福島第一原発の大事故は、破局的な放射能大災害の様相を強めている。外部電源が接続し炉心や使用済燃料プールを放水で冷やすのに成功したといっていたら、その水が高濃度の放射能水となって隣の建屋の地下にたまり、配電盤やケーブルの工事ができない。さらに冷却水と温排水のパイプが通る外部のトンネルにもたまって、海中に流れるのは必至となっている。炉心溶融がすすんで穴があいていると見られ、水を入れなければ炉心が爆発し、水を送り込んだらそのまま高濃度の汚染水となって外部に流れ出る。しだいに被曝線量が高くなって作業員がいなくなり復旧作業もできなくなる。打つ手がなく、コントロール不能の危機的な状態である。
福島原発では現状までに、大気中はもちろん海中や地下水などに膨大な放射能汚染をもたらしているが、最悪の場合、炉心の爆発・放射能の大量放出も想定される。敷地内は人間の立ち入り不能となって、他の3基ないしは5基の原子炉もコントロールできなくなり、広島原爆の数万発分の放射能を放出することもありうる。
国民は、被曝は避けられないにしても、黙って放射能にさらされるわけにはいかない。この事故の本当の事態はどうなっているのか、また刻刻と変化する放射能の放出量、風向きはどうなっているかなど知らせなければ、またただちに全国にモニタリングポストを設置するようなことをやらなければ、国民は被害を最小限にするような対応のしようがない。
しかし政府の発表や解説は、「ただちに影響はない」「冷静な行動を」というばかりで、「わが方の損害は軽微なり」を繰り返して大惨禍へと導いた第二次大戦の「大本営発表」と変わらない。見殺しである。また広島、長崎の原爆被爆者は、それが原子爆弾であり、放射能にさらされて危険であることなどとは知らされず、なぜかわからぬままおびただしい人人が原爆症で死んでいった。その経験は豊富なのに、今も同じことが繰り返されている。
放射能被曝はスリーマイル、チェルノブイリといわなくても、日本民族こそ広島、長崎で嫌というほど経験していることである。原爆投下によって強烈な熱線や爆風、大火災などで殺されたが、その後放射能被曝によってつぎつぎに死んでいった。放射能被曝は「ただちに影響がある」急性障害があるが、それ以上に10日、ひと月、数年、数十年後にガンなどとなって発症し、また2世、3世に影響し、今もつぎつぎに殺している。
地震列島に原発をつくり、40年、50年と稼働させるなら、大事故が起こる確率は100%と予測できたことである。大災害が起こることがわかっているのに、アメリカのいいなりで原発を強行してきたのだ。今回の原発事故は、日本を滅亡させても自分らの地位が守れるなら良いという戦後の売国政治の犯罪性を象徴的に暴露するものである。政財官界、メディア、御用学者など、原発を推進してきた連中は、国民に謝罪する表情すら見せないし、現場に出向いて陣頭指揮をする用意も見えない。国民の生命や安全を守る意志も能力もなく、逃げるときは国民をほったらかして真っ先に逃げる体質と見る以外にない。
日本民族は逃げる意志も場所もないし、このような売国奴勢力とは無縁である。原爆を受けた広島、長崎の人たちは、放射能をあびた水を飲み、野菜をかじって立ち上がり、地域を復興させ戦後の日本を担ってきた。戦災で焼け野原とされた全国の人人も、それに立ち向かって戦後の日本を建設してきた。
日本民族は古来、地震や津波、台風、水害など過酷な自然条件と立ち向かって、独自の歴史をつくってきた。それはひ弱な民族ではないことを証明している。無能、無気力な売国政治に立ち向かって日本を立て直す民族の底力が試されている。