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映画『水俣曼荼羅』が訴えるもの 水俣病は終わっていない 原一男監督のドキュメンタリー

 映画『ゆきゆきて、神軍』(1987年)や『全身小説家』(1994年)などの作品で知られる原一男監督(1945年6月、山口県宇部市生まれ)から本紙に、最新作のドキュメンタリー映画『水俣曼荼羅』のDVDが届けられた。『水俣曼荼羅(まんだら)』は原監督が撮影に15年、編集に5年をかけてつくったもので、3部構成で372分の大作だ。すでに東京、大阪、名古屋、横浜、京都などで上映し、現在九州各地で上映をおこなっている。このドキュメンタリーの内容を紹介したい。

 

現在、全国の劇場で公開中の『水俣曼荼羅』

 水俣病は、かなりの人が写真や映画、書籍などで一度は触れたことがある、日本の四大公害病の一つだ。

 

 しかしそれは「もう終わった」「解決済み」というニュアンスで報道されることが多い。しかし、このドキュメンタリーは事実をもってそれに異議を唱える。水俣病は終わっていないし、それどころか水俣病を引き起こしたこの国の膿(うみ)こそ、子や孫たちのためにとり除かねばならないものだと訴えている。

 

 『水俣曼荼羅』は、第一部・「病像論」を糾す、第二部・時の堆積、第三部・悶え神、からなる。第一部は、熊本大学医学部の二人の医師が、国が水俣病患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」の誤りを証明していく過程を描いている。第二部は、水俣病患者の人たちの長年月にわたるたたかいの過程と顛末を描いている。第三部は、重度の胎児性水俣病患者(女性)の人恋しさと切なさ、自立への願い、運動の先頭に立つ患者の生活を守ることとの葛藤、水俣の魂の再生を希求する作家・石牟礼道子氏の訴えを映し出している。

 

 カメラは水俣の住民の生活の場に上がり込み、また漁をする漁船の上や柑橘収穫の場に赴いたりして住民にインタビューし、裁判所や国、県との交渉の場に赴いてありのままを映し出す。

 

 原監督は「この作品で、なにが困難だったかといえば、撮られる側の人たちが、必ずしも撮影することに全面的に協力していただいたわけではないことだ。それは、マスコミに対する不信感が根強くあると思う。撮られる側の人たちが心を開いてくれないと、訴求力のある映像は撮れない」とのべている。

 

誤りだった末梢神経説  国の認定根拠

 

 ドキュメンタリーは2004年10月15日、水俣病関西訴訟の最高裁判決の日から始まる。「水俣は終わった」とメディアが報道し、分断とあきらめが煽られるなか、唯一和解を拒否し、水俣病の認定を求めて裁判闘争を続けてきたこの関西訴訟が勝訴となり、はじめて水俣病を放置してきた国や県の責任が公に認められた瞬間だ。原告(原告団長・川上敏行氏)は、水俣病にかかって地元で生活できず、夜逃げのようにして関西に移住してきた人たちだった。

 

 見逃せないのはこの判決で初めて、それまで国が患者認定の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用されたことだ。そのために尽力したのが、熊本大学医学部の2人の教授、浴野成生氏と二宮正氏だった。

 

水俣病患者からの聞き取りをする浴野成生教授(映画『水俣曼荼羅』より)

 水俣病認定のための従来の診察方法は、「末梢神経説」を根拠にしている。浴野教授は大学生のとき健診の手伝いに行き、そこで水俣病として申請した人がほとんど誰も認定されなかった。そこでこれはおかしいと調べ始め、以来30年余り水俣病にかかわってきた。最高裁の報告会を部落で開こうと案内のチラシを一軒一軒配り、住民と親しみを込めた挨拶を交わす。

 

 報告会で浴野教授は住民たちにこう説明した。「今までニセ患者といわれとったけど、実は典型的な症状だった。今まで偉いといわれた医者の診察は間違いだった。みなさん見た目は元気そうだが、手がしびれるし、将来どうなるか不安という人は多い。これまでの診断は、水俣病は手足の末梢神経がやられると見ていたが、そうではなく脳の細胞がやられる。脳の中の顆粒細胞の多いところが視覚、聴覚、味覚・嗅覚、触覚の五感を司る場所だが、有機水銀が体内に入ると血液の中をめぐりめぐってそこを破壊するわけだ。診察の前提が間違っており、だから多くの人を水俣病と認めず、放置してきた」。

 

 二宮教授も「目が悪い人が街でツエで探りつつ歩いているのを見かけるが、あれは目に近いところがやられている。だが、脳卒中で脳の片方をやられると片方が見えなくなるが、見えないとはいわず、“歩くといつも片方にぶつかる”という。脳がやられると自分ではわからない。そういう人はニセ患者といわれていた。それはみなさんが悪いんじゃなく、医者が間違っていたということだ。ニセ患者といわれた人ほど、実は有機水銀中毒の典型的な症状だった」。

 

水銀中毒で脳中枢萎縮 切り捨てられた数万人

 

 カメラは緒方正実氏の身体の検査をする場面を映し出す。緒方氏は水俣病の認定申請を四回したが、いずれも県から棄却された。彼を含めて幼児性や胎児性患者の場合、その感度の鈍さでこれまで生きてきているから、いろんな問題点があっても自分ではわからない。緒方氏は仕事場で、電気ノコで右手の親指の先を切断する大けがをして大量出血したが、痛みがほとんどなかった。そのとき、生まれながらの感覚障害にはじめて気づいたという。

 

 化学薬品製造業の前田美千雄氏は、業務で有機水銀を扱っているなかで水俣病と同じ症状を発病した。外見は普通の人と変わらないが、視野狭窄(きょうさく)で数㌢四方しか見えず、手がしびれて皮下に砂が入っているような感じがあるし、人の言葉が聞きとりにくい。CTで脳を調べてみると、脳の後頭葉(視覚)と両側の頭頂葉(触覚)が萎縮し、実質なくなっていた。脳血管障害になってもこの部分だけが欠落するということはないので、有機水銀中毒であることが誰が見てもはっきりわかるそうだ。

 

 「人が人としてなり立つ一番大事な部分を有機水銀が壊している。将来的に有機水銀が世界で増えていくと、人と人とのコミュニケーションをとることが難しくなって、民主主義が成り立たなくなり、戦争につながってしまう」と浴野教授は警鐘を鳴らす。

 

 神経医学者の永木譲治医師は、国側に立つ医師らの末梢神経説を以前から痛烈に批判してきた。「電気刺激をしたらすぐわかるのに、水俣病の認定審査会はそれすらしない。医者の怠慢だ。国側にいかにインチキ医者ばっかりがおったか」「彼らは末梢神経が原因ということにしてしまったのだ。そうでないという意見をまじえて議論するということがそもそもなかった。末梢神経がやられていないという議論は無視、というより犯罪者扱いだった」。

 

 二宮教授は、「手足の反射がなくなる人は末梢神経障害の可能性があるが、反射がある人はそうではないと、すべて水俣病認定から外してきた。末梢神経がやられていないからと八割以上が切られてしまった。だがそうではなくて、切られた方が実は水俣病だったということだ」とのべる。

 

 政府が1977年に通知した「五二年判断条件」とは、感覚障害、運動障害、平衡機能障害、視野狭窄などのうち複数の症状が必要というもので、こうした厳しい条件のもとで申請した8割以上が水俣病に認定されてこなかった。認定されないばかりか、ニセ患者と罵倒され、無念の思いを抱えたまま死んでいった人は数知れない。

 

 ところが、2004年に最高裁が国の責任を認めても、政府は「五二年判断条件」を変えようとしない。「脳の中枢神経説」を採用しようとしないし、患者切り捨ては今も続いている。「やっとこの日が来た」「長い道のりだった」と患者や遺族が流す涙を踏みにじるかのように。原告団との交渉の場で、患者の遺族が「母親たちはどんな思いで死んでいったと思うのか」と追及しても、小池百合子環境大臣(当時)はふてぶてしい態度をとり続けた。

 

 関西訴訟原告の川上敏行氏は、最高裁で勝っても県が認定しないため、県を相手取って訴訟を起こした。証人尋問には浴野教授が立った。2011年、申請してから38年ぶりに認定が出たが、川上氏は素直に喜べない。「反対尋問をやればやるほど逆に原告側の主張の正しさを裏付ける結果になってしまう、つまり国や県の側が医学的知見の集約をきちんとやってこなかったことが露呈してしまうということで、裁判所の判断が出る前に認定してしまい、浴野先生たちの主張が明るみに出ないようにしたものだ」と川上氏の弁護士はのべている。裁判を強制終了させる、森友訴訟と同じ手口だ。

 

 2009年の水俣病特別措置法制定時点で未認定患者は3万6000人いたといわれるが、自分では症状がわからないというのだから、それを大幅に上回る患者がいる可能性は大きい。だが国や県は裁判に訴えた個人は認定しても、認定基準を変えようとせず、被害者が求める「不知火海沿岸一帯の47万人の健康調査」はいまだに拒否したままだ。国の患者切り捨ての棄民政策によって、何万人という人々が今も医者にかかる術がないまま苦しみ続けている。

 

 浴野教授はその発言のために村八分状態で、退職後熊本では就職先はないという。「だけど、学問に蓋(ふた)することはできません」と飄々(ひょうひょう)としている。研究者が国家権力に迎合して戦前のような道に進むのか、それとも学問の自由を貫くかが問われる今、身体を張った問題提起だといえる。

 

将来の人たちのために 粘り強く闘う住民

 

 一方、水俣の人たちも負けてはいない。あるときは一緒に漁師メシをごちそうになりながら、カメラは温厚で人情に厚い住民たちの、たくましさ、明るさを映し出す。

 

 水俣湾は海底湧き水によって豊かな海が育まれ、さまざまな魚が集まってくるところだ。上流には樹齢数千年といわれる松林がある。カメラは海中の魚の群れを映し出す。メバルの稚魚、ヒラメ、カサゴ…。夜明け前、まだ辺りは暗いなか、タチウオを釣る漁師。農家がカゴに入れて運び出している柑橘類はデコポンだろうか。

 

 ある酪農家は、飼っていた大きな牛があるとき突然走り出し、その勢いで夫の指輪が外れた。その後、妻が牛に「ちゃんといいっていわれてからどうして行かなかったの?」と人間の子にいい聞かせるようにいった。すると牛は、鼻を上に向けて涙をボロボロッと流したんだ、と感動した面持ちで話した。

 

 この豊かな海が、チッソ水俣工場が排出した有機水銀で汚染された。チッソ水俣工場は1932年からアセトアルデヒドの製造を開始し、すでに40年代初頭には謎の病気の患者が発生し始めた。1956年、チッソ水俣工場附属病院が原因不明の病気を保健所に届け出た(公式確認)。熊本大学の研究班は1959年、原因はチッソ水俣工場の排水に含まれる有機水銀だと発表し、チッソ附属病院もそれを確認した。

 

初めて水俣病患者に認定された一人である田中実子さん(同)

 小児性水俣病患者、田中実子さん。1956年、六歳の女児・田中静子ちゃん(三女)がチッソ附属病院に来院、その妹である3歳の女児・実子ちゃん(四女)が姉とまったく同様の症状を発症して来院した。これがはじめての水俣病患者となる。

 

 長女の下田綾子さんが当時の様子を語る。「ある日突然、静子が茶碗をかかえきらずに落とし、父が怒って、本人は泣いた。前の日まで元気だった。3日目、目が痛いといいだし、目が見えなくなった。それから声も出なくなった。歩きもおかしくなった」と言葉を詰まらせる。妹の実子さんは今も元気だが、重い障害が残り、言葉は聞きとるのが困難だ。

 

 小児性水俣病患者、生駒秀夫氏。チッソの関連会社に勤め、退職後は漁師をしている。彼と兄は朝鮮で生まれ、母は後妻だったが、昭和23年に防空壕で亡くなった。結婚時には水俣病患者の差別に苦しんだという。

 

 「戦後、僕たちは海の幸で育てられた。そのとき、たまに魚が浮いていた。死んでもいないのに。それをつかまえて晩のおかずで食べたりしていた。私が病気になる前に動物がおかしかった。魚を食べる水鳥やカラスの死骸が水際に打ち寄せており、ネコや犬がそれを食べ、そのネコがくるくる回って死んだり、海の中に飛び込んだりしていた。水俣病がはやる前に、動物が“危ないですよ”と教えてくれてたんだ。僕は最初は普通の風邪かと思っていたが、卓球やっているうちに突然玉が見えなくなった。昼寝して何時間たったかわからないが、起きてみると全身がものすごくしびれた。それを親父に訴えたが、モゴモゴと言葉にならなかった。それがものすごくショックだった」。

 

 そう語る生駒氏の唇や指先は今も震えている。漁船の乗り降りすら楽ではない。

 

自己の生い立ちを語る生駒秀夫さん(同)

 溝口秋生氏は、かつて書道教室の先生をしていた。溝口氏の母チエさんは認定申請中に死亡し、県は申請後21年たって「資料がない」という理由で棄却した。「母だけでなく、私の次男も胎児性で生まれてすぐ痙攣(けいれん)をおこしたが、それも認めなかった、自分と同じような境遇の人が何百人とおり、知っているだけで400人は死んでいる。自分たちの問題じゃない、その人たちのためにも裁判をやれと、亡くなった母がいった気がするんだ」。

 

裁判に勝訴した溝口秋生さん(同)

 関西訴訟の原告団長、川上敏行氏。最高裁で勝っても県が認定しないので、県を相手に訴訟を起こした。「何十年も放置するとは誰の責任か。司法と行政は違うというばっかりだ。五二年の判断条件を私が生きている間になんとかしてほしい。公害は水俣だけじゃなくて、今からでも起こりうるかもしれないから、後の方々のためになんとか役に立ててほしいという気持ちだ。自分は先は短いのだから、認定してもらわんでもいい。補償などなにもいらない。私が死んだ後にもしこのような問題が起こったら、そのときに法的な支えがあり、住民を守ってもらえたらと思う」。

 

 そして、川上氏は90歳になって三度目の裁判を起こした。

 

 患者たちにとって、裁判は勝つことや補償金をもらうことが目的ではない。裁判に勝ったところで病気はよくならないし、死んだ人は戻ってこない。目的はこの国の不正をただすことであり、安心して生活できる世の中を次の世代に残すことだ。

 

企業利益優先した犠牲  黙殺するこの国の“膿”

 

 1970年、巡礼姿の水俣病患者や住民たちがチッソの株主総会に乗り込み、位牌を手にチッソの江頭豊社長(元日本興業銀行常務取締役、皇后雅子の祖父)に詰め寄った。当時のモノクロ画面が映し出される。住民運動は大きく盛り上がったが、その後、国は住民の分断をはかり、あきらめを誘う。

 

 1990年代に入ると水俣病の幕引きが始まった。政府は1995年、認定せずに患者を「救済」する解決案(チッソの負担で一時金として一人260万円、国と県の負担で病院にかかれる健康手帳を発行)を発表。2009年には「水俣病問題の最終解決」といって水俣病特別措置法をつくり、一人210万円の一時金を出した。ただし、いずれも新たに裁判を起こせば健康手帳は使えないことを条件に。こうしたなかで、裁判を起こしていた各地の訴訟が次々と和解になっていった。

 

 ある被害者の会の総会で、和解を決めた場面が映し出される。納得できない気持ちを訴える参加者。「国が謝ることもなく、チッソも臭いものに蓋で、これだけ金をやるからこれからなんにもいうなという押さえ込みをするようなことに、納得がいかなかった。50年もほったらかして、不知火海沿岸の健診もしていない」

 

 2013年に溝口氏の裁判が最高裁で勝訴し、溝口氏は認定を受けたが、その後、熊本県の蒲島知事がやったことは棄却の連続だった。


 2014年度 認定0人、棄却11人。
 2015年度 認定2人、棄却97人。
 2016年度 認定2人、棄却246人。
 2017年度 認定0人、棄却314人。
 2018年度 認定0人、棄却301人。

 

 そして今も裁判は続いている。いまだに現地水俣では「水俣病の話はタブー」だといい、患者がいつでも相談できる水俣病専門の病院すらないという。

 

 水俣の住民に分断とあきらめをもたらした責任は、メディアにもあるだろう。この映画が何度も映し出している、国・環境省や熊本県の担当者に対して患者や遺族たちが真剣に、また涙ながらに訴えるその声、それに対して国の役人がいかに無表情で形式的答弁をくり返しているか、県の役人がいかに国に責任丸投げの地方自治放棄をやっているか――という事実すらまともに報道したことがない。

 

 NHKの1959年の番組『奇病のかげに』では、冒頭水俣病患者が手を震わせながら湯飲みを傾けるシルエットが映るが、それはスタッフが演じたものだと、撮影を目撃した住民がのべている。あるときは興味本位でとりあげ、住民のために真実を報道し続ける意志などはじめからなく、重要な事実は黙殺する。そうした報道姿勢が、住民に信頼されるはずがない。

 

 胎児性患者・諫山孝子さんの父・茂氏は、「最高裁判決が出ても国は守らんのだから、国に“法律を守れ”という資格はあるのか。向こうが頭下げんにゃならんのに、こっちから頭下げて、60年たたかってきてこの程度だ。たたかわなければ水俣病患者はいったいどうなっていたか。私は日本政府の姿をこの目ではっきり見たような感じがする。頼りになる政府ではない」と話す。

 

 同じく胎児性患者・坂本しのぶさんの母・フジエさんはいう。「国も県もチッソも、自分たちが加害者であるという考え方が全然ない。交渉の場で私は、あんたたちは自分を被害者ぐらいに思うとるんじゃないかなといった。お金でかえられるもんじゃなかよ、と。それが50年たっても変わらん」。

 

 原監督は二宮教授と一緒にアクアラングを背負って水俣湾に潜る。有機水銀はヘドロとして水俣湾から不知火海一帯に広がった。1983年からヘドロ処理事業が始まり、とくに濃度が高いエリアは埋め立て地とし、浚渫(しゅんせつ)船でヘドロをこの埋め立て地に吸い上げ、汚染魚はドラム缶にコンクリート詰めにされてその一角に埋められた。そこには「エコパーク水俣」ができたが、今も地下には大量の水銀が蓄積されたままだ。人は死んでも水銀は残っていく。

 

 チッソは石油化学製品に不可欠な中間素材である塩化ビニールを生産する工場で、それに必要なアセトアルデヒドを製造する過程で有機水銀が生まれる。水俣病がわかったときに国は、チッソを倒産させれば高度経済成長にブレーキがかかるとして、チッソと共謀して水俣病を闇に葬り、増産に次ぐ増産で有機水銀を垂れ流し続けた。メディアも医学会もその側に立っていた。アセトアルデヒドの生産を停止したのは、公式確認から12年後だ。

 

 そしてこの体質は、今もまったく変わっていない。福島原発事故で小児甲状腺がんまたはその疑いと診断されたのが266人で、うち222人が甲状腺摘出手術を受けたが、国は被曝との因果関係を認めず、他方で原発再稼働を急いでいる。風力発電の低周波音による健康被害は全国各地で報告されているのに、環境省は因果関係を認めず、政府は全国に風力発電を建てようとしている。福島原発事故を起こした東電の経営陣も、福知山線脱線事故を起こしたJR西日本の経営陣も、最高裁はすべて無罪にした。この映画は、この国が長く抱えてきたそうした膿を観客の前に提示しようとしている。

 

リンク:『水俣曼荼羅』公式HP  劇場情報(上映日程)

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