2020年7月の熊本県・球磨川豪雨災害から3年目となる7月29日、「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」が「第3回清流川辺川を守る県民の集い」を開催した。会場は熊本市の熊本県民交流館パレアで、オンラインでも公開した。現在、国や熊本県は球磨川豪雨災害のまともな検証をしないまま、「命を守る唯一の選択肢」といって川辺川ダム計画を復活させ、「ダムありき」で突っ走っている。これに対して住民たちと専門家が、当日なにがおこったのかを詳細に調査し、国や県が触れようとしない「不都合な真実」を広く市民に知らせようとしている。「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」が作成した4本の動画と、県民の会事務局長・土森武友氏の報告をもとに、あの日球磨川流域を襲った豪雨災害はなぜ激甚化したのかを考えてみたい。
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2020年7月4日未明から、線状降水帯が13時間にわたって球磨川流域を東西にすっぽりと覆い、1時間に50㍉以上の豪雨が流域のほぼ全域で発生した。とくに球磨村の神瀬(こうのせ)では、9時間雨量が465㍉に達した。7月平均降雨量の1カ月分が9時間で降ったということになる。
豪雨災害は球磨川流域に甚大な被害をもたらした。球磨川流域では死者50人、行方不明者2人、住居被害5144棟となった。本流沿いでは、おびただしい量のヘドロや流木が街中にあふれた。今年2月現在でも、619戸・1341人が仮住まいをよぎなくされている。
「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」は、国や熊本県による検証が当時発生した多くの事実を無視し、きわめて不十分なものになっていることから、独自に被災者200人以上の聞きとりをおこない、2000枚以上の写真や動画を入手して、動画『不都合な真実』①~④を作成し、以下のように検証をおこなっている。
ダム化した第4橋梁 決壊し人吉市を襲う
まず、この豪雨で流出した球磨川第4橋梁でなにが起こっていたのか、である。
くま川鉄道の球磨川第4橋梁は、人吉市の上流で、球磨川と川辺川の合流点にあった。4日当日、濁流は球磨川の堤防を2㍍以上もこえ、人吉市中心部はほぼ冠水した。
その日、手渡す会のメンバーが様子を見に行くと、川辺川と球磨川の合流点では川の氾濫で田畑が湖のようになっており、先に進めなかった。迂回してさらに上流に行ってみると、川辺川でも球磨川でも大氾濫を起こすような水位上昇は見られなかった。これは、合流点でなにかが起こっているとしか考えられない。そこで水が引いた後に現場で検証した。
すると、流木があちこちにひっかかり、大きな木が家屋を突き破っていた【写真①参照】。くま川鉄道の川村駅では、電柱などの構造物やひっかかった流木が球磨川の方向になぎ倒されていた。線路が洗掘されるほど激しい流れだった。
住民の聞きとりのなかでも、「いつもとは反対方向から水が来た」「大きな音とともに水位が一気に下がっていった」「合流点に莫大な量の木材が積み上げてあって、それが水害後に消えていた」などの証言が出てきた。これまでの水害とは明らかに違う現象が起きていた。
明らかになったことは、当日、合流点付近に流れてきた莫大な流木が第四橋梁に引っかかり、水の流れを堰き止めてダム化した。そのうちに上流の水位は急上昇し、合流点付近は大氾濫となった。そして、水圧に耐えられなくなったダム化した橋梁はついに決壊し、莫大な量の洪水は津波のような鉄砲水となって下流の人吉市を襲ったということだ。
人吉市では全世帯の約5分の1に当たる約3000世帯が浸水した。人吉市の犠牲者20人は、すべてこの氾濫した水で命を落としている。
この鉄砲水が襲った人吉市中心部の球磨川は、豪雨の前から、堆砂によって流下能力が最悪の状態になっていたこともわかっている。住民たちは幾度となく堆砂を撤去するよう要望を出していたのに、行政は無視し放置していた。この堆砂も被害の激甚化に拍車をかけた。
しかし、この第四橋梁ダム化問題は、国や熊本県がこれまでおこなってきた検証では一切触れられていない。
洪水はまず支流で発生 上流ダムでは防げず
第2に、住民を襲った洪水は、まず最初に球磨川の支流で発生していた。
球磨川の中流域は山の中を流れており、川辺川も山の中を流れている。そこに網の目のように山からの支流が注いでいる【地図参照】。
過去最大の線状降水帯が東シナ海から迫ってきたとき、最初にぶつかるのがこの地域の山々だ。その結果、この地域は未明からすさまじい豪雨が襲い、至るところで山々が崩れ、多量の土石や流木をともなって破壊力を増した洪水が、ありとあらゆる支流で発生していた。とくに山際の集落では、川よりも山からの濁流がすさまじかったという。
球磨村神瀬の堤・岩戸地区では、集落の背後にある鍾乳洞からすさまじい量の濁流が押し寄せてきて、3人が犠牲になった。この地区を襲った濁流は出口を求めてまだ水位が低かった球磨川に向かうが、国道横に堤防があったことで行き場を失い、国道を川のようにして下流に流れたと、地元の人が証言している。
支流の万江川の上流にも、早い時間帯から濁流が押し寄せた。ここには用水路の取水堰(せき)がある。万江川からあふれた濁流は田畑にあふれ、御溝と呼ばれる用水路を伝って人吉市へと向かっていった。この用水路は万江川で取水して低い土地に向かって効率よく配水し、田畑を潤すものだが、今回の豪雨時にはその作用が効き過ぎてしまった。こうして市内の至るところで、用水路からあふれた濁流が予想もしない方向から襲ってきた。
球磨川からあふれるより早い時間帯に、それぞれの地域に降った豪雨がそれぞれの地域を流れる支流でほぼ同時刻に大洪水を起こし、被害を拡大した。それが本流に流れ込み、球磨川本流も一気に水位を上げた。つまり支流に降った豪雨が球磨川豪雨災害をもたらしたといえる。
聞きとりのなかでは、「一旦水位が下がったり、上昇が止まったりした後に、また水位が上がった」という証言が複数寄せられた。県民の会の土森氏は、これも「早い段階で支流があふれ、それが落ち着いた後、今度は球磨川本流があふれたということではないか」と指摘している。
球磨村が発行した災害記録集には、球磨川が氾濫するより早い時間帯の、まだ夜も明けきらない未明から被災した様子が詳細に記録されているが、その記録集から、多くの被害が球磨川の支流で発生していることがよくわかる。国や県は上流に川辺川ダムをつくって治水対策をおこなうと主張しているが、ダムでは支流に発生した災害を防ぐことができないのは明らかだ。
荒れた森林が発生源に 皆伐や人工林放置
そして、第四橋梁がダム化したことも、真っ先に球磨川の支流で洪水が発生したことも、元をただせば上流の森林の状態に起因している。自然観察指導員熊本県連絡会会長のつる詳子氏は、豪雨災害直後に「山でなにが起こったのか」の調査に入り、2021年7月に開かれた「豪雨災害の実態解明を深めるシンポジウム」で次のように報告している。
球磨川の支流・行徳川では、上流の山が崩れやすい地層であったことに加え、水害の前から下草がまったくない、保水力のない状態で、雨のたびに表土が流されていた。それはシカの食害によるものだ。「危ない、危ない」といっていたところに豪雨災害が起こって一気に崩れた。こうしたことが流域の至るところで起こっていた。
次に皆伐の問題があった。同じく球磨川の支流・市ノ俣川は、川の流れに沿う形で山が多くのところで崩れていたが、上流は皆伐地で、木材やチップにするために一定面積で一斉に木を伐っていた【写真②参照】。上流に行けば行くほど皆伐地がたくさん見られた。これまでも大雨が降るたびに崩落を起こしていたところだ。
14人の犠牲者を出した球磨村の特別養護老人ホーム「千寿園」は、そばを支流の小川が流れているが、その上流も皆伐地から崩れていた。小川の上流には約1・7㌔×約1・2㌔、100㌶はあると思われる大規模な皆伐地があり、その下流でたくさん崩れていた。
皆伐地では、森林がなくなることによる保水力の低下とともに、無秩序な搬出道路建設で崩落が発生しており、土砂流出防止施工がされていないとさらに被害が拡大している。
三つ目に、人工林が間伐などの森林整備がされないまま放置されている問題がある。支流の行徳川の上流では、幅2~3㍍の川の両側のスギがみんな倒れて、流木が川を覆い尽くしていた。手入れがされていない人工林だった。
とくにスギは、実生ではまっすぐに地下深く延びる「直根」があり、そこから根を広げるが、苗植え植林の場合は根がたいへん浅い。だから、スギだけにしてしまうと、崩れやすい植林地ができあがることになる。
さらに、土砂はほとんどの砂防ダムを乗りこえて大量に吐き出され、いたるところで道路を壊していた。国交省は砂防ダムをつくる方針を出しているが、効果は疑わしい。
最後につる氏は、こうのべている。
「国の森林政策のまずさから、流域の山は公益機能を失い、災害の発生源になっている。ハザードマップの危険箇所だけでなく、皆伐や人工林放置、シカの食害で山が荒廃している。ハザードマップが役に立たないほど荒廃した山の下流に、私たちは住んでいるわけだ。今、真剣に森の問題と向き合わないといけない。そうしないと日本中の森林がこのようになる可能性がある」
ところが国交省と熊本県がつくった球磨川豪雨検証委員会では、森林の状況を探る議論はまったくなかったという。
水位データは捏造か? 水位計の水没は明白
当日の豪雨によって球磨川は大規模に氾濫し、人吉市の中心部は広範囲に浸水した。今後の洪水対策を考えるうえでの検証の基礎データとなるのが当日の水位だが、国が設置した人吉水位観測所も水没し、当日の午前8時半以降は観測できていなかった。しかし国は、第1回検証委員会のさい、同観測所の下流700㍍に位置する人吉大橋に設置した危機管理型水位計で水位を観測できていたとして、観測値を発表した。これについて『不都合な真実』は、次のように訴えている。
被災した住民は、人吉大橋が水没していく様子を実際に見ていた。水が引いた後の人吉大橋は、流出こそまぬがれたものの、満身創痍のズタズタの状態であり、本当に水位を計測できていたのか疑問だ。
国は「計測したピーク水位は、水位計の設置位置より46㌢低かったので、水位計は水没しておらず、連続的に計測できていた」という。この危機管理型水位計は、水面に向けて垂直に超音波を照射し、反射波の時間から距離を計測するというものだ。
しかし、被災直後の写真の1枚を見ると、水位計の本体上部にある太陽電池のパネルと同じ高さに流木がひっかかっていた。水位計の上を水が流れた明確な証拠だ。午前10時19分に撮影された別の写真では、ピーク水位(午前9時50分)を過ぎてはいるが、大橋の上を濁流が流れている。高さ一㍍ほどの欄干上部に達していることは一目瞭然だ。
国はまた、「観測されたピーク水位は、痕跡水位とも概ね一致する」という。ところが、この水位計が設置されていたのは大橋の右岸側だが、国の採用した痕跡水位はなぜか左岸の二カ所となっている。被災した大橋を見ると、欄干が損傷したのは右岸側だけだった。右岸の水位が高くなっていたことは明らかで、なぜわざわざ低い左岸の痕跡水位を採用したのかということだ。
水害時のピーク水位は、豪雨災害後の河川整備計画を立案するための基礎データであり、とても重要なものだ。しかし国は、信憑(ぴょう)性に欠ける水位計データや、左岸の低い水害痕跡からあの日の水位を決定している。
県民の会の土森氏は、「国や県は、7月4日のピーク流量を7400㌧/秒と報告している。しかし、地元の住民は橋げたの上を流れているのを見ており、研究者も少なくとも1万㌧/秒はあったと話している。国は信憑性に欠けるデータで、あまりにも低く抑えている。国は、河川改修で川の流量を4000㌧/秒に抑え、市房ダムで400㌧/秒、川辺川ダムで3000㌧/秒カットすることができるといっている。もし1万㌧/秒以上であれば、川辺川ダムをつくっても3000㌧/秒近くあふれることになる。ダムをつくるための辻褄合わせに過ぎないと思う」とのべている。
瀬戸石ダムが被害拡大 下流域に甚大な被害
下流では、瀬戸石ダムが大きな問題を引き起こしていた。これについて県民の会の土森氏は、次のように報告している。
瀬戸石ダムは、球磨川中流域の、球磨村と芦北町の境にある。1958年にできた発電専用のダムで、貯水容量は993万立方㍍、所有者はJパワー(電源開発株式会社)だ。
私たちは、瀬戸石ダムが構造的にダム湖に土砂がたまり、それによってダム湖の水位が上がって洪水を引き起こしやすくなると、ずっと指摘してきた。冬場になると瀬戸石ダムはゲートを開けて、土砂の撤去作業をおこなっている。たまった土砂はピーク時で100万立方㍍をこえ、今回の豪雨災害直前でも80~60万立方㍍ほどたまっていたと思われる。
当日の朝、ダム湖は満杯状態。ダムの下流も満杯。上流と下流で同じ水位になっていた。ダムの上が橋になっているが、そこにも流木がひっかかり、ダムの上端から2㍍上まで水がきていたことがわかる。
ダムはどのような被害を引き起こしたのか。
ダムの下流側では、すさまじい破壊力で、家が壊され、JR肥薩線の線路がひん曲がっていた。肥薩線の瀬戸石駅は跡形もなく流され、土台が深くえぐられていた【写真③参照】。
逆にダムの上流では、壊れている家はない。線路も残っている。土砂は堆積しているが、ほぼ水平だ【写真④参照】。
ダムの上流と下流では、被害の様相がまったく異なっている。ダムの上流では、ダム湖に長時間浸ることで土砂が堆積した。下流では、ゲート全開で水量・流速が一気に増し、土砂の混じった濁流が建物を跡形もなく押し流した。したがって川辺川ダムを中止にしたとしても、下流域の人たちは瀬戸石ダムがあるかぎり危険な状態が続くことになる。
ダムの構造上、上流側は貯水によって水位が上昇する。住民の証言では、災害当日、土砂がたまって4~10㍍近く水面が上昇したという。下流には、ダムの放流で激しい水の流れが押し寄せた。
瀬戸石ダムを撤去する会の調査では、球磨川豪雨の流量で、もしダムがなければ、ダム上流側で最大で約6・8㍍の水位低下になったと指摘している。つまり瀬戸石ダム上下流部では、ダムが原因となって被害を拡大したということだ。管理運営するJパワーの責任は大きいが、同社はダムが原因であることを否定している。
川辺川ダムはいらない まず森林整備進めよ
そもそも川辺川ダムをつくる計画は、1965(昭和40)年の人吉大洪水をきっかけに持ち上がったものだ。日本三大急流として知られる球磨川の最大の支流・川辺川に、高さ107・5㍍、総貯水量1億3300立方㍍(東京ドームの約107杯分)という、九州最大のダムをつくる計画である。
しかし、その人吉大洪水も、「30分ほどで一気に2㍍も水位が上がった」という数々の証言から、「市房ダムからの急激な放流が被害を大きくした」と水害体験者は考えている。市房ダムに加え、その3倍の川辺川ダムがつくられると、下流住民はこれまで以上に洪水の恐怖に脅かされることになる。
2003年5月の福岡高裁の判決で、「ダムの水はいらない!」と訴えた2100人以上の原告農民が勝訴した。そして2008年、蒲島熊本県知事は川辺川ダムの建設中止を表明した。これを受け、国・県・市町村合同で「ダムによらない治水を検討する場」が始まり、その後、治水対策協議会に引き継がれた。しかし、実質的な対策がとられないまま放置された。
そこに2020年7月、球磨川豪雨災害が発生した。国や県は、被災者が復旧や生活再建に追われている間に、球磨川豪雨検証委員会をわずか2回で終了とし、同年の11月、流水型ダム(穴あきダム)として川辺川ダム計画の復活を発表した。この流水型ダムは日本最大規模で、前例のないものだ。
流水型ダムの下部にあるトンネルでは、満水時に強烈な水圧が生じるので、緊急放流時に放出される水の勢いは尋常ではない。そして、その激しい勢いに耐えるために、川の下流部もコンクリート構造物でガチガチに覆われることになる。さらに、洪水時に川の流れをためるということは、ダム上流に膨大な堆砂をもたらし、長期間にわたる濁水の発生が確実に起こることになる。被災者をはじめ県内外の市民から、緊急放流のリスクを不問にし「流水型ダムが環境に優しい」と訴える県の広報に、抗議の声があがっているそうだ。
しかも当初350億円と見積もられていた川辺川ダム事業費は増え続け、今では関連事業費とあわせて4000億円以上にも膨らんでいると見られている。原資はすべて、国民や熊本県民からの税金だ。
市房ダムのある球磨川上流では、大雨のあと、長期にわたる濁水発生が常態化しているという。それでも球磨川は、相良村で合流する川辺川のおかげで、かろうじて清流を保つことができている。したがってこの川辺川にダムをつくることは、清流・球磨川への死刑宣告にも等しい。
県民の会は「豊かな生態系を根本から断ち切るコンクリートの巨大ダムはいらない。“治水は治山から”という基本に立ち返り、山林の手入れを積極的に進め、豊かで持続可能な安定した流域環境を私たちは提案している」とのべている。
なお、つる氏ら専門家の意見は「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」のホームページで、動画『不都合な真実』は「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」のホームページで見ることができる。
人吉育ちで、小学校から高校まで球磨川で泳いで育ちました。
3年前の大水害の時は、福岡市内に住んでいました。
長州新聞のきじは、良く書かれていると思います。
これからも引き続き、書いてくださるようお願いします。