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知らされぬ能登被災地の現状 震災から8カ月の石川県珠洲市 進まぬ復旧、打ち切られる支援 棄民政治への怒り渦巻く

(8月26日付掲載)

珠洲市内では手つかずの倒壊家屋が連なり、まだ水が出ない地域もある。元旦の発災直後から時が止まったような光景が広がっている(8月23日)

 元日に発生した能登半島地震から8カ月――。能登被災地の現状がメディアでとりあげられることも減り、自民党総裁選に名乗りを上げた政治家が記者を引き連れて顔売りに来たり、復興が進み始めたかのようなニュアンスで報じられる一方、現地では今なお被災直後と変わらない深刻な現実が横たわっている。公費解体や交通網の整備、仮設住宅の建設などが遅れているにもかかわらず、震災直後には当然のように注がれた国や行政からの支援が次々に打ち切られ、行き場を失う被災者たち。失われた暮らしや生業をいつとり戻せるのか、まったく先が見通せない絶望感が覆うなかで、歯を食いしばって互いに協力しながら困難と対峙する日々を強いられている。本紙は石川県能登半島に赴き、被災地の今を取材した。

 

珠洲市宝立町鵜飼地区(8月24日)

 石川県の県都金沢市から車で北上すること約2時間半。左手に広々とした日本海を臨みながら一直線に続く高規格道路「のと里山海道」は、能登半島に入るとその表情をガラリと変える。道幅は狭まり、急峻な山間を縫うようにして蛇行するルートのため勾配が険しくなるうえ、地震で発生した崖崩れや亀裂、段差の応急箇所や迂回路があちこちにもうけられている。

 

 奥能登に近づくにつれ、屋根にブルーシートがかけられた家、大きく傾いた家が目立ち始め、道はひび割れ、両脇には土砂崩れを防ぐため積み上げられた土嚢(のう)が敷き詰められ、観光客で賑わう金沢界隈とは打って変わった震災被災地の現実が次第にあらわになってくる。

 

 能登半島の北端に位置する珠洲市(人口約1万3000人)は、元旦に発生した地震の震源地となり、震度6強の揺れと最大4・7㍍の津波が沿岸部を襲い、市内全域で6000棟以上の家屋倒壊、死者102人を出す壊滅的な被害を被った。

 

 市内に足を踏み入れると、まともといえる家が少ないことに驚く。1階部分が完全に潰れている家、菱形に変形して今にも崩れそうな家、2階部分がねじれるようにひねり潰されている家、粉砕されてガレキの山となっている家……密集した木造の家屋が軒並み潰れ、地面についた瓦屋根が連なって波打っている光景に出くわすことも。かろうじて道路は通れるが、そこを覆っていた倒壊家屋はガレキの山となって道の両脇にうずたかく積まれている。

 

 遠目には健全に見える家も、近づいて見ると、柱や壁は傾き、玄関も窓も垂直ではなく、とても住める状態ではないことがわかる。電柱も家々の屋根も右に左に傾いているため、街中を歩いていると平衡感覚が失われてくるほどだ。

 

 市内中心部から南北に広がる沿岸部の集落は「全滅」といっても過言ではないほど被害が広範囲に及んでおり、道の両脇には人が住んでいないおびただしい被災家屋、ガレキの山が延々と続いている。かといって重機やダンプが大量に投入されて解体作業やガレキ運搬にせわしなく動いているわけでもなく、人気(ひとけ)もなく、静寂に包まれている。とても震災から8カ月たったとは思えない。「被災直後とまるで変わっていない」「復興どころか復旧も進んでいない」と誰もが口にする現実が広がっている。

 

地震と津波に襲われた珠洲市鵜飼地区。マンホールが1㍍以上突き出している(8月24日)

地震で崩れたまま手つかずの珠洲市宝立町の町並み(8月24日)

「誰もいなくなるぞ」 国は復興に責任持て

 

 「このままじゃ誰もいなくなるぞ」。珠洲市内でも特に被害が甚大だった宝立町鵜飼地区で被災家屋のエアコンとり外し作業をしていた業者の男性は語気を強めた。

 

 「見ての通り残った家はわずかで、人が住めない街になってしまった。この地域は水道がまだ通水していないのでトイレも風呂も使えない。避難所で仮設風呂を提供していた自衛隊も4月以降順次撤退し、珠洲での活動も8月末で終わるようだ。私が暮らす地域では2月に水道管が復旧したが、それぞれの宅地内に繋がる配管が破裂していたり、浄化槽が使えないから上下水道が使えない家も多い。修理しようにも珠洲市内の業者は被災して廃業したり、従業員がいなくなって動けない。だから市外の業者に修理を依頼するのだが、着工は1年先のことだという。これでは人口は減る一方だ。復興どころか“復旧”ができていないんだ」

 

 「私自身も自宅が全壊して今は仮設住宅で暮らしている。隣近所の仲の良かった人たちはバラバラになって誰がどこにいるかもわからない。今はこの家の家主から、解体前にエアコンをとり外して今後新しい住居に引っ越したときのためにとっておきたいという依頼を受けて作業をしているが、金沢などの不動産ではトラブル回避のために被災地から持ち込んだエアコンの設置を受け付けていないことを知って驚いている。とり外しても保管場所がない」と話した。

 

 作業していた家屋は被害度認定で「一部損壊」の判定を受けたため、自治体が費用を負担する公費解体(半壊以上)の対象外だが、建て付けは歪んで室内の戸や襖は開け閉めできず、屋根瓦がずれてブルーシートで覆っても雨漏りは続くという。とても住むことはできないため家主一家は金沢でアパートを借りて暮らしているという。

 

 「たとえ住めなくても半壊以上の認定でなければ、仮設住宅への入居も後回しだ。小さな家を建てようにも、今は価格が通常の1・5倍に上がり、大手ハウスメーカーに発注した知人の話では、着工は来年7月以降になるそうだ。震災後、珠洲では医者も少なくなり、再開した歯医者は1軒だけ。何の補助もなかったため、金沢に行ってしまった医者もいる。何よりもまず道路状況を早く復旧して業者がスムーズに解体やガレキ撤去をおこなえる環境を整えるべきではないか。道路も穴だらけで私も車が2回もパンクした。なにもかもが震災後から動かない状態では人口流出は止まらない」と危機感を口にしていた。

 

 8月5日から仮設住宅で暮らしているという70代の男性は、「1月1日から7カ月間、小学校の避難所で段ボール生活をしてきた。長くてつらい毎日だった。でも仮設に入れた私はまだいい方で、今も県外や金沢方面のホテルやアパートを転々として生活している高齢者のことを思うと胸が痛む。これまでのんびりと米や野菜を作って生活してきた人たちが、右も左もわからない都会にポツンと行って、何もすることがないことほどつらいものはない。しかも2次避難先のホテルも国や県が“北陸応援割”といって観光客誘致を進めるため、8月いっぱいで被災者は立ち退かなければいけないという。帰りたいけど帰れない。それなのになぜ期限だけ決めるのか。まるで年寄りに死ねといっているようなものだ」と静かに怒りを口にした。

 

 「この地域は能登半島国定公園の一部で、県の天然記念物の見附島や海水浴場もあり、震災前は能登有数の観光地として賑わっていた。それが地震と津波を受けて2、3軒残して街が全滅した。8カ月経った今、“復旧よりも復興”“集約化でコンパクトに”といって行政が音頭をとって話し合いをしているが、復興どころか見ての通り住む人がいない。これでは復興のイメージすら浮かんでこない。まずみんなが戻ってこられるようにするのが先ではないか。珠洲市は本州で一番小さな市だ。高齢化率は50%だ。これほどの震災被害が独力で立て直せるわけもなく、これまで細々と生活してきた市民に“それぞれ自立して再建しろ”といってできるわけがない。国が強いリーダーシップをもって再建しなければ、この地域は二度と立ち上がれなくなってしまう。そのことをぜひ伝えて欲しい」と訴えた。

 

業者不足もルールは煩雑 公費解体進捗は1割

 

ところどころで解体業者のトラックが見られるが被災規模に対して圧倒的に足りていない(8月24日、珠洲市)

 壊滅した集落のところどころで解体業者がユンボやトラックを使って作業をしているものの、被災家屋の数に比べて圧倒的に少なく、集団で作業をするボランティアやNPOの姿なども見られない。「それでも以前よりは動き始めた方だ」といわれるが、かつての熊本地震や広島豪雨災害の被災地と比べても動きの鈍さは歴然としている。

 

 金沢市内から来ている解体業者に聞くと、珠洲市内では宿泊場所がないため金沢から毎日片道3時間かけて往復しているという。「珠洲で作業しているのは大手の下請けに入った県外業者が多く、県内業者は少ないのではないか。今一番困っているのは仕分けの煩雑さだ。これまでは可燃物と不燃物を分ければよかったものを、今週から解体業協会に県から指導が入り、可燃物でも木材やプラなどを細かく分類して出すことが義務づけられた。原型を保っている家ならまだしも、粉々になった家のガレキを手作業で分別していけば、1カ月で2軒できたものが1軒になる。復興のためとはいえ、これではとても割に合わず、従業員を使った仕事はできない。一度集まった業者も撤退してしまったのには理由がある。自分たちもこの家が終わったら引き上げるつもりだ」とのべた。

 

 震災ガレキの仕分けの厳格化は、県外から来たゼネコンの6次下請け業者が解体で出た鋼材やアルミなどを発注主の許可を得て転売していたことをメディアが袋叩きにしたことも関係していると思われる。だが、交通事情も悪く、過酷な現場であることに加え、さらに不効率で利益が少ない作業を強いれば業者は敬遠し、それだけ解体も復旧も遅れるのは自明のことだ。

 

 ただでさえ業者が不足し、ボランティアの数も限られているなか、地元業者が仕事をしやすい環境や条件を整備せず、ルールだけ厳しくしていることも珠洲市や輪島市の公費解体の進捗率が1割程度に止まっていることと無関係ではない。

 

 珠洲市内では事業所の廃業・休業が続き、現在までに再開したのは震災前の6割程度(珠洲商工会議所まとめ)。ガソリンスタンドや小売店の閉鎖休業も多く、宿泊所や飲食店も多くが休業し、再開のメドも立っていない。生活インフラが整わないことが休廃業に拍車をかけている。

 

 食料事情を見ても、中心市街地でわずかに開いているコンビニも午後7時には閉店。一部ドラッグストアも開店しているが、生鮮食品などの数は限られている。そこに県外から来た作業員たちも押し寄せるため、夕方に行くと売り切れている場合も多い。

 

 国や県市は「経済を回す」として食料や水のプッシュ型支援を打ち切ったが、周辺部の集落や避難所では今も食料の調達が困難な地域が存在し、それを被災者である市民がボランティアとなって炊き出しの支援をするという事態が続いている。

 

公的支援乏しく「自助」に丸投げ 見通し立たぬ暮らし

 

市内各地に建設されているプレハブ式の仮設住宅(珠洲市)

 街の復旧が遅々として進まないなか、市内の各所にプレハブや木造の仮設住宅ができ、被災者たちが身を寄せ合うようにして生活している。店などで久しぶりに顔見知りに出くわすとお互いの近況報告になり、「ようやく仮設に入れたよ」「それはよかったね」「でも広い一軒家で暮らしてきたから狭いよね」「でも贅沢はいえないよ」――そんな被災者同士の立ち話があちこちで聞かれる。

 

 仮設住宅は1~2人世帯なら1DK(四畳半一間)、3~5人世帯なら2DK(八畳一間)、6人世帯以上なら3DKなど手狭だが、何カ月間も他人の家に身を寄せたり、避難所での段ボール生活をしてきた被災者にとっては天と地ほどの違いがあるといわれる。

 

 それでも入居できるのは例外を除いて自宅が「半壊以上」の世帯に限られ、入居期限は2年。「あっという間に期限が来る。入った途端に次の住まいについて考えなければいけない」という人もいれば、「この復旧速度ではとても2年後の自宅再建にはこぎ着けない。これからずっと仮設暮らしになるのかもしれない」と不安を口にする人もいる。仮設住宅に入って終わりではなく、期限付きの「仮」生活はまだまだ続くのだ。

 

 一方、仮設住宅に応募するも当選から漏れ、一次避難所で今も段ボール生活を続ける被災者もいる。避難所でボランティアをする市民からは、積もり積もった憤りの声が聞かれた。

 

 宝立地区の避難所でボランティアをする50代の男性は、「今は国を挙げて総裁選をやっている場合なのか? 政治家とはそんなものなのか」と語気を強めた。この地域にも先日、自民党総裁選候補の「大名行列」が在京メディアを引き連れて視察に来たが、違和感しかなかったという。

 

 「この地域は水も下水も使えない。行政は最初は“3月までに復旧”と説明していたが、それが“6月まで”になり、もう8月も終わる。今では期限をいわなくなり“一生懸命やっています”というだけだ。地域にとって必須の橋も地震で壊れてしまったが、修復は5年先だという。いつまでにというよりも、本当に復旧させるつもりがあるのかを確認しなければならない状態だ。見ての通りこの地域(宝立町鵜飼地区)は、7~8割の家が住める状態ではない。公民館も上下水が使えないため避難所としては役に立たず、宝立小学校に最大で700~800人の被災者が身を寄せ、当初は玄関から体育館まで段ボールベッドを敷き詰めて生活していた。今は順次仮設に移って30人程度になっているが、次の行き先がない。抽選に外れても“○月には仮設に入れる”といわれたらまだ頑張れるが、いつまで続くのかもわからない避難生活ほど辛いものはない」と訴えた。

 

 震災後から避難所となった市内の小中学校では、体育館や空き教室に段ボールベッドを敷いた生活が8カ月続いており、学校も再開しているため使えるスペースも先細りしてきた。国や行政のサポートが皆無のなかで、被災した市民たちが交替でボランティアを担い、炊き出しや支援物資の配布などをおこなってきたという。市内最大の宝立小中学校の避難所も8月末で閉鎖される予定だという。

 

避難所に身を寄せる避難者たちの段ボールベッドで仕切られた生活空間(8月24日、珠洲市)

避難所の小学校ではサーカス団が慰問に訪れ、親子連れが集まっていた(同上)

 ボランティアの男性は、「珠洲市では仮設住宅の設計を有名デザイナーに依頼したが、建築費が高すぎるため頓挫して遅れ、さらに土地がないなどの理由で工期が3カ月以上遅れた。だから8月末になっても仮設住宅が全員分完成していない。早く入りたい市民はたくさんいるが、1世帯につき申請は1回限りと法律で決まっているので、狭い部屋が複数空いていても家族連れは入居することができない。入りたいのに入れる部屋がない。もっと柔軟な対応はできないものか」と疑問を語った。

 

 また「私の自宅は最初の調査では“半壊”となったが、その後に不動産鑑定士が改めて調査して“全壊”と認定された。そのため罹災証明の発行が1カ月遅れ、公費解体や仮設入居の申請もすべて遅れた。学校での避難所生活が半年間続くなかで後期高齢者の母が体調を崩し、エコノミークラス症候群と診断されたので焦って仮設住宅を申し込んだが、1Kの部屋しか開いていない。だから母だけ入居させ、私は電気だけ使える知人宅に家賃を払って暮らしている。それも3カ月間の期限付きだ」と話した。

 

 別の男性被災者は「仮設住宅の整備は何カ月も遅れているのに、国も県市も支援だけはきっちり期限通りに打ち切る。高齢者や避難者への朝夕の弁当配食もついに夕方の1食だけになり、それも午後3時~6時の間に健康増進センターにとりに行かなければいけなくなった。無料バスは週2回しか出ていないのに。“食中毒を考慮した措置”というが、要するに配食数を減らしたいのだ。そのため前日に配られた異臭がする弁当を高齢者が食べる事態にもなった。そもそも避難所には冷蔵庫もなければ、炊事場もなく、すべて民間ボランティアが実費を出して揃えたものだ。僻地の避難所では調理師免許を持った市民が炊き出し支援をしてきたが、生活も成り立たせなければならず、限界が来ている。国や県市は“復興のために経済を回せ”というが、避難者は自炊する環境も魚や肉を買う場所もなく、ドラッグストアやコンビニの弁当でしのいでいる。そんなことを8カ月間も自分の親や家族に強いることができるのか?と行政の長には考えてもらいたい」と胸の内をのべた。

 

 8カ月が経過するなかで国や行政は「○カ月間」「○月まで」と支援の期限だけ決めて打ち切り、メディアは現地報道をやめ、「仮設が完成」「避難者は減少」と復興ぶりを演出しているが、住民たちが本来帰還すべき居住地域は、崩壊家屋やガレキがそのまま放置され、道路はひび割れ、電柱は倒れ、水道や下水も使えず、使えても仮の応急処置にすぎない。「復旧した」という水道管も仮設の管が道路脇に剥き出しになっており、本格復旧といえる状態ではないことは現場に来ればすぐにわかる。離散した地域コミュニティや、失われた生業(なりわい)の再建はほど遠いのが現実だ。

 

 「こんな状態で今後の見通しを立てて自立しろといわれてもできるわけがない」「たとえ自宅を修復したとしても、目の前の電柱は倒れて家に電気が来ていない。地域で暮らす人が減ったとき、果たして直してくれるのか心配している」「“やる、やる”といいながら実態が動かない状態を見ると、そもそも行政に街を復旧する気があるのかどうかもわからない。若い人が将来にわたって珠洲で生活しようと思えなければ帰ってこない」「高齢者たちが帰ってきても、若い人たちが流出していくことが街の将来にとっては大きな心配だ」と、行政への不信感や絶望感が口々に語られていた。

 

 それぞれの市町行政の問題とは別に、震災直後から国は被災地復興における財政の効率化や能登半島居住区の集約化をうち出しており、そのメッセージが自治体に対する隠然とした圧力となっていることは想像に難くない。メディアから賑々しく流れる「北陸応援」「がんばれ!石川」のアナウンスとは裏腹に、放置された被災地の冷酷な現実からは、能登被災地の切り捨てという明確な意図を感じざるを得ない。

 

地域消滅を心配する声も 珠洲市沿岸部集落

 

土砂に埋まった沿岸道路とトンネル(珠洲市大谷地区)

 津波被害を受けた珠洲市宝立町の40代の男性は、「行政の迷走ぶりを見ていると、この街を再建して元の生活をとり戻すのか、それとも東北被災地のように沿岸部から集団移転するのか、明確な方針が見えない。いつまでたっても解体やインフラ復旧が進まない裏には住民にいえない事情があるのではないかと思ってしまう。石巻から来たボランティアに聞くと、“宮城県沿岸部の復興計画では集団移転を既定方針にして、地元に残る選択肢を作らなかったことが大きな失敗だった”と話していた。珠洲市の住民アンケートで、宝立町では“地域に戻りたい”という回答が大多数だった。アンケートをとるだけで復旧が進まない。国や県は、どうせ過疎地なんだから金をかけて復旧しても意味がないと考えているのではないか」と話した。

 

 約50年前に関西電力や中部電力が原発立地を計画(2003年に凍結)した珠洲市高屋地区の男性漁師は、「地震で海底が隆起して漁港の岩盤が崩落し、船底が海底に当たるため漁船を港から出すこともできない状態になっている。私は金沢で暮らす息子のもとに身を寄せたが、住民の多くは加賀市山代に集団避難していた。7月になって仮設住宅に入ることができ、高屋に戻ってこられた。だが自宅は全壊。これからローンを組んで新居を建てることはできない。先は見えないが地元に戻ってこられただけでもほっとしている」と話した。

 

 また「原発を作らせていたら今頃大変なことになっていたと思う。当時は電力会社が住民への買収工作をして、住民は反対と推進に分断されて親戚同士でも挨拶もしない異様な空気もあったが、計画凍結後はしこりを残さずに部落は正常に戻った。この地域を再建して、若い人たちが戻ってこられるようにしないと、また同じような施設の計画候補地にされるのではないかと危惧している」と話した。

 

 同じく仮設住宅で暮らす女性も「この地域の海では春にはワカメ、冬にはノリもサザエも住民は好きなように採れる。山にはウドもワラビもある。震災で家はなくなったが、この地域で生まれ育ったものとして海と山、畑があれば生きていける。それだけに都会で何もしない避難生活は苦痛でたまらなかった」と話し、「それでも若い人たちは収入がなければ家族を養ったり、生活もできない。私たちも貯金を切り崩す生活がいつまで持つか。今も崖崩れで海岸の道路が寸断されたままで、珠洲市北端の大谷や高屋は陸の孤島状態だ。早く道路と港を直して漁業を復興しないと集落がなくなってしまうのではないか」と将来への不安を口にした。

 

次号につづく

 

漁港に掲げられた横断幕(珠洲市高屋地区)

軒並み家屋が倒壊している珠洲市蛸島地区の現状(8月24日)

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この記事へのコメント

  1. 寺脇 みちこ says:

    全然気が付きませんでした 自分の中で忘れていました
    最近ちらっとテレビで見てから
    石川県の現状が知りたくて知りたくてやっと
    見つかりました

    あまりにもほったらかされていてひどすぎます
    何とかしたいとむちゃくちゃ思います
    ツイッターで多くの国民の方に見てほしいので許可していただきたいです宜しくお願いします

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