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岩手県重茂・田老現地取材 総力の漁業復興で活況呈す浜


 東日本大震災で被災した岩手県のなかでも、協同組合精神の息づいている宮古市重茂や田老地区は、他と比べても漁協が核となった地域コミュニティーが機能して復興へのとりくみが素早かったことや、真っ先に漁船の共同利用など集団化で乗り切る策を打ち出して展望を示したことで知られている。あれから1年を経て、この地域がどのようになっているのか、本紙は1年2カ月が経った被災地に足を運び現地取材にあたった。そのなかで浮かび上がったのは、なにより相互扶助や連帯・団結を基礎にした力が困難なときほど威力を発揮することであり、いまや全国的にも形骸化して久しい“協同組合精神”の意味を改めて問い直すものとなっている。「岩手県内屈指の漁協」といわれる地域の復興をたどった。
 
 夜中に昆布漁へ次次出漁 重茂地区

 5月14日。宮古市重茂地区では今期の昆布漁が解禁した。数日前からのシケがおさまり、この日は漁師たちが夜中の12時過ぎから次次と沖へと繰り出していった。まだ辺りが暗い午前3時過ぎには、漁場で刈りとった昆布を山ほど積んだ船が漁港に戻り始め、各自の釜揚げブースへと水揚げしていく。一度荷を下ろすと、あとは家族にまかせて船主たちは再び漁場へと繰り出していった。
 陸の担当は婦人や息子、その嫁、兄弟など親戚たちで、熱湯に肉厚の昆布を放り込んで次次とゆで上げていく【写真】。漁港の周囲はボイラーで炊きあげた海水からモクモクと水蒸気が立ちのぼり、朝日を浴びながら休む間もなく何十人もの漁業者が作業をこなしていた。しばらくゆで上げたのちに再び海水で冷却して身を絞め、まとめて漁協の加工施設へ持ち込むのだという。
 30代の漁業婦人は「うちの船は昨日の夜11時に出ていった。沖で刈りとってくるのは父ちゃん1人の仕事。1日に2往復はする。私たちは受け入れる午前3時前から釜の準備をして、午前中のうちに2回分の水揚げ昆布をゆでる。5月の連休までが養殖ワカメで、その後は昆布。沖で刈りとる者とゆでる者の役割分担で、いかに効率良くたくさんの昆布を処理するかで水揚げ額は変わってくる。家族が1人でも多いと助かるのが重茂の漁業なんです」と語った。20~30代の若者の姿が多く、後継者が確実に育っているのもこの浜の特徴なのだとベテラン漁師たちは語っていた。
 地盤沈下した港は完全復旧したわけではなく、十分な生産体制にはほど遠いが、それでも必要不可欠な機材は漁協の共同購入で揃えられ、釜揚げのためのボイラーも発電機も組合員同士の共同所有、ないしは漁協所有の形で整った。サケ、ワカメ、昆布、ウニ、アワビといった季節ごとの漁獲物の漁期を視野に入れて、必要な施設の復旧に優先順位をつけ、確実に収入を得る方向へ動き出している。
 
 漁協が役割を発揮 行政無線も届かぬなか

 震災後、重茂地区では行政の無線すら届かないなかで、漁協が被災状況の把握など行政的な役割をこなして住民たちのバックアップにあたった。814隻あった漁船は14隻を残してすべて津波に流されたが、直後から漁協が1000万円を負担して、若手を秋田県など他県に走らせて漁船購入に動き、その船を共同利用する形で再起を図ってきた。
 中古船や国の補助金を利用する形でこれまでに300隻近くが浜に届き、毎週のように新船がお目見えする。今年秋口までには1人1隻体制が整い、漁船の「共同利用」は終わりそうな気配だ。
 浜の漁師たちに聞くと、「九割方、船はものになってきた。重茂では1家に2隻、多い人になると4隻所有していたが、とりあえず行き渡っている」と話していた。規格がソックリなため、自宅でプリントアウトした船名・船番の切り抜きを丁寧に船首下側にはり付ける作業をしていた。漁港の駐車場には、1~2㌧の新品の船外機付き(ヤマハ製、30~50馬力)の小舟がたくさん並んでいる。港のかさ上げが遅れているために係留できないものの、大切に陸に「展示」してあるものも少なくない。土日返上で業者が漁港の復旧にあたっているが、遅いか早いかを聞いてみると漁師たちは「復旧が遅い」と申しわけなさそうに注文をつけていた。
 重茂の漁師たちがワカメ漁、昆布漁に安心して繰り出せるのは、船はもちろんのこと漁協の塩蔵ボイル施設が漁期には復旧していたことがある。「何十億円借金してでも、必ず早急に元に戻す!」。震災後の総会で組合執行部が発した決意に安堵した組合員が多かった。その言葉通り、2月にはワカメの塩蔵ボイル施設が完成し、1年ぶりの収穫に間に合った。日持ちしない生出荷なら10分の1の価格で買い叩かれるが、加工を施せば10倍の値になる。それを従来通りに付加価値をつけて出荷できた。
 重茂では漁協が生ワカメを組合員から買いとり、それをパート100人近くを雇って塩蔵ボイルし、年間かけて出荷調整することで確実な収入源としてきた。今期は市場や仲買の心意気もあって、塩蔵ボイルしたワカメは10㌔が過去最高の2万5000円という高値をつけ、漁期が終わる5月11日の最終競りでも同1万5000円という高値を記録した。例年なら初競りで1万2000円。終了期には8000円まで値下がりするものがほぼ2倍で取引されたことから、重茂漁協の震災後1年のワカメ部門の売上高は例年並みとなった。
 「養殖ワカメの漁獲量は例年なら4000㌧前後だが、今期は2300㌧だった。しかし単価がすごかったから金額的には横ばいでおさまった」と、漁協関係者は感謝の気持ちをあらわしていた。生産者を支える仲買や市場の存在、「生産者あってこそ」という配慮もありながら復興が前に進み始めていることをうかがわせた。
 浜にいた漁業者の1人は、「漁協の買いとり価格もキロ150円と例年より高めだった。ワカメ養殖は2世代いないとやっていけないが、働き手の揃っている家庭なら、年間2000万円は稼ぐ。多い人になると3000万円だ。後継者の存在が欠かせない。年間通じて、ワカメ、昆布、ウニ、アワビといった漁があって、3月過ぎからはワカメだが5月の今からは昆布漁に移行していく。私たちは浜で湯通しして漁協の乾燥施設に持っていくだけ。そのための施設も復旧したので安心している」と話していた。

 1人1隻の体制も間近 漁船流されたが

 周囲には4サイクルの船外機をつけた小舟が所狭しと並べられ、新たに届いた湯通し・ボイル・塩蔵のための機械が同じように集積。「(船外機エンジンは)30馬力程度で重量があるけど、旧型の2サイクルより燃費がいい。早めに届いたのも小型で元手がかからない漁業の強みかもしれない」と話されていた。1年前には瓦礫しかなかった浜には、新設の漁協加工場が稼働。骨組みだけ残っていた集荷場も、外側を新品同様にリフォームしていた。国や県の補助金を利用したものだが、「借金して独自であっても漁期に間に合わせる」という漁協の意志に、行政が押された感が強い。
 組合員の男性は「よその人たちにやっかまれるけど、漁協のリーダーシップが救いだった。ワカメで1000万円、昆布で1000万円。あわびも1日で100万円稼ぐ者もいる。キロ1万円(アワビ)なので、100㌔とってきたらそのぐらいの収入にはなる。焼きウニは干し昆布と時期が重なって手間ひまかかるし座り仕事で腰が痛いけれど、これもやれば確実な稼ぎになる。努力すれば金になるし、生きていけるという希望があるから立ち上がれた。その心配をとり除いたのが漁協だった。“心配するな! 元に戻すぞ!”という言葉を聞いて、オレたちも直後から“よし! がんばろう”と思って復興にあたった。元に戻せばなんとかなるという希望があったからやってこれた」と話していた。
 漁船が流され、施設が壊滅したなかで、組合員を日雇いで瓦礫回収にあたらせて日当を補償し、漁船の共同利用で急場をしのいだ経緯が改めて語られていた。1年たってみて、小型船とはいえ、ほぼ組合員に1隻ずつあてがわれはじめていることも安心感につながって浜は活況を呈していた。流された家や土地はそのままでも、まずは生産体制から立て直しているのが特徴で、サケの孵化場も復旧工事がはじまり、昆布の採苗場(8月完成)も建設工事にとりかかっていた。漁港のかさ上げは土日返上で業者が動いている。福島原発から流れ出している放射能の影響については「毎回検体に出しているが、今のところまったく問題ない」と漁協関係者は断言していた。
 
 田老でも漁協軸にやる気満ちる 1400㌧のワカメ収穫 

 隣接の宮古市田老地区でも震災後に1400㌧の養殖ワカメを収穫した。「国内最強」といわれる防潮堤に囲まれた地区には建築規制がかかり、いまだに人が住めないまま「どうなるのだろうか…」と住民たちは不安がっていた。住宅地の復興は手つかずの状態が続いている。ただ基幹産業の漁業は漁協が中心となって確実に復興の歩みを進めていた。「元に戻せば1500万円の収入にはなる」「働いたら働いただけ収入になるのが漁業だ」と漁師たちも前を見つめていた。
 こちらでも例年なら生ワカメを漁協が買いとるさいにはキロ80~90円のところ、キロ120~150円だった今期の収穫を誇らしげに語る漁師が少なくなかった。塩蔵ボイルのための施設も漁協が発注して漁期に間に合わせ、確実な収入を保証した。浜ではこれから始まる昆布の共同乾燥施設建設が急ピッチで進められていた。数十棟にも及ぶ施設を漁協が1億3000万円をかけて発注し、1月から工事を開始していた。
 また養殖に使う小舟はヤマハ製のお揃いの船が毎週のように届き、見分けがつかないため、船首にラミネートで保護した名札がつけられていた。誰の所有か峻別できないにしても、名札があれば間違わないという工夫が施されている。ただ漁港のかさ上げが遅れているため、こちらでも船は陸に大切そうに保管されてある。もともと自宅があった基礎がむき出しになった場所に仮設の小屋を建て、小舟を置いている人も少なくない。住宅地だった箇所のコンクリート基礎部分が撤去され始めたのは、予算が執行され始めた四月になってからだ。なにもない土地に手作りの小屋や小舟が点点と置かれ、周囲はペンペン草が生えた光景が広がっている。
 60代の住民の1人は「いつになったら元の場所に戻れるのかがさっぱりわからない。高台移転といわれているけど、死ぬまでには田老が蘇った姿を見たい」と漏らしていた。
 とはいえ、収入が確実に見込めるようになった漁業者はやる気に満ちていた。働くことによってみずから稼ぐことの大切さや、仮設住宅は寒いけれど海の上ほどではないこと、辛いことや苦しいことばかり考えても仕方ないこと、身体を動かせば動かすほど稼ぎになる漁業の特異性は「サラリーマンとは違う」とベテラン漁師たちが口口に語っていた。「漁師は自分の頭で自然と勝負して、自分の努力で稼いでいく仕事。田老の復興は漁業から。頭の回転が速い者は田老から出てサラリーマンになったが、残って田老を支えてきたのはオレたちだ。元に戻すまで頑張るだけ。出身者も応援してくれているしありがたい」と話していた。
 13日に漁協前の更地で開催された「たろう大漁祭り」に参加していた漁協関係者の男性は、被災した漁協建物の前にある銅像を指して、「この組合の精神は“連帯と団結”なんです」と説明していた。「連帯と団結」と彫り抜かれていたのは、古老たちに「山徳」で親しまれた「おらが組合長」こと山本徳太郎・元組合長の銅像で、漁協の創立50周年を記念して建てられたものだという。貧困のなかから炭焼きとアワビ漁で身を起こし、貧しかった田老で協同組合運動一筋を貫いた生き様が今でも尊敬されて受け継がれ、その伝統が田老の地に根付いている。協同組合精神の基本である相互扶助の精神は、この地域ではあたりまえのものなのだといった。
 重茂にせよ、田老にせよ、厳しい三陸の自然条件、東北という日本全土から見て地理的に僻地とされてきた土地において、脈脈と培われてきた共同体の力、その結束力の強さが、震災という極限状況からの復興にさいして威力を発揮していること、人間の手と足こそが復興の原動力であることを歴然と示していた。

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