能登半島地震が発生してから3カ月が経過した。もっとも被害が大きかった石川県内ではいまだ7400人以上の住民が避難所生活を続けている。とくに深刻な被害を受けた石川県珠洲市や輪島市の住民のなかには、自主避難所の閉鎖や市外の宿泊施設を利用した二次避難所の受入終了や閉鎖により、生活拠点の移動をよぎなくされる人が増えている。いまだに仮設住宅が十分に整備されておらず、今後指定避難所の縮小なども進んでいくなか、自宅への帰還を決断する高齢者も多く、住民の離散避難でコミュニティが崩壊している地域も少なくない。震災から約3カ月半を経た被災地の今を取材した。
住居・食料・水も失った被災者たち
珠洲市蛸島町の自宅で妻と暮らす80代の男性は、「地震が起きたときに慌てて外に飛び出したが、そのときに屋根から瓦が落ちてきて頭に直撃し、血をボタボタ垂らしながら毛布で頭を押さえ避難所までなんとか逃げた。だが道路はガタガタで救急隊も身動きがとりにくく、避難所はけが人ばかりでなかなか名前が呼ばれなかった。病院に行って治療を受けられたのはその日の夜中2時で、17針を縫うけがだった」という。
自宅は一次調査では「半壊」の判定だったが、家の中まで見てもらうために二次調査を依頼した結果「準半壊」へとランクが引き下げられたという。基本的に仮設住宅に入居できるのは自宅が半壊以上と認定された人が対象となるため、仮設への入居は選択肢から排除せざるをえなかった。
男性は妻と2人で3月までは地域の避難所で生活していたが「いつまでも避難所の世話になるわけにはいかないし、自宅も住めないわけではない。どうせ仮設に入れないのだから早めに家を直して住むしかない」と今は自宅へ戻って生活している。だが自宅は現在、屋根の瓦が所々剥がれ落ち、地盤沈下によってブロック塀もほとんどがバラバラに崩壊、外壁にはひびが入って所々剥がれている。家の中も雨漏りし、建て付けが悪くなり、ふすまが閉まらなくなるなど、あちこち不具合が出ている。地盤と家の基礎との間にも10㌢ほどの隙間が開いている。「まだ通水していないのでわからないが、おそらく水道管などもかなりダメージを受けているはずだ。これだけの被害で準半壊という基準もよくわからないし納得がいかないが、また調査を依頼して結果を待つのも疲れるから諦めた」という。
自宅で生活していくためにはこれからあちこち修理しなければならない。男性は「準半壊に対する支援などごくわずかなもので、今日やった瓦修理だけで全部なくなってしまうだろう。だからそれ以外の基礎や塀、雨漏り修理などの残りの工事はすべて手出しでなんとかしなければならない。私も妻もこの家で何年生きられるかわからないし、その後住む人もいない。だが今から暮らしていくためには金をかけて修理しないとまともに住めない」と話していた。
被害を受けた住宅を建て直す場合は、生活再建支援法からの支援で最大支給額はそれぞれ全壊300万円、大規模半壊250万円、中規模半壊150万円だ。だが補修や賃貸に移る場合はさらに少なくなる。また、半壊、準半壊、一部損壊では、住宅再建のための支援金は一切出ない。災害救助法から応急修理費用は出るが、トイレや風呂など必要最小限度の修理費用を支援するもので、半壊で最大70万6000円、準半壊なら34万円だ。
自宅に戻ってきた現在の生活の様子については「今一番大変なのは水が使えないことだ。このあたりはまだ断水が続いているので、家の外に貯水槽(バスタブのような形)を三つ並べて雨水を溜めておいて、トイレ、洗濯、風呂すべて手で汲んで使っている。車は無事だったので自力でスーパーに通って食料や水はなんとか調達できている。これまで生活していた避難所に頼めば弁当の配布もあるので、必要なときは利用している。今は家での生活はなんとか続けられている。避難所にいたときの方が楽だったが、いつまでもそういうわけにはいかない」と話す。
珠洲市内では在宅避難者への弁当の配布などはすでに終了しており、そうした人の分も含めて今は避難所へ届けられるようになっている。だが、今後は指定避難所が縮小に向かっていくと、地元に残った住民のセンター的な拠点がなくなる。
避難所の世話をしている住民は「避難所の方が居心地がいいからと残っている人も多く、無理に“出て行ってください”とはいわないが“いつまでもいていいですよ”ともいえない」と複雑な思いを語っていた。避難所縮小にともない支援物資の配布や飲食料の供給体制が縮小していくことで、今後地域に残った高齢者の孤立化が進んでいくことを危惧する声もある。
蛸島町の自宅に戻った男性が暮らしている集落にある家屋のほとんどが全壊被害を受け、自宅の周りを見渡して見える家のうち、住民が戻ってきたのはわずか3軒だけだという。
「地元の知り合いが何人か近くの避難所にいるが、それ以外はみんなどこに行ってしまったのかまったくわからない。地震の前は昼間に家の外に出れば誰かが畑で作業をしたり散歩をしていたが、液状化で畑が田んぼのようにぬかるんでしまい使い物にならなくなってしまった。今は家の周りでは誰とも会わない。妻は“寂しい”“避難所の方がよかった”といって日中は避難所の知人のところに話をしに通っているが、いつかはなくなる。避難所の知り合いも“仮設が当たってよかった”といっていたが、2年後には出て行かなければならない決まりだ。その後にまた蛸島に戻ってこれるのかはまったくわからない。結局またこうしてみんながバラバラになっていく」と不安な思いを語った。
男性は、玄関先から畑の向こうにある桜の木を眺めながら「もうすぐ向かいの桜が満開になる。上手いもんで、花たちはこんな地震があっても春になって時期が来れば自然に花開く。わしら人間は哀れなもので、この先どうなるか何も分からず何も変わらない」と力なく語った。
輪島市で準半壊の自宅に戻って生活しているという80代の高齢夫婦は、4月になってから二次避難先のホテルから自宅に戻った。女性は「うちは車がないので、食材を自分で買いに行くことができない。今は歩いて数分のところにある避難所が支援物資や食事の配布をおこなっているのでわけてもらっている」という。この避難所では、さまざまなところから届く支援物資の余った分を地元の住民やボランティアなどに対し、毎日誰にでも無料で3食分提供していた。
この日の昼食は、パックごはんに、カップ麺とレトルト食品の肉じゃが。女性は「とにかく食べられるものを頂けるだけでありがたい。近所の避難所の食事があるから家に戻って来られたようなものだ。今日、壊れたガスコンロを買い換えたら、家電屋さんが米10㌔分を差し入れしてくれた。電気も水も使えるようになったので、ようやく米だけでも自炊して食べられるようになった」と話していた。
仮設入居も「1年間」と 先行き見えぬ流浪
地震発生当日に起きた輪島朝市通り周辺での火災により、自宅が焼失した高齢男性は「地震の直後、何も持たずに家を飛び出した。妻と“貴重品は後からとりに来よう”と話していたら、家が全焼していた。避難所では3日間飲まず食わずで、あの時は本当に辛かった。1月14日までの2週間段ボールもなく、体育館の体操マットを高齢者から優先して配り、みんなで分け合って使っていた。とても寒かったが電気ストーブしかなく、停電していたのでそれも使えなかった。結局、避難者が自宅から石油ストーブを持ち寄ってなんとか暖をとっていた」と当時を振り返る。
その後、二次避難所である加賀市のホテルに約1カ月いたというが、最初の避難所から二次避難所のホテルに移るとき、みんな行き先を知らされずにバスに乗せられたという。「県の職員に聞いても絶対に行き先を教えてくれず、ただ二次避難所に行くということしか知らされなかったので、みんな“どこに連れて行かれるのだろうか”と不安だった。どうやら行き先を教えると“私はここがいい”という要望が出て手に負えなくなるのを避けるためだったそうだ」という。
2月22日に仮設住宅の抽選に当選し、今は夫婦で仮設暮らしを続けている。ただ、「基本的に仮設の期限は2年間だが、“できれば1年で仮設を出てほしい”といわれて驚いた。1年後までに次住む家を考えなければならないのだが、まだ自宅周辺は火災直後のまま焼け野原の状態で、がれきの撤去などいっさい手つかずだ。1年以内に同じ場所に家を建てるなんてできないし、もう考えるのも疲れた。せっかく仮設に入れたのに1年後に出ることを考えなければならないなんて思ってもみなかった。正直今はなにも考えられない」と語っていた。
同じ地域で被災し、自宅兼店舗が焼失したという男性は「自分自身、東日本大震災や熊本地震のことは大変だと思いながらも、どこか他人事として捉えていたと思う。いざ自分の身にふりかかると何も教訓を得られていなかったと感じた。着の身着のままで避難したので、火災で何もかも失った。今思うともう少しでも対策しておけばよかった。被災直後、もっとも辛かったのはトイレがしたいときにできないということ。女性はとくにかわいそうだった。他の市に比べ、輪島市の避難所ではそうした災害時の物資が備わっていなかった。メディアの人たちには、“かわいそう”という報道だけではなく、被災地の本当の教訓を全国に伝えてほしい」と話していた。
また、災害直後から今までの国の対応について、「被災後スマホの電波が入らなくなったが、1月6日にはドコモとKDDIが輪島港のすぐ沖合に基地局機能がある船を停泊させて電波を飛ばして連絡がとり合えるよう対応してくれた。港からすぐそこに船が見え、“ここまでやってくれるのか”と本当にありがたかった。“奥能登は地理的条件が悪いから災害対応が遅れた”ともいわれるが、私たちからすると、携帯会社がそこまで船を付けられるのなら、国が海上自衛隊なりを動かして、どこよりも早く物資を届けることはできなかったのだろうかと思ってしまう。地盤の隆起などの懸念もあるかもしれないが、小型のボートや筏を中継したり何かしら対応策は見出せたのではないか。確かに能登はアクセスも悪いし、ボランティアも作業員も輪島には泊まれないので活動できる時間も短い。条件が悪いのはわかるが、“言い訳”で今の状況が良くなるわけがない」と語っていた。
男性は続けて、「正直、国や役所も過去の震災の教訓を生かせていないと思う。例えば、家のがれきなどはボランティアの人たちが撤去してもいいが、車は“所有者がいるから”と触ることすらできない。道路にはみ出して家の下敷きになっている車が歩道を塞いだままになっていて危険だが、持ち主がどこにいるかもわからず連絡もつかないので誰も手が付けられず放置されている。火災が起きた朝市通り周辺にも焼け焦げた車があちこちに放置されているが、これからどうやって片付けるのか。今の一点張りの制度のままでは前に進まない。もう少し融通の利く現場に合った制度が必要だ」という。
そして「いろいろ市の窓口に要望をいいに行くが、“いや、東日本大震災のときもそうだったから”“熊本地震のときもそうだったから”といって聞き入れてもらえず、結局何も動かないということが多々ある。過去の災害のときも同じような問題がいくつも起きているはずなのに、教訓が生かされずにむしろその事例が被災者に黙ってもらうために提示する“実例”として扱われている気がする。倒れたままになっている7階建てのビルも、朝市通りの焼け野原もこの先放置され続けて“被災地のシンボル”のような扱われ方をしていくのではないかと思えてくる。地震からたった2日で倒壊したビルの撤去を始めた台湾がうらやましい」と語っていた。
生活基盤の再建が急務 机上の復興計画より
輪島市や珠洲市では、住宅の解体作業はまったく進んでいない。道路に散乱したがれきを撤去して舗装し、なんとか車が通行できるという状態で、それ以外の路地などはいまだに崩れた住宅やがれきが道の上に散乱して通行できないところも多々ある。自宅の片付けなど復旧に向けた作業に手が付けられず、高齢者ほど身動きがとれない。漁業をはじめとした地域の産業も壊滅的な打撃を受け、生活の糧を求めて若い生産者やその家族など、子持ち世帯から徐々に地元を離れている。
そんななか、財務省は9日に開いた財政制度等審議会の分科会で、能登被災地の復旧・復興について「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、過去の災害の事例も教訓に集約的な街づくりを」と提言した。今、被災地の住民がバラバラになって自立した生活さえままならず、地域コミュニティが維持できなくなることへの不安が広がっているなかで、国が「コスト削減ありき」で被災地に集約化を求めるこの姿勢こそが、3カ月経って何も進まない被災地の現状を導いている。
輪島朝市通りの被害で店を失った店主は「まだ火災の焼け跡はがれきの撤去さえいっさい手つかずなのに、どうやらすでに“新しいまちづくり”とか“新しい朝市”などという話が動いているそうだ。そんな話は地元の商店主たちにはいっさい来ていない。机上の世界で描かれた復興計画に振り回されて、当事者である自分たちが右往左往したくない。地元の住民が主体となって話し合い、将来のことを決めていかないといけないと思う」と話していた。家々が燃え尽きた朝市通りの焼け野原を眺めながら、それでも男性は最後に「後ろ向いても進めない。下向いてでも前に進まないと」と前を向いた。「がんばらなしゃあない」と。