と静かに語る高齢者もいた。町も家も崩れ、コミュニティを維持するための大きな方針が固まっていないのに「どうしますか?」「期限が来ますよ?」と年寄りや住民を追い立てている。
能登の人たちはあまり表立って国や行政を批判したり、声高に文句をいうような人は少ないが、それだけに胸に積もり積もった思いがある。8カ月も実質放置されるなかで、自分のことはさて置いてでもみんなのためにボランティアをしてきた被災者たち、地域の復興のために汗を流してきた人たちのなかでは「いい加減にしろ!」という思いが渦巻いているのも事実だ。「能登はやさしや土までも」というが、その優しさは地域を潰すものに対する優しさではない。
B 石川県といえば自民党清和会(安倍派)で威張り散らしてきた元総理の森喜朗の地盤で、それぞれ地域のボスが力でねじ伏せていくという支配が効いてきた地域だ。地盤といっても森元首相は金沢より西側の根上町出身なのだが、「いくら歳をとってもうろくしてもあの人が退かない限り石川県の政治は変わらない」ともいわれていた。わが山口県も自民党の牙城であり、いろんなしがらみに縛られ、ものいえぬ保守地盤の空気はよくわかる。だが、どんな強面政治家だろうが、このような未曾有の災害による地域の危機においてまったく存在感がない。ポンコツにもほどがある。
その後ろ盾で国会議員に取り立てられ、知事になった元プロレスラーの馳に対しても非難囂々(ごうごう)だった。知事選では保守分裂となった経緯もあるが、能登の復興は、東京に対して卑屈でありながら地元民を上から抑えつけていく支配の構図を突き動かしていくことをともなうし、そのせめぎ合いは今後さらに鋭さを増すと思う。黙っていたら何も進まない。本来なら「保守」を名乗る面々が激怒しなければならない状況のはずだ。
能登を「過疎地」「限界集落」などといって切り捨てる政治に抗っていく能登の人たちの力は、全国で同じように生産を支え、コミュニティや文化を守っている人たちとも繋がっている。日本列島が地震活動期に入り、毎年のように大規模災害が発生するなかで、全国の地方にとっても「明日の自分たち」と重なる問題だ。
本紙としても能登の底力と繋がりながら、引き続き能登被災地の復興過程、そのなかでの人々の粘り強い努力を学び、全国に発信していきたい。