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震災10年ルポ 住民還れぬ「新しい街」 大規模公共事業は誰の為? 宮城県牡鹿半島の実情

 石巻市の水産業の取材に続き、同じ市内でも震災からのハード面の復興が遅れていた牡鹿半島の取材に入った。石巻市は震災後、道路や建物などのハード面の復旧は比較的早く進められてきた。しかし市街地と比べると僻地に位置する牡鹿半島では、震災から数年経っても被災してコンクリートがめくれ上がった護岸や、ガラガラに崩れた防潮堤などが被災当時のまま手つかずになっている地域もあり、復旧が遅れていた。その間に人口流出も進んだ。震災から10年を経た現在、牡鹿半島の街や人々の暮らしは「復興」へと向かっているのか…。

 

カキ殻の付着物を除去する作業(石巻市雄勝町水浜)

 牡鹿半島は、石巻湾を囲むように太平洋へと突き出した半島だ。原発立地町である女川町を除いて牡鹿町、北上町、河北町、雄勝町、河南町、桃生町は、2005年に石巻市に吸収合併されている。

 

 半島先端に浮かぶ島、金華山の沖は北からの寒流親潮と南からの暖流黒潮がぶつかる好漁場だ。また、三陸特有のリアス式海岸と多くの島々が点在するこの海域一帯は、陸からも森のミネラルを豊富に含んだ山水が絶えず流れ込んで海の栄養を育み「世界三大漁場」の一つに数えられる。

 

 半島沿岸部には大小の集落が点在しており、その多くがホタテやカキ、ホヤ、ワカメ、銀ザケの養殖など漁業を生業とし、地域の暮らしと海とは切っても切れない強い結びつきがある。

 

 10年前の震災では、この半島部にあるすべての集落が津波によって壊滅的な被害を受けた。狭い湾の入り口から侵入した津波が湾の奥地にある集落に到達すると、集落そのものが津波をせき止める格好となり、そのまま山肌を駆け上がった津波の最大遡上高は20㍍をこえた。


 牡鹿半島北端部に位置する雄勝町では、中心街である雄勝地区には震災前618世帯が暮らし、保育所や小学校、いくつもの商店が立ち並んでいた。しかし津波によって世帯の96%が流され、総合支所や病院、学校などすべての生活施設を失った。その後、浸水地域は災害危険区域に指定され、居住施設の建設を制限する建築規制がしかれた。地元で再起して復興を目指す人々は仮設の商店街を建てたり、その周辺でも八百屋や鉄工所、海産物屋などを構えて営業を再開させてきた。しかし、この地に住むことはできないため、みな仮設や高台住宅、石巻市街地から「職場」である故郷の地に通う生活をよぎなくされた。


 こうした被災後の居住条件は、半島の各地で共通している。震災以降「職住分離」が進み、牡鹿半島にある職場で働く人も石巻市街地に住むようになった。また、漁村に暮らしていた漁業者でさえも住居規制によって家を建てられなくなり「どうせ海から離れるのなら」と便利な市街地へと住まいを移し、子育てをしながら半島の漁村に通うようになったケースも増えている。

 

復興まちづくり事業で造成地にできた新しい街(雄勝町)

 住民が住めなくなった雄勝地区の旧市街地では「雄勝中心部地区 復興まちづくり事業」がスタートした。この事業も岩手県陸前高田市の計画と同様に、壊滅した街全体をかさ上げして、その上に新しい街をつくり上げるというものだ。海抜9・7㍍までかさ上げした土地にグラウンドや体育館を建て、さらに高い16㍍のかさ上げ地に住居施設や商店街などを整備し、その上の20㍍地点に高台住宅団地や雄勝総合支所などを建設するというものだ。4年前にこの地を訪れたときには砂の山の状態だったが、現在は街の整備が進み、雄勝支所の完成も間近に控えている。ほとんど完成した新しい街は、湾の対岸から見ると海や山に囲まれた自然のなかで、巨大な防潮堤に囲まれた要塞都市のようで異質ささえ感じる。


 だが、618世帯あったこの地にできる新たな街に戻ってくるとされる計画戸数はわずか28世帯。計画人口は65人だ。この高台造成された土地以外には住居は建てられない。そして住居が建てられないこの土地を守るために、湾全体を囲むように建設費約130億円を費やして高さ9・7㍍、延長約3・5㌔㍍の巨大防潮堤が建設されている。

 

湾沿いに整備された9・7㍍の巨大防潮堤(雄勝町)

 街の整備事業や防潮堤の建設など、とにかく事業の規模が巨大だ。「復興」といって長い年月をかけて整備をしても、復興事業が長引けば長引くほど人は戻らなくなる。復興事業と住民の暮らしの規模があまりにもかけ離れていて、そのギャップにどうしても違和感を抱いてしまう。


 とりわけ目を引くのが湾に流れ込む大原川の改修工事だ。川沿いには現在一軒も家が建っていない。それなのにもともとその地を流れていた川の河口を潰し、その隣に人口の川をつくって9・7㍍の堤防を整備して元の川と合流させる。2017年に雄勝地域を取材したときにこの川の工事が進められていたが、4年経ってもいまだに工事は完了しておらず、いかに巨大な事業であるかがわかる。

 

何年にもわたって続く大原川の護岸工事(雄勝町)

 雄勝町に住む男性は「どんなに立派な防潮堤が建って、部分的に町並みはきれいになっても、結局住民は戻ってこない。かつて雄勝全体の人口は4300人だったが、いまや1000人ほどになっている。これも住民票を元にした数字なので実際に住んでいる人はもっと少ないだろう。人が戻ってこないのでいつまでたっても“復興”を実感できない。もともと震災直後から人が戻って来にくい規制があり、仮設や復興住宅に入りたくても、罹災証明がなければ住めなかった。結局、住居が余っているのでいまはそうした厳しい条件は取り払われているが、いまとなってはみな各地で新しい生活をスタートさせているので、あえて雄勝に住もうという人もいなくなっている」と話していた。


 別の男性は「震災で家もすべて流され、今後の生活を考えたときに、漁業者ならともかくよほどの理由がなければ石巻市街地など別の街に出て行くことを決断する人も増える。教育や医療などの利便性を考慮すれば、若い人ほど出て行きやすいのは仕方のないことだと思う。ならばなぜそれだけ人口が減ることはわかっていながら、長い時間をかけた大がかりな復興事業が必要なのか。地元に残ったわずかな住民の多くが“いらない”といっているのに巨大な防潮堤を建てて、いったい誰のためにそんなにお金をつぎ込むのか。復旧してもらっていていいにくい部分はあるものの、正直にいうとムダだと思う工事はいくつもある」と複雑な思いを語っていた。


 これまで岩手県と宮城県で被災した沿岸部の取材を進めてきたが、どの街も道路や町並みのハード面の復旧は格段に進んでいる。しかし牡鹿半島の各地域を見て歩くと、10年を経た現在も大がかりな復興事業や、各所での道路工事などが今もって続いており、半島部の先端に近づくほどすれ違う大型ダンプの数も増えていく。


 半島の沿岸部をなぞるように走る道路では、道路工事による通行規制で何度も片側一車線の信号で足止めされる。朝は石巻市街地方面から通い、夕方に帰って行く車が多いため、朝夕の時間帯には信号機で渋滞が発生することも日常茶飯事となっているという。また、車で道路を走っていると防潮堤で海を遮った場所に広い砂の更地となっている場所がいくつもある。ここはかつて漁港があり、そこには漁業を中心とする地域の人々の暮らしがあった場所だ。しかし、いまは浸水地域のほとんどが建築規制下にあり、家が建てられない。住民の多くが外部に流出したうえに、地元に残る人は少し離れた高台に整備された団地に暮らしている。防潮堤と更地だけの土地をいくつも目の当たりにし「この防潮堤は何のためにつくられたのか?」と考えないわけにはいかなかった。


 半島の最先端部に位置する鮎川地区では、今も街中の道路工事が続いており、地元の住民の間でも「この工事が完成したらどんな道ができるのか、今はまだ想像できない」といわれるほど大がかりなものとなっている。


 漁業関係者の男性は「地域住民が本当に望んだ復旧の形なのかは疑問に思う。津波によって被害を受けた公共の建物や護岸などの復旧はすべて“原型復旧”が基本となるため、すでに人口も少なくなっていて“必要ない”と地元から声が上がっても、実情に合わせて元の規模よりも縮小するようなことはなく、むしろ大規模につくりかえることの方が多かった。防潮堤の建設の話にすべて集約されると思うが、高さ9・7㍍の巨大な防潮堤を地元の誰が望んだのか? どんなに小さな港でも、家も建てられない浸水地域を守るために防潮堤を建てていったい何になるのか? みんなに“牡鹿半島に住んでください”といって人を呼び込むわけでもなく街の規模は縮小していくばかりなのに、復旧工事への税金の投入は惜しまず手厚い。いったい誰のため、何のための復興なのかと思ってしまう」と話していた。

 

生業あってこその復興 協同強める生産者

 

カキの出荷作業(雄勝町水浜)

 「仕事がなければ人も住まない。高台の住居が整備され、被災しても地元に残って暮らしたい人たちが戻ってきた。そういう人たちが働いて暮らしていける場をつくらないといけない。“復興、復興”といいながら、雇用の場は積極的に創出されてこなかった。これからの一番の課題は暮らしと職場だ」と話すのは雄勝町水浜地区の漁師、伊藤浩光さん。現在伊藤さんはカキやホタテなどの養殖をおこないながら加工や流通・販売、飲食店までを担う会社を経営している。地元の他の養殖漁師からもカキを買い受け、自社加工場で選別や箱詰め、蒸し加工などをおこない、協同で出荷している。


 作業場では、朝水揚げしたカキの殻を従業員が磨いていた。さらに流れ作業で選別機にかけてサイズ分けし、殻が開いて生で売れないものは蒸しガキに加工し、良い物はすぐに出荷用の発泡スチロールに箱詰めしていく。インターネット販売での注文も受け付けており、浜ですべての作業を一括して迅速におこなえるため全国からの注文にも新鮮な生食用として出荷対応することができるのだ。


 浜には社員寮も建設し、働きたい人が暮らしやすい環境も整備した。また、仙台市内にもオイスターバーを開店している。飲食店として経営する傍ら、その日の朝にとれたカキなどを市内の居酒屋をはじめとした飲食店の仕入れにも対応している。さらに飲食店への配送や個人宅への宅配もおこなっており、石巻漁港で鮮魚を扱っている問屋やその他の加工業者とも協力して、カキだけでなく他の会社が扱っている水産物も自社のトラックに混載し、協同で配送をおこなっている。


 伊藤さんは「震災を契機に、自分だけ良い思いをするような商売をやっていても何のためにもならないし限界があると考えた。漁業者自身が地元の水産業関係者と協力しあって流通・販売まで担うことで、余計な業者を挟まず、新鮮な水産物を安く提供することができる。すると地元の商品が地元で流通しやすくなるので、同じ思いを持った加工業者などとも関係がより広がった。みんなが一緒に協力し、地域の水産関係者みんなが利益を高め合っていくことができれば、それこそが復興へとつながると信じている」と話していた。

 

被災地は飾り物ではない 置き去りの住民生活

 

 海とともに生きてきたこの土地で、人々は再び水産業を基礎にした復興を目指している。10年前の震災によって壊滅した故郷は、浸水地域の建築規制や長期間にわたる道路等のインフラ工事、大規模な防潮堤や造成工事など、地元が望んだものとは必ずしも一致しない形で「復旧」へと向かっている。地域を見て歩き、そこに暮らす人々の思いに触れるなかで、復旧事業には国をはじめ巨大な力が働き「必要ない」と声を上げたい思いがありながらもその声を束ねる住民組織はなく、地元が求める復興の形を具体的に形にしていくエネルギーも時間の経過とともに削がれていく……。そんななかで遅々として進まない工事を見ていることしかできないもどかしさを感じた。


 そんな閉塞感を表すように、ある男性は「被災地の復興は10年経った現在も成し遂げられてはいない。被災地に住んでいる私たちからするとどこを見て“復興”といえるのかと思う。建物や道路の復興か? それすらもまだ終わっていない。オリンピックが東京で開催されることが決まると、“復興五輪”といわれてきた。しかし最近はコロナによる苦難が全国に広がると、“コロナに打ち勝ってオリンピック開催を”といわれるようになり、表向きのキャッチフレーズだけの“震災復興”すら置き去りになっている。被災地ではこれから先も厳しい状況が続くし、それは5年経っても10年経っても同じだと思う」と話していた。


 東北地方の被災地では、「震災復興」といいながら、地元住民にはどうしようもないところで住民の生活や街のあり方などを度外視した計画が進められてきた。その規模の大小を問わず、あらゆる地域で矛盾を感じている人々が圧倒的に多い。今回の被災地10年の取材でたくさんの人々の経験や思いに触れるなかで、とくに強く感じたことだ。


 今回の取材で最後に訪れた牡鹿半島では、その矛盾がとくに色濃く映し出されていると感じた。被災から10年を経た今日、現地の人々は改めてこの10年で進められてきた復興が「誰のため、何のため」だったのかを静かに見つめ直している。

 

整備作業が完了していない集落も(桃浦地区)

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