東日本大震災から1年がたつなかで、被災地では復興どころか復旧すらまともに進まない現実に、みなが異様さを感じ始めている。「なぜこれほど復興が遅れるのか?」「規制ばかりかけてなにもさせないのか」とどこでも語られている。何万人もの住民が将来のメドが立たないまま道路沿いの空き地や学校グラウンドで仮設住宅暮らしを続け、仕事もなく7万~10万円程度の失業手当もそろそろ期限が切れ始めている。どの町でも40代以下の働き盛りの世代を中心とした人口流出が深刻で、住む場所も働く場所もない放置された被災地から次次と離散する流れが加速している。三陸沿岸に元元あった産業や住民生活の立て直しが置き去りにされる一方で、新たな街作りには総合商社やコンサルタント、ゼネコンが知らぬ間に入り込み、大手ハウスメーカーは幟を立てて営業活動ではしゃぎ、彼らが土地囲い込みや復興ビジネスに熱を上げている姿も浮き彫りになっている。だれのための復興なのかが鋭い矛盾になっている。
石巻 建築規制で住居復旧できず
人口流出が宮城県内でもっともひどいのが石巻市で、震災後に5600人も減少した。市は昨年末に「世界の復興モデル都市にする」といって復興基本計画を発表。津波に襲われた石巻港の後背地にあたる住宅地の真ん中に海抜五㍍の高盛土道路をつくり、海側半分を産業用地として提供することを明らかにした。そこに住んでいた住民たちは、数㌔離れた内陸部の三陸自動車道沿線に集団移転(2000戸)させるというものだった。
震災後、この地域は208㌶に建築制限がかかり、住民はリフォームにも安易に手をつけられなかった。「区画整理の阻害物になれば、いずれ撤去をお願いするかもしれませんよ」と役所からいわれ、それなら住宅移転の原資になる被災住宅地の買いとり価格はいくらか尋ねても「公示価格がはっきりしない」といわれ、算盤勘定すらできない。住民たちのなかでは「浸水地を理由にして五~六割は確実に地価が暴落している」と話され、二束三文で買いたたかれることが懸念されていた。
石巻市の復興計画では、北上川と日本製紙工場に挟まれた日和山のふもとに位置する南浜地区226㌶は海浜公園にし、石巻漁港の背後に位置する湊地区も半分を産業用地として提供し、住民は山側に500戸集団移転させるとした。広大な平地が「産業用地」となって企業群に開放され、そこにどのような企業が進出してくるのかは明らかになっていない。
水産業が基幹産業だった石巻では、相変わらず水産加工団地の復旧も困難を極めている。自腹で工場再建にとりくんできた企業関係者の男性は、製造ラインは2割程度しか戻せていないが、一歩でも二歩でもとり戻していくしかないのだと厳しい表情で話していた。二重ローンの問題も金融機関が企業の債権を買い取る方式が導入されたが、審査が厳しすぎて飾り物にしかなっていない。グループ化補助金を申請しても「八割くらいは採択されない」といわれ、多くが書類ごとはねつけられているといった。
「石巻の水産加工は切り身やすり身など付加価値が低い第一次加工が中心。取引先の量販店やメーカーからすると“一次加工ならどこでもできる”という本音があって、石巻の企業から離れていくのが心配だ。震災で失った取引関係が、復旧したからといって戻ってくるとは限らない。もともと低価格要求がひどくて利益は少ない業態だった」と語り、震災以前から決して経営は楽ではなかったことを明かしていた。
更地化が進む水産加工団地では、操業再開にこぎつけた企業は数えるほどしかいない。水産市場は応急処置でビニール製テントのような建物が建てられ、水揚げを再開しているが、トロール船などが獲ってきた魚を冷凍処理したり、加工したり、運搬、製氷など連なった産業がみな復活を遂げなければ、かつてのような状態には戻りようがない。
さらに、みなが四苦八苦していた年末、水産関係者にトドメを刺すような衝撃が走った。厚生労働省が食品に含まれる放射性物質の基準値を1㌔あたり500ベクレルだったのから100ベクレルへと切り下げ、4月1日から厳しい新基準を適用すると発表したことだった。震災後、石巻港では1日あたり10個体を放射能検査に回し、100ベクレルをこえる魚は一度も水揚げされていない。500ベクレル基準であれば何ら問題はなかったが、100ベクレル基準となると50ベクレルをこえる個体についてはゲルマニウム検査(精密検査)に回さなければならず、4月からは検査機器も増やすことになった。
「せっかく前が見えてきたと思っていた矢先に、目の前が真っ暗になった…」と水産行政関係者は悲痛な面持ちで頭を抱えていた。加工品は目方分量が4分の1に圧縮されるため、完成した製品から25ベクレルをこえる放射性物質が検出されると、100ベクレル基準に引っかかる。「3月31日まで問題なかったものが、4月1日からはダメになる。欧米と比べても厳しすぎる数値で、しかも科学的知見で人体への影響が証明されているわけでもない。どうしてこのような基準が出てくるのだろうか…。漁港は待っていれば整う。船もいずれ手に入る。しかし放射能だけはどうにもならない。一度水揚げされたらレッテルが貼られて、石巻の水産業が死んでしまう…」と不安を打ち明けた。100ベクレル・ショックが新たな復興の障害物になっていた。
本来この時期の春漁では福島沖から北上してくるメロード(いかなごの成魚)漁が盛んだが、今年は漁業者が自粛を決定した。3月15日解禁になるイサダ漁(養殖の餌になる角なしオキアミ)は北から下りてくる魚種なので、そのままおこなうことになっている。仙台湾に沸くコウナゴをすくってくるかどうかが懸案事項になっていた。すべて放射性物質の影響を考えながらの操業になっている。
トロール船に乗っている漁業者の男性は「陸と違って海のホットスポットは漂流している。トロールをかけても海底の瓦礫ばかりが引っかかって漁にならない。前日綺麗にしたはずの海底から、翌日も大量の瓦礫が上がったりで、放射性物質も瓦礫も潮の流れで動き続けているんだ。津波だけならまだしも、原発が東北をむちゃくちゃにする」と怒りをぶつけた。
牡鹿・雄勝 復旧遅れる沿岸の集落
石巻や気仙沼のような都市部以上に復旧が遅れているのが半島部や沿岸の集落だ。人っ子一人いない地域ばかりで、不気味な静寂のなかで瓦礫撤去の工事車両が数台動いている程度のところが多い。遠く離れた仮設住宅に住民は追い出してしまっている。建築規制がかかっている石巻市雄勝では、辺り一面が瓦礫や更地と化した風景のなかで、70代の漁業夫婦がせっせと魚の処理をしていた。自宅を再建したいものの「手を付けてはならぬ」と規制され、「プレハブならば許可する」といわれて木材やトタンをホームセンターで仕入れ、手作りの小屋をつくっていた。基礎がむき出しになった土地や瓦礫に囲まれ、建物といえば広い町のなかで大漁旗を掲げたこの夫婦の小屋がぽつんとあるだけだ。
毎日仮設住宅から通って沖に出て、刺し網でアイナメやカレイをとってくる。震災後にお爺さんが拾い集めた漁具を大切に使い回していた。「ホタテの養殖など協同化には補助金が出るけれど、私らのような漁船漁業にはなにもないといわれた。震災前は市場に出荷していたが、どこの市場も水揚げが再開されないから小売りで売りさばくしかない。あとは仮設の人たちに分けている」と話していた。骨病みになったり、気が滅入って体調を崩す人も仮設住宅には多い。「人間から仕事を奪ったらろくなことはない。隣の女川の漁師たちも拠点港から漏れているけど、みんなで操業を開始した。この浜では今のところ私たちだけだが、震災後はしばらく恐ろしかった海に出てみて、やっぱりこれしかないと思ったんです」と話していた。
老夫婦が孤軍奮斗しているのに元気付けられ、近所に暮らしていた人たちも仮設住宅から車を走らせて魚を買い付けにくる。「いつになったら復興するんだかね…。復興、復興というばっかりでなんも変わらない。雄勝は4300人いた人口が1000人まで減った。みんなバラバラになって連絡すらつかない。いつ戻ってきても瓦礫の光景が変わらず、高台移転といわれても高台の場所すらはっきりしない」と魚を買いに来た婦人は老夫婦に語っていた。先行きがまったくはっきりしないことへの不安も口にしていた。
宮城県では村井知事が漁港集約を打ち出し、142港あるうちの60港を拠点港に選定し、残りの82港は切り捨てる方針が示されている。ただ、選定外の小さな漁港でも「牡蠣の処理場をつくろう!」と漁業者が行政に掛け合うなど、意欲的な動きを見せていた。「集約したら効率化になるかというと、そんな単純なことではないと思う。やる気のある後継者がいるのに、“拠点港から漏れたからダメだ”というのは水産行政ではない。例え10人を下回っている浜であっても、競争関係にあった隣の浜に混ぜてもらって協同化するのは現実的ではないし、うまくいくはずがない。沿岸漁業は効率・非効率のものさしで判断すべきものではない」と基礎自治体の担当者も、意欲を持っている若手後継者の姿を見ながら、集約化の方向を疑問視していた。
気仙沼 加工場復活も規制が壁
気仙沼では震災後、6月のカツオ漁までになんとしても水産市場を復活させるのだと懸命なとりくみが進められてきた。復興の狼煙をいち早く上げ、水産都市としての根性が他地域を激励していた。ところが、1年たってみると被災した278工場のうち、再開したのは66工場。再開率24%は宮城県内でも最低だった。ここでも水産加工団地の建築制限が大きなネックとなって、企業が地力再建したくてもできない状況に直面していた。なにかしようとすると、必ず行政側から「待った」がかかり、かといって土地利用の新しい方針も示されないまま、野ざらしの状態が続いている。
水産加工関係者の一人は、「建築制限が解かれず、“区画整理をして一から街作りをする”と行政はいうが、なにも出てこない。仲間が自費で工場を修理しようとかけあったが、“区画整理の案がまだ決まっていない。もし障害物になったら撤去してもらうことになる可能性もある”といわれて断念した。待っただけかけて、土地のかさ上げすらしない。だからいまだに満潮になると冠水する。何兆円と復興予算が国会を通過しているのに、いったいどこにそのお金は消えているのか!」と語っていた。
同じく水産加工関係の男性は、建築規制に嫌気がさして隣接の岩手県陸前高田市(同じ被災地だが建築規制がない)や内陸の室根に工場を移す経営者も出てきているが、県外扱いになったことで、復興関連の補助金を受けられないなど様様な問題が生じていることを話していた。県外移転の前に気仙沼市内で土地を探したが、浸水していない土地は従来の2~3倍に地価が上昇して手が出なかったことも語った。
市場関係者のなかでは、気仙沼の水揚げの主力であるサンマやサメは、出荷するためには加工が不可欠なのに、加工場が復旧していないので船が入港せず、昨年は例年の4分の1に水揚げが落ちたこと、「加工場が息を吹き返さないと気仙沼は蘇らない。市場も買い手がいなくなる」と危機感が語られていた。
また、1年間地盤沈下した土地が放置され続け、復興への歩みがトーンダウンしているとみなが感じ始めていた昨年末、大手総合商社の住友商事と三井物産が新たに水産加工団地を作る計画をブチ上げ、被災企業を傘下に従える形で事業協同組合を立ち上げることを発表した。1月末には非公開で企業への説明会が開かれ、二つの総合商社と県、市、地元商工会議所が官民連携で全国初のとりくみを進めるのだと説明。「従来の気仙沼水産業に戻るのではダメで輸出産業に対応した高度化を進める」、「気仙沼が浮上する最後のチャンスだ」というものだった。
企業関係者の一人は「商社がボランティアで水産加工団地をつくるわけがない。どのような形で関与するのかわからないが、更地の買い上げに資本を拠出すれば商社の持ち分にもなるだろうし、グローバルな水産都市といって外国人労働者を雇うような形態になるのだろうか…。漁港集約も商社目線で見たら合点がいく。手間をかけずに集約できるからだ。しかしそれでは気仙沼が気仙沼でなくなってしまうし、三陸沿岸はやっていけなくなる」と問題意識を語っていた。
「ダメだ」「待て」と規制ばかり加わり、明らかに土地囲い込みの動きが起きている。住民は基礎自治体に、各自治体は県や国によって手足を縛られ、予算や許認可を握られて身動きがつかない。人口流出や離散が深刻さを増す中で、「素晴らしい街作りのグランドデザイン」「世界のモデル都市」「エコでバイオマスな環境都市」といった構想が雲の上を踊っている。そして、肝心な更地にはだれもいないのである。
福島 放射能騒ぎが足かせ 離散促す国に怒り
3月11日、被災各県では2万人に及ぶ死者・行方不明者を前に復興にかける厳粛な決意を固めていた。だが、福島県内では、生き残った人たちの懸命な努力を踏みにじるように福島第一原発事故による放射能騒動が時間を経るにつれて拡大し、身動きのとれない状態に縛り付けている。家族離散、地域コミュニティーの崩壊、要である農漁業などの産業が成り立たず、生き残った人人でさえ生きることが許されないような非情な事態に憤りは強く、その背後で動く大企業、外資優遇の復興ビジネスに怒りが高まっている。
津波と地震に見舞われながら、その後の原発事故で警戒区域(20㌔圏内)、計画的避難区域(年間20㍉シーベルト以上)、緊急時避難準備区域とその他に4分割された南相馬市(人口約6万6000人)では、一時は避難で1万人規模にまで減った人口が4万3000人にまで戻り、復興に向けた努力が進められている。
シャッター通りだった商店街では大部分の店が開きはじめ、2月には原町区で小中学校が元の校舎に復帰した。だが、年配者は帰ってくるものの子どもや親世代は依然として市外での避難生活が大半で、市内で働く夫を残して妻や子どもは市外や県外で暮らす離散状態も多い。
テレビなどのメディアを通じて放射能の危険性が毎日のように煽られるなかで、子どもへの影響を不安視して若い人が戻らないうえに、農作物の放射線量の基準値が100ベクレル以下に厳格化されるなかで農業などの産業も成り立たず、全市的な「失業状態」が蔓延していることが問題になっている。
父親とともに魚屋を営む男性は、「昨年3月14日に福島原発3号機が爆発し、一時は県外に避難したが、次第に放射線量が低いことがわかってきたし、お客さんからも“いつはじめるのか”という声がかかったので五月から店を再開した。妻と子どもは埼玉や仙台へ避難しているので、週末に往復六時間以上かけて家族に会いに行っている。だが、再開したものの売り上げは例年の半分。しかも、福島県内の漁業は全面的な漁自粛で魚が入らず、中通りの郡山から仕入れるという状態。放射能による食品規制が足かせになっているが、低線量でみんながガンになるわけではない。政府の方針を待っていたら、南相馬からはだれ一人いなくなってしまう」と語気を強めた。
警戒区域近くで飲食店を経営する男性は、「地元企業として逃げずに地域のために続ける」と決意して4月から店を開けているものの「10カ月で300万円の赤字」と明かした。事故後、来客数は4分の1に減り、「常連客に支えられてふんばっている状態。年配者が逃げずに市内に残り、命がけで警戒区域内のガレキ撤去をやっている人たちがいる以上は自分たちも頑張る。だが、国の政策が地元を排除し、離散を促しているようにしか思えない」と怒りをぶつける。
南相馬市では除染作業が始まっているが、昨年11月から始まっている国が直轄する警戒区域、計画的避難区域の除染事業は、大成建設を頭にしたゼネコンJVが32億円で受注。田村市、尾村、富岡町では鹿島建設、日立プラントテクノロジー、三井住友建設が17億円、広野町、大熊町、葉町、川内村では大林組、戸田建設、アトックス、日立造船などが約32億円で受注、地元企業は1社しか参加していない。南相馬市の除染計画でも「地元事業協同組合をハネて竹中工務店などの大手が指名され、地元下請のマージンをピンハネしている。こともあろうに原発を建設したメーカーばかりだ」「全国からも動員をかけて連れてくるので、市内のビジネスホテルは一杯。短期間で被曝線量がオーバーするので名前と住所を変えて別企業の下請に再び入る人もいるし、九州からも“仕事の相場はどのくらいか”とひっきりなしに電話がかかってくる状態」といわれる。
別の男性は、「危険手当も含めて親会社は1人あたり1日5万円で受け取っていても、地元の現場作業員の手取りは1万5000円程度。関西などから派遣会社を通じて集められた人は7000円くらいという。それでも普通の仕事よりももうかるから、仕事を失った人が応募していく。放射能を理由にして大企業は市外に出て行くし、その分、原発周辺の片付けや除染作業に人手が流れる仕組みになっている」と指摘した。
被災農地奪いメガソーラー基地
また、津波に流された地域の農地は集約して自治体が買い上げ、工業団地やメガソーラー基地にする計画も出ており、「宮城県知事が出しているように進出する企業には5年間無税で、新規雇用に対しては1人あたり200万円ほどの補助金が3年下りるというが、基準は“社会貢献できる企業”に限られ、小規模な地元企業よりも大企業が優先されるようになる」「南相馬には先月、ソフトバンクの孫正義がやってきて太陽光パネル基地への進出を臭わせていた。太陽光パネルメーカーも地元企業ではなく、外から別企業が入ってくるようだ」と語られている。地域に根付いた産業が締め上げられるなかで、ゼネコン主導の原発廃炉ビジネス、除染ビジネスが花盛りになり、外来資本の植民地にされることに多くの市民が憤っている。
勤労意欲失わす 補助金の仕組み
そのなかで、国による補助金給付のあり方にも批判が強い。緊急時避難区域では、自主避難している人には精神的苦痛に対する慰謝料として1人あたり月10万円(8月末まで)が支払われ、失業中の人や休業中の企業にはそれぞれ震災前の収入の90%が補償されているが、避難せずに市内に留まっている人や働いている人にはなんの補償もない。そのことが勤労意欲を失わせ、市外へ出ていくことを促す事に繋がっているといわれる。
ある自営業者は、「原発がいまだに収束していないという不安の中で、市民は地震が来る度に生きた心地がしない精神状態に置かれている。“終息宣言”をしたのなら、政府や原子力安全委員会は原発の敷地内に対策本部を置いて、福島県産のものを食べて生活するべきだ。そんな覚悟もない連中がなにをいっても信用する人間はいない。政府の金の出し方は、そんななかでまじめに働くのがバカらしくなるような空気を作っている。働かない方が金が入り、働いたら苦しくなるという仕組み。避難したら金が出るので、実家を警戒区域内の避難民に貸して自分は市外に避難する人さえいる。パチンコ屋が増えて、常に駐車場は満車。夜は酒場に入り浸るような町に活力は生まれない」とわだかまりを口にした。
そんな中でも町の再建に向けて努力する市民の意志は強く、結束を強めて地域コミュニティーを支えている。
警戒区域内の小高区に自宅があり、仮設住宅に夫婦で暮らしている男性は、「小高区の大部分は福島市よりも線量が低いのに、単純な距離計算で追い出されている。家があるのに帰れず、放置していたら本当に戻れなくなるという危機感をみんなもっている。絶対に故郷に戻るという思いを持っている人は多いのに追い出したままで、南相馬市では病院から医者や看護師も減って小児科や入院できる病院がなくなった。わざと住めない環境を作っているとしか思えない。多額の賠償金を請求しようという動きもあるが、そんなことをしていたら金で故郷を売るようなものだ」と話した。
畜産業を営む男性は、「NHKの特集番組でも放射能の恐怖を煽っているし、悲劇的な脚色がひどすぎる。私たちは生きていかなければいけないし、悲しみに暮れている暇はない」と語気を強めた。
原発事故直後は、30㌔圏内にいるためエサも入ってこなくなり、出荷停止を受けて原乳を搾っては捨てる毎日を送った。コメも昨年に続いて今年も作付け禁止になり、飼料は地元の牧草は使えなくなり、商社を通じてアメリカやオーストラリアからの輸入干草にかわった。「栄養不足で3頭の牛が死んだが、放射能の問題で県もひきとってくれず、結局、畑に寝かせて土をかぶせるしかなかった。4月からは食品の基準がキロあたり100ベクレルになり、原乳は50ベクレルになるから飼料も厳密に検査しなければいけない。疑問なのは、放射能がどのレベルになれば安全なのかということだ。自分たちは、これほど厳密な検査をしている福島県産こそ安心して食べられると確信している。和牛の価格は半減したが、子牛の値段は震災前にまで戻ってきた。これまで築き上げてきた福島の農業をつぶすわけにはいかないし、これまでの南相馬をとり戻すことを信じて頑張りたい」と話していた。