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福島取材② 富岡、浪江、南相馬の住民に聞く 共同体離散促した棄民政策 特需で潤ったのはゼネコンだけ

 大熊町に隣接する富岡町は、2017年4月に避難指示解除準備区域と居住制限区域が解除となり、現在町内のほとんどの地域が居住制限解除となっている。しかし21年3月1日現在、富岡町に住民登録のある1万2289人のうち、富岡町内に帰還しているのはわずか1585人。富岡町に帰ってこれず、今もなお富岡町外、福島県外に避難し生活を送っている住民が1万700人もいるのだ。

 

 富岡町の復興住宅に住む80代の女性は、現在夫と老犬と暮らしている。「ここが6カ所目の避難場所。でも私が帰る場所は夜ノ森だから」と語る。女性の自宅がある夜ノ森は福島第一原発の立地町である大熊町に隣接しており、いまだ帰還困難区域となっている。夜ノ森の居住制限が解除されるのは23年の4月だという。

 

 「震災当時は数日で家に帰れると思って避難したのに、もう10年も経ってしまった」と話す。原発が爆発した翌日から、保原にある親戚の家に1週間ほど世話になり、その後東京に住む子どもが迎えに来て3カ月間東京に住んでいたが東京での生活に慣れず、いわき市の親戚の家を間借りして住むことになった。しかしその家の子どもが受験生だったため「私たちのせいで失敗でもしたら申し訳ない」と大玉村の仮設住宅に移った。その後、子どもたちも避難しているいわき市に家を買って戻ったものの、「やっぱり富岡に戻りたい」と復興住宅の入居に応募して4年前に戻ってきたという。

 

 震災前は一緒に暮らしていた息子たちはいわき市に家を建て、今は仕事のために富岡町まで通いながら生活している。居住制限が解除されるまでの六年もの間に人々は避難先で生活基盤を立て直し暮らし始めてしまった。富岡町に戻ってくるのはほとんどが高齢者だ。復興住宅に住んでいるのも多くが高齢者で、みんなひっそりと暮らしているため、住民同士が顔を合わせることも少ないという。

 

 女性も長い避難生活のあいだに鬱になってしまい、今でも眠剤を飲まなければ寝られないという。「なぜ私たちがこんな肩身の狭い思いをしなければいけないのだろう。東京にいる間は犬の散歩をしながら“あっちが富岡だよ。帰りたいね”と毎日富岡の方を眺めていた。何度死のうと思ったかわからない。犬を殺して私も死のうと何度も首を絞めようとした。それでも生きていればいつかは帰られると思って生きてきた。夜ノ森に帰ることだけが今の生きる希望だ」と語る。いわきに住んでいたときには「帰還困難区域の人たちは補償金もらえるからいいわよね」といわれたこともあったという。

 

 「たしかに毎月10万円の補償はもらっていた。でも生まれ育った町に10年経ってもいまだに帰ることができない。震災前には大きな家に子どもや孫と七人で暮らしていたのに、家族はみんなばらばらになった。本当は国にも東電にも行政にもいいたいことはいっぱいある。この気持ちは家も土地もとられた人間にしかわからない。こんなに帰りたいのに帰ることができない」と胸の内を語っていた。

 

 福島第一原発のプルサーマルが建設されるときには富岡町でも説明会があり、女性も隣の家の人と一緒に“反対しようね”と出かけた。しかし質問できたのは3人だけで、全部賛成の立場の人だった。しかもなぜか東電の人がその富岡の人の名前を全員知っていたのだという。「当時の町長も東電も、賛成の意見をいった人も全員グルだった。反対の私たちの意見なんか最初から聞くつもりもなかった。原発をつくるときにはいいことしかいわない。町に何億円入るとか、将来の子どもたちのためにも原発が必要だといわれた。図書館も東電の支援でつくられた。でも一度事故が起きてしまうと、みんなふるさとを追われて家族もバラバラで、家に帰ることすらできなくなってしまう。それなのに福島のことはもう忘れられたのか、報道もほとんどされなくなった。綺麗な家ができたってまだ復興なんてしてない」と訴えていた。

 

浪江町 居住者は被災前の7%

 

 双葉町に隣接する浪江町では風向きによって、飯舘村へと繋がる山側へと放射性物質が拡散された。今でも山側は線量が高く、町内の8割は帰還困難区域となったままだ。しかし町の中心地である国道6号線沿いには真新しい道の駅やイオンが建設され、一見復興が進んでいるかのように見えた。ところが一歩中に入って見ると店はほとんど閉まっており、開いているのは建設会社の事業所か社員寮、また作業員を相手にする飲食店が数店あるだけだ。あとはなにもない。空き家と家を崩したあとの空き地が広がっているだけである。

 

空き家と空き地が広がる浪江町中心部

大規模な津波被害を受けた請戸地区の現在(浪江町)

 被災当時、約2万1500人いた人口は現在は1万6681人(住民登録者数)まで減少しており、うち町内の居住者はわずか1579人。20年9月に実施された住民意向調査において、浪江町に「戻りたいと考えている」が10・8%、「まだ判断がつかない」が25・3%、「戻らないと決めている」は半数をこえる54・5%となっている。多くの住民が避難した先で新たに生活を再建し、浪江に戻らないことを決めているのだ。

 

 浪江町の商店で働く女性は去年の2月に浪江に戻ってきたという。「今浪江に戻ってきている人のほとんどが高齢者だ。若い人は放射能の影響もあるし、10年もの間に避難先で生活基盤ができてしまっているから帰ってこない。町内にいる子どもは数えるほどしかいないし、これから先浪江はどうなってしまうのだろうか」と話す。高齢者にしても、町内にデイサービスなどの介護施設がないため、戻りたくても戻れない人が多い。女性の両親も浪江に戻りたがっているが介護施設がないために福島市の施設に入ったままだという。

 

 町役場横にある仮設商業施設「まち・なみ・まるしぇ」もできた当初は10店舗すべてが埋まっていたが、今ではコインランドリーともう2店舗ほどしか開いていない。町に人がいないため買い物に来る人がほとんどおらず、次々に店を閉めてしまったという。

 

 女性は「家を崩すことで一時金が支払われるから、みんな次々に家を崩した。しかし家を崩してしまった人はもう帰る場所がない。家を崩すことで建設会社は仕事が入ってもうかる。今浪江に入っているのは建設会社ばかりで、飲食店もほとんどが作業員を対象にした店だ。今はまだ除染や復興のための工事で作業員がいるが、この復興特需が終わってしまったときに浪江はどうなるのだろうかと不安になる。本当になんにもない町になってしまうのではないか。そのときのことを考えるとぞっとしてしまう」と語った。

 

 浪江町は震災前は漁業も農業も盛んで、双葉郡のなかでも一番活気のある町だったという。それが今では避難指示が解除された地域のなかで一番復興の遅れた町になってしまっている。町は工場や研究施設を誘致して人口を増やす計画のようで、復興の名の下に、現在町内で日産が再エネを利用した無人運転の車を走らせたり、トヨタが浪江の水素実証事業に参入する動きが始まっているという。双葉町と同じように、ここでも復興事業が大企業のおもちゃにされているのを実感した。

 

 女性は「復興事業があまりにも私たちの生活とかけ離れていて違和感を覚えている。結局復興といって建設業も大手だけが仕事を手にして、住民は戻ることもできていない。菅首相も視察に来るというが、この浪江の現実を見て何を思うのだろうか」と話していた。

 

直売所で魚を買う住民(浪江町)

 

南相馬市 誰のせいでこんな目に…

 

 南相馬市では、原発から20㌔圏内だった小高区と原町区の一部に避難指示が出された。16年7月に解除となったものの、避難指示区域内では避難指示が解除された2016年7月に1万749人あった住民登録人口が21年1月末時点で7686人にまで減少している。そのうち居住率は半数の56%だ。

 

 震災後の南相馬市は、廃炉や除染作業のため多くの作業員が全国から集められ「作業員の街」と化した。そのためのホテルなども市内に次々と建設されたが、今は除染作業が落ち着いたためどこのホテルも空室だらけになっている。先月の仕事が7日間しかなかったというダンプカーの運転手もいるという。また作業員の単価が下がっているため、経費を節約するためにホテルでの宿泊をやめ、住民のいなくなった一軒家を借り上げて作業員が数人で暮らしている家が増えてきたと住民は話す。たしかに南相馬に限らず、富岡や楢葉でも他県ナンバーのハイエースが何台も停まっている一軒家を何度も目にした。

 

 原町区に住む男性は「若い世代は南仙台や福島、郡山の方に移って戻ってきていないからどこも人手不足の状態だ。医者もいなくなって、小児科など夜間の診療は隣町まで行かないといけない。放射線技師など放射能の恐ろしさを知っている人ほど山形などまで避難してしまった。道路や建物などハード面での復興は進んでいるかもしれないが、人々がこの地で暮らしていくための復興はまだまだの状態だ。地震と津波だけで、放射能の被害さえなかったら…と何度も考える」と話す。

 

 南相馬市内の除染は終わったというものの、山は除染していないため今でも水道水は飲まない人は多いという。男性自身も地下100㍍の井戸水を使用している。

 

 「知り合いの子どもが東電に勤めていて、震災当時は他の土地で働いていたのだが、原発事故後に呼び戻され、1カ月で200㍉もの放射線を浴びてやめた。結局地元の人間が一番危険な部分で働かされて、もうけている上層部は何の危険もない東京で暮らしている。国や東電は福島がもう安全だというのなら、ここに家族みんなで住んでみろといいたい。ここの水を飲んで、ここの物を食ってみろ。東電はいまだに汚染水を大学などの研究機関に提供しないから汚染水の研究も進まない。それを安全だといって海に放出しようとしている。絶対にトリチウムよりも危険なものが入っている」と憤りを語っていた。

 

 南相馬市内の復興住宅には、双葉、大熊、浪江など、いまだ帰還困難となっている地域の避難者が多く暮らしている。

 

 復興住宅に住む男性は、震災前は浪江町で漁師をしていたという。しかし津波で家も船も流されてしまった。避難した先の新潟で子どもたちと暮らしていたが、墓は浪江にあるため、5年前に福島に戻ってきたという。「震災から10年も経っているから、子どもたちはもう新潟に家を建てて暮らしている。私は浪江の墓に入るために帰ってきた。浪江の家は津波で流され、土地は公園にするために買い上げられてしまったから帰る場所はもうない。死んでからでないと浪江には帰れない」と語る。

 

 自宅のあった場所は17年に避難指示が解除となったため、すでに補償も打ち切られている。「仕事をしないと収入がなく生きていけないから、震災後は漁師をやめていろいろな仕事をしていた。でも今はコロナでその仕事もなくなってしまった。これからどうやって生きていこうか。先が何も見えない」。今も帰宅困難区域となっている場所に自宅のあった友人は、最後に700万円の補償金を渡されて補償は打ち切りとなった。「家も仕事も奪ったくせに、最後は700万だけ渡してあとはどこにでも行けってことだよ」と話す。

 

 復興住宅に入って5年が経過し、すでに空き家も出始めている。同じ団地内で孤独死も出た。男性は「みんなもともとはバラバラの場所に住んでいた人たちだから誰が入っているのかもわからない。東電も国も被災者が死ぬのを待っている。早く死ねばいいと思っているのだろう。被災者が死ねば文句をいう人もいない。死人に口なしだ。原発の廃炉が終わって帰れるようになったころには被災者はみんな死んでるよ」とぶつけようのない怒りを語っていた。 (つづく)

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