東日本大震災と福島第1原発の大事故からもうすぐ1年を迎えようとしているなか、本紙記者は東北現地取材に入っている。福島県内や宮城県石巻市などから第一報を紹介する。
福島県
地震、津波に加えて放射能汚染という三重苦に襲われた福島県内では、中心産業である農業の再生に向けて下からの懸命な努力が続けられている。昨年12月、食品に含まれる放射性物質についての政府の暫定基準値が1㌔㌘あたり500ベクレルから100ベクレルへと引き下げられるなど厳格化が強められるなかで、福島県内では米の作付け制限の対象地域が拡大したのをはじめ、わさび、柚、キノコ類、キウイなど幅広い品目で出荷制限が続いている。月日の経過につれて回復に向かうべきところが、逆に深刻度が増していくという異常な事態。復興の見通しをまったく示さない政府とは対照的に「福島の農業を潰すな!」という生産者の粘り強い復活への努力がおこなわれている。
福島県の特産である桃やリンゴ、サクランボなどの広大な果樹園が広がる福島市飯坂町では、農家による除染作業がおこなわれている。昨年は、放射性物質は基準値以下であったにもかかわらず風評被害によって果物の価格は例年の10分の1にまで暴落。微量でも放射性物質が検出されたことで買い手が付かなかったことから、専門家による検証がおこなわれ、空気中の放射性物質が葉や果実に付着したことが原因とされたため、木の表皮をはぎとり、高圧洗浄機で1本ずつ洗い流す作業を集団的におこなっている。
70代の果樹農家の男性は、「国のやることはすべてが中途半端で、復興に向けた道筋がまったく見えてこない。農家が自分たちの手でできることをやっていこうと話し合い、どの家の果樹園も力を合わせて共同で除染作業をやることにした。果樹が終われば、田んぼの除染もやっていく。福島県産の作物について、政府は危ないということしかいわず、マスコミがそれを煽る。昨年までの安全基準も覆し、ならば安全ラインはどこなのかといっても返事はうやむやで、ますます消費者の不安を増幅させている」と憤りを語る。「除染をしろ」というが落とした枝やはぎ取った土は「畑の外に出すな」といわれ「本当に解決させる気があるのか」との疑問は絶えない。
「果物栽培は、たとえ売れなくても毎年剪定(せんてい)をして日光に当ててやらなければ、花が少なくなり、実が育たなくなる。水田も同じように1年作らなければ土地は痩せていく。毎日のようにテレビで放射能の恐怖が騒がれて、子どものいる家庭は水を買いだめし、野菜などの食品は県外からとり寄せる。このままでは福島の農業が潰れてしまうという危機感をみんなが持っている。昨年は、直売所が立ち並ぶフルーツラインでも売り上げは例年の1割。毎年6月はサクランボを買いにくる客で渋滞するほど賑わっていたが、昨年はガラガラだった。東電からの価格補償でなんとか乗り切ったが、それも今年はどうなるかわからない。でも、補償金だけを頼りにブラブラしていたら人間がダメになっていく。みんなが結束して今年はだれからも認められる安全な果物を胸を張って売ろうと語り合っている」と話した。
「諦めない」と意気込み 全国の支援支えに
800本以上の果樹を育てる40代の男性農業者は、「昨年は、桃もリンゴも100ベクレル以下で安全値をクリアしているのにまるで買い手が付かなかった。作物が農協に集中し、イオンなどの大型スーパーから買い叩かれて8㌔㌘あたり2000~1000円だった桃の価格が200~300円まで落ちた。イオンは中国の青島店でも“福島県産は扱っていません”の看板まで出していた。東京あたりからは“汚染されたものを売っている農家は犯罪者”のようにいわれたり、福島県は人が住むところではないという風潮もあるが、自分たちは福島で生活して生きていかなければいけない。この地域は若い農家も多く、諦めるという人は一人もいない。秋の収穫時にならないと結果はわからないが、あらゆる手段を使って信頼を回復させたい」と語気を強めた。
また、「福島市近郊は農業が成り立たなければ、他の商売も廃れていく。自分たちだけの問題ではない。昨年は全国の“福島がんばれ”という支援に支えられたが、年月が経つにつれてそれも途絶えてくる。目前の生活のことよりも、子どもたちに将来農業を続けることができる環境を作ってやれるかどうかが自分たちの正念場だ」と話した。
直販所を経営する農家の男性は、「国は果てしもなく“不安”を一人歩きさせている。政府は原発の安全宣言は真っ先にやったのに、農作物には規制を強めて混乱を長引かせている。昨年は全国の人からの励ましがあり、赤字を出しながらも乗り越えることができ、これほどお客さんの大事さを実感したことはない。広島のお客から“自分は原爆で被爆し、爆心地から3㌔以内で生活し続けても元気に生きている。だから福島も絶対に復興できるから頑張れ”と手紙をもらったことも忘れられない。その信頼を裏切らないためにも、自分たちは安全なものしか出荷しない。福島の農業が潰れることの方が大変なことだ」と語り、「農家が一丸となって安全性にとりくんでいることを伝えて欲しい」と訴えていた。
県内では、原発事故後の原乳や野菜の廃棄処分、夏には肉牛、秋にはコメが出荷停止になった。今でもコメは一般の流通が止まった状態で、直売所で細細と売られている程度。「販売量は例年の3分の1。JAの倉庫には福島県産のコメが大量に山積みされている」といわれ、政府の基準値の引き下げによって出荷停止は12市町村56地区に広がるなど深刻な事態へ追いやられている。営営と育まれてきた県内農業が苦境に立たされる一方で、「行政が土地を借り上げて企業を参入させ、収益性の高い大規模農業を展開するべき」などの提言が煽られていることにも警戒心が高まっている。
また、福島市には、原発のある浜通り地域から多くの避難者が仮設住宅で生活を送っている。警戒区域内の浪江町から約200世帯が暮らす福島市北幹線第一仮設住宅では、高齢者を中心に約八カ月間の避難生活が続いている。
自宅を津波で失い、長男を亡くした80代の婦人は、「ここでは1年経っても復興とは名ばかりの旧態依然の見通しが立たない生活が続いている。なんの情報もないまま“とにかく避難せよ”といって着の身着のままで町を出てから1年たったが、この先のことがまったくわからない。若い人は働く場所がないので県外に出て行き、私の家族も嫁は日立市、孫は水戸にいくなどバラバラになっている。避難者には農家が多く、これまで毎日農作業をするのがあたりまえだったのになにもせずただ毎日を送っているから、生きる喜びを失って精神を病んだり、体調を崩して亡くなっていく人が絶えない。10月に一時帰宅したときは、家は泥の中に埋まり、残った家にも草が生い茂って野放しにされた牛や豚の小屋のようになっていた。私たち高齢者が動かなければだれも故郷を再生できる人はいないし、働く場を求めている人は多い。時間が経てば経つほど町は荒れていく。早く復興に向けた方向性を出すべきだと思う」と胸の内を語っていた。農漁業を中心にした地域コミュニティーの再建を願う声は鬱積しており、政府の意図的な離散政策に対する県民の抵抗は至るところで脈打っている。
石巻市 復旧進まず住民苛立ち 建築規制かけ放置
東日本大震災からもうじき1年を迎えるというのに、被災地では復興どころか復旧すらまともに動いていない現実に対して、住民の苛立ちが高まっている。まだまだ続くであろう復興の道のりの険しさをだれもが感じているが、津波に押し流された故郷が1年も放置され続けている異常さに加えて、“高台移転”といって行政が元々住んでいた場所から住民を追い出しにかかっていることが問題になっている。
石巻市では昨年末、建築規制がかかっていた地域に住んでいた住民に対して、集団移転の計画が行政から告げられた。震災後は崩壊した家屋のリフォームや改築などに手を付けることは固く禁じられ、「次の都市計画が策定されるまでは勝手なことはしてはならない」と規制されてきた地域だ。石巻港の工業地帯の後背地にあたる南浜地区(住宅街)もその対象で、新たな復興計画は、広大な住宅地を市が買いとり海浜公園にする内容だった。地権者と行政の話し合いが何度ももたれてきたものの、住民たちの「元の場所に住みたい」という強い要望と、集団移転させなければ国から復興予算をもらえない基礎自治体の願望がかみ合わず、平行線が続いてきた。
住民の一人は、「人生のすべてを注ぎ込んで作ってきた生活基盤が、どうして公園にされなければならないのか。公園としてしばらくは遊ばせておいて、そのうちだれかの土地になるのではないかと勘ぐってしまう。買いとり価格もはっきりとした数字が示されないのでどうしようもないが、浸水地の土地は暴落しているので、次の生活を成り立たせていくための資金にすらならないのでは…。だれもが仕事も全財産も家族までも失って、次の生活基盤のメドすら立たないのに、この土地を出ていくことだけが急がれるのはどうしてでしょうか?」と納得がいかない表情で疑問をぶつけていた。
住民のなかでも集団移転をよしとする側と、元の場所に戻りたいと願っている側の意見があり「ほとんどの人が“元の場所に戻りたい”と思っているが、こんなときに住民同士で感情的なぶつかりをしなければならないのが辛い…」と胸の内が語られていた。
60代の男性住民は、仙台市の若林区でも行政が“集団移転”で住民の立ち退きを求める動きがあり、それに対して「元の場所に戻りたい」と抵抗する運動が起きていること、石巻に限ったことではないのだと指摘していた。
震災から1年が経過したなかで、「東洋一の漁港」を誇った石巻市でも、漁港一帯はいまだに十分な復旧が進んでいない。水産市場の岸壁はコンクリートでかさ上げが施され、仮設の出荷施設もでき上がった。しかし後背地の水産加工団地は資本力の乏しい地元企業群は立ち上がるための糧がなく、如何ともし難い状況に頭を抱えている。もっぱら更地化が進められているのが特徴で、以前と比べて崩れかかった工場群が解体され、砂利を敷き詰めた更地が増えている。
建築規制が加わってきた住宅地では、ゼネコンが動員した全国の土建業者が更地化のために連日働いている。長野県から応援に来たという企業の男性は、「石巻地域は鹿島建設や清水、若築などのJVが請け負った。私らのような3次下請、4次下請も駆けつけて去年から作業にあたっている。ホテル住まいでは資金がもたないので、今は民家を借り上げて何人かが一緒に暮らしながら働いている」といった。
ゼネコン担当者の指示によって毎日作業現場が異なること、「元の場所で暮らしたい」という住民も「市に買いとってもらってよそに移り住みたい」という住民も土地の境界線にこだわるため、地権者の要望に添って住宅の基礎部分の周囲のコンクリート部分だけを残して「○○さんの土地」とわかりやすくしたり、細かい仕事なのだと語っていた。整地された土地はまだ少なく、「いつまでかかるんだろうか…」と辺りを眺めた。
「12月に失業保険が切れて、復興作業に地元の人たちも働きに出てくるかと期待していた。しかし3カ月延長になった。保険金が入ったり義援金が入ったりで余裕のある人もいるが、やっぱり人間は働かないとダメになってしまう。それだけが心配だ。被災した人人のために私らも役に立てたら本望で、土建屋として重機を動かしたりできる限りのことをしたい。しかしこのままでいいのだろうか? と感じる部分もある。仕事を作ってあげることと、働いて生きていく環境を早く整備することこそ政治の役割ではないか?」といった。
住宅地が放置され続けている一方で、石巻の代表的企業である日本製紙石巻工場は早期に復旧を遂げ、辺り一面更地に囲まれた工場の煙突からはモクモクと煙が吹き上がっていた。