新型コロナウイルスのワクチンの開発競争が熾烈になっており、多国籍製薬メーカーが完成を宣言して、イギリスでは早くも接種を開始するという慌ただしい動きになっている。この状況を見ながら、二つの懸念を言っておきたい。
一つは、誰もが心配するように、ワクチンの拙速な開発競争のため安全性を確かめる実験が手抜きになり、思いがけない副反応で犠牲者が出ないかという問題である。ワクチンは、これまでは、病原性を弱めた(不活性化した)ウイルスや細菌(これを「抗原」という)を摂取し、体内で抗原を攻撃する「抗体」を作らせることによって免疫力を強化して体を守るという処方のことである。
昔から、天然痘(疱瘡)に一度かかると免疫ができて二度と感染しないことが知られており、乾燥させて毒性を弱めた天然痘のかさぶたを植え付けて人為的に感染させるという療法があった。ワクチンの原型である。しかし、発病して亡くなる人も多くいて、本格的な治療法にはならなかった。18世紀後半に、牛の病気である牛痘に感染した者は天然痘にかかりにくいことが経験的に知られるようになった。これに目を付けたのがジェンナーで、1796年に8歳の少年に牛痘の膿を植え付けると、その後天然痘の膿を接種しても発病しないことを示した。ワクチンとして牛痘の膿を使用して有効性が確かめられたわけで、最初のワクチン療法と言える。
しかし、その他の病気に対するワクチンの開発には80年余りの時間が必要であった。ようやく1879年になって、パスツールが病原体(ニワトリコレラ菌)を培養して弱毒化し、それを接種すれば感染症を抑えられる科学的ワクチンを完成させたのだ。それ以来、細菌・ウイルスを問わず、ワクチン療法が確立したのである。
ところが、今、多国籍製薬メーカーが開発に成功したと称するワクチンは、近年のバイオテクノロジーの応用で従来の処方とは異なっている。ワクチンを通じて体内に遺伝子を入れ、その働きによって抗原を作らせるというもので「新型バイオワクチン」と呼ばれている。そうして作られた抗原が抗体作成を誘発して免疫力を高めるというもので、いわば人間の体内で遺伝子反応を行わせるのである。さて、この新技術が予期しない深刻な副反応を起こさないのか、それが懸念される問題点の一つである。
物理学者の寺田寅彦が「コレラの予防注射」という作品を書いている。大正5年(1916年)にコレラが流行ったとき、「ワクチンとかいう予防注射が発明されて我も我もと注射をした」そうだが、「私はお断りして受けなかった」とある。彼は、「注射液はまだ発明されたばかりのものである。たとえそれがこれらの予防にどれほど著しい効き目があると分かったとしても、私はまだなるべく御免をこうむるつもりである」と、注射液(ワクチン)の効能があるとわかっても拒否すると言うのである。
その理由は、「発明されたばかりの注射液が、長い年月の間に思いがけない禍を起こさぬという証明は付けられまい」と言うように副反応の危険性であり、「限られた条件のもとに、限られた時と場所の範囲でした実験の結果を、何の条件もなしに手放しで応用するのは恐ろしいことである」と言っている。彼は科学者であるが故に、むしろ科学の成果が絶対の「真(まこと)」であるかどうかを疑っているのである。この科学に対する懐疑主義こそ、現在にも求められる大事な心得ではないだろうか。
もう一つ気になる問題点は、多国籍製薬メーカーは作り上げたワクチンで特許を取り、その特許料で儲けようとすることである。莫大な開発費をかけたのだから、特許で稼ぐのは当然のように思うのが普通だろう。しかし、特許料が払えないでワクチン接種ができない国々(人々)を見捨てるのかという問題が生じることになる。かつてエイズが広がったとき、エイズ治療薬が発明されて発病を大幅に遅らせるのに成功した。ところが、エイズが蔓延していたアフリカの貧困国では治療薬の特許料が払えず、みすみす平均寿命が40歳以下で死を迎えねばならなかった。そのとき、特許料を免除して薬が安く手に入るような人道的な措置を採るべきだと働きかけたのが、南アフリカの故マンデラ大統領だった。長い交渉の末、ジェネリック(後発)薬品として安く薬を生産する方式が認められたのである。それによって、アフリカのエイズ感染の拡大をなんとか抑え込むことができたという。
それと同じ措置を今回の新型ウイルスのワクチンにも適用すべきではないか。ワクチン接種ができる豊かな先進国の人々のみが生き残れるわけではない。特許料が払えずワクチン未接種の人々が取り残される国があれば、おそらくそこからパンデミックが何度も繰り返されることになるのは確実である。世界全体が新型ウイルスと共生するためには、特許料免除の措置が絶対に必要なことなのである。コロナウイルスは自国第一主義ではなく、地球人が一体となって対処しなければならないことを物語っていると言えよう。
(軍学共同反対連絡会共同代表)