いしい ひさお つきじ嘉久衛門代表。魚河岸セリ人歴35年。NPO法人21世紀の水産を考える会理事。同会が発行する『日本人とさかな』に原稿を執筆している。
◇-----◇-----◇
江戸時代に栄えた日本橋魚河岸が関東大震災で崩壊、新たにつくられた築地市場が戦前の1935年に開場してから83年を経た2018年10月6日を最後に豊洲市場へ移転しました。
この2018年には日本の食文化と食糧システムを壊すようなとんでもない二つの悪法がいつの間にか日本で成立していました。それは卸売市場法の改正、そして改正漁業法です。更に年末にはTPPが発効しました。
それでは何をもって悪法といえるのでしょうか? それらはどれも「グローバル企業や大企業の進出を促す法令」といえるからです。
ある日、大手グローバル商社に勤める私の友人が嘆いていました。「今の日本政府はグローバル企業と大手企業しか見ていない。国や国民を見ていない」というのです。「国民を見ていないって、本当?」。私はショックを受けました。しかしながら政府や行政の人たちは「グローバル企業や大手企業に頑張ってもらうことが国のためになる」「彼らは国の借金も返済してくれる」等と信じているのでしょう。だから国や国民のことを見る余裕がないのだと、私はそう理解するようにしました。
移転までに押寄せた波
そのことがあってから築地市場の歴史を改めていろいろと調べてみました。すると、日本国民の裏に隠れていた大きな事実が見えてきたのです。それは1960年に設立され今までずっと続いている恐ろしい「日米合同委員会」という存在です。そこには政治家は一切参加できず、実質的に米国の軍部と日本の官僚だけで交渉と取決めがおこなわれるのです。
第二次世界大戦終了からの日本は米国には逆らえない立場にあり、「日米合同委員会」では主に「米国側の要望」を課題として討議されてきたようです。ただし、「話の内容は一切口外してはいけない」「そこで決まったことは日米両政府を拘束する」というルールもあるのです。
すなわち、「米軍(米国側)が日本政府をこえて日本の官僚へ直接要望ができるシステム」となっているのです。毎月2回の会議がおこなわれ、約60年間も続いてきました。
そこでは、例えば「米国のグローバル企業」が「大量生産・大量消費型の発想」で国際的な大きな利益を得るために日本に「市場開放せよ」「日本で自由に行動できるように法規制改革をおこなえ」という要望の圧力をかけ続けてきたのです。そして1994年以降は「年次改革要望書」の名称で正式に要望が始まりました。
さらには、日本の政府と行政は1998年以降からは日本の企業、特に大企業に対し米国式のグローバル事業化を奨励し始めたのです。しかしグローバリズムの結果は、貧富の差が大きくなり、格差社会の拡大をもたらすだけなのです。
最初に挙げられる代表的な事例が、1991年の「大規模小売店舗法の規制緩和」です。これを期に全国の商店街のシャッター化が徐々に始まりました。
次が1995年に施行された「賞味期限表示義務」です。それまでは日本では製造年月日の表示が義務づけられていましたが、米国がそれを輸入に対する非関税障壁だと問題にし、変更になりました。これは日本の食文化や国民性にも悪影響を与えました。例えば、日本人の五感による判断力が衰え、「日本の食品の廃棄量」が大きく増えてきた原因の一つになっているといえます。
1997年には米国の要求で「ウイスキー酒税が減税」となり、逆に「日本の焼酎の酒税が増税」されました。
1998年には「大規模小売店舗法の規制が全面的に廃止」となりました。これを期に大型店の進出が自由となり、全国の商店街のシャッター化に拍車がかかりました。
同じ1998年に小渕政権が「経済戦略会議」を立ち上げ、その議長代理の中谷巌氏が「米国式のグローバリズムに沿う政策を日本に取り入れよう」と提案しました。しかし中谷巌氏は10年後の自身の著書で大反省をしたのです。「グローバリズムは富をもたらしたが分配をしていない、貧富の差は大きくなるばかり」と過去の自分を陳謝したのです。しかし手遅れでした。それは、いまだに政府や行政は大手企業とグローバル企業への期待感が強く、「国民を見ていない政策」になっているからです。
2009年にコンビニ等で薬の販売が可能になり、米国製の薬品販路が拡大しました。
持ち込まれた米国基準
そして2018年6月15日に成立した卸売市場法の改正。これはとんでもない悪法で、「公設卸売市場の民営化」が可能となったのです。これは将来的には小規模な漁師さんたちの多種多様な生鮮魚介類よりも、量販店等が扱いやすい冷凍魚と特定の養殖魚の時代に向かう恐れがあります。すなわち、全生産者に対する「公平な荷受け機能」が自然消滅する恐れがあるのです。天然魚介類の品質チェック機能が失(う)せる可能性すらあります。
突然の大量入荷にも対応できなくなるかもしれません。大手量販店や大型加工場等は「職人さんライン」が少なく「アルバイトのライン」が主流なので、臨機応変力が弱いからです。
市場への出荷製品もHACCP対応でない場合の荷受け拒否があるかもしれません。HACCPとは米国で宇宙飛行士用に開発された食品安全性の基準で、現在では魚介類の米国への輸出基準となっています。しかしそれは、五感で安全安心を確保する職人がいる日本では必要ないものです。
さらに2018年12月8日に成立した改正漁業法です。これはノルウェーなどの大型漁船による漁法や養殖事業を見習うことが発想の一つと思われます。また、その事業への参入を大企業やグローバル企業に促すことも目的です。それによって大量生産、大量消費型の量販店等が事前受発注をしやすい冷凍魚や養殖魚を事前計画できるのです。
また、第三者たる新規企業の漁業権獲得の可能性もあるので、大企業の漁業権獲得が普及することを恐れます。その理由は、企業の利益は地域創生とはならず、都会へ還元されるからです。そして天然の生鮮魚介類の旨味や美味しさが判らない時代に突入する恐れもあります。和食文化の危機となり得ます。
以上のように、過去の築地市場に関連する負の原因もその多くは米国の「市場開放の要望書」にあったということが、今になって判ってきました。
それでは、長年の外圧や社会の変化の中で築地市場はどのように83年間を生き抜いてきたのでしょうか?
築地が誇る多様な魚種
世界一資源豊かな海に囲まれ、世界一の漁業技術や魚食の伝統を持ち、また、それらを支えてきた世界でも希な市場(いちば)機能を日本は有しています。その市場機能の中の「消費地市場」としての代表的存在だったのが築地市場でした。
開場時の日本の街中には大企業や量販店などは一切なく「中小個人企業の職人さんたち」が大活躍する飲食・小売店の時代でした。それに対応してきたのが築地市場です。初年度の年間扱い数量は約18万㌧でした。
1945年に終戦を迎えましたが、築地市場は戦中の東京大空襲の被害からは米軍の配慮? で免れました。終戦前後は食料不足が際立ち、築地市場も少しでも多くの魚介類を集荷することが使命でした。すなわち、質よりも量が必要とされた困窮の時代に築地市場の仕事が始まったといえます。
1949年に2018年まで続く漁業法が成立しました。沿岸の海と漁師さんたちの権利が保護されながらの水産業界を守る漁業法でした。
1950年に始まった朝鮮戦争がもたらした「朝鮮特需」をきっかけに、日本の鉱工業部門が大発展しました。1955年から18年間の日本の経済成長は年平均10%以上を達成し「東洋の奇跡」と謳われました。1958年の築地市場の年間扱い数量は約50万㌧と大きく伸びました。
日本がそうした鉱工業中心の経済発展をなしている最中に、米国は貿易赤字が続きました。その3割から5割くらいが日本からの輸入による貿易赤字でした。
そんななか、1963年にダイエー1号店が開店し、日本国内企業の大量生産・大量消費時代の幕開けとなりました。翌年の1964年には東京オリンピックが開かれ、日本全体が量よりも質を重視する傾向へ変化し始め、築地市場も徐々にその傾向に入りました。1974年にはセブンイレブン1号店が開店し、多様化時代も始まりました。
1977年には200海里法が施行され、これを期に遠洋漁業が大きく衰退しました。築地市場が扱った生鮮魚介類や加工品、塩干品、冷凍品などの合計年間数量の最高数量は1987年の年間約88万㌧でした。ところがそれ以降は減少し続けたのです。豊洲市場への移転前年の2017年度は扱い合計数量は約40万㌧となっていました。
ところが、生鮮魚介類だけは最高数値を出した1987年度以降も減少せずに、その最高数値を移転直前までほとんど維持し続けられました。なぜ生鮮魚介類だけは高い数値を維持できたのでしょうか?
それは都心に、多種多様な生鮮魚介類を必要とする職人さんの個人商店や中小企業の飲食店・小売店が多く残っていたからです。
特に都心の高単価な土地への量販店の進出が困難であったために、商店街がシャッター化に追い込まれずにすんだケースが多々あったのです。そのお蔭もあって築地市場の目利き人たちの判断による生鮮魚介類、特に丸魚の扱い数量が落ちなかった次第です。中小個人の店舗で働く人たちはアルバイト主流ではなくプロの職人さん主流だったので、生鮮魚介類の価値を判っていたのだと思います。
しかしながら、生鮮魚介類以外の加工品や冷凍品等の扱い数量が1987年度以降は減少し続けました。なぜでしょうか? 米国からの市場開放の要望書に対応した法令改正など、様々な要因の積み重ねの結果がもたらしたと考えられます。代表的な例でいうと大型量販店の「産地との直接取引ルート」の発達です。大型量販店の冷凍食品や加工食品の扱い数量が大幅に増えていきました。
それでも魚種は年間で約100種類ぐらいだと思われます。そして築地市場の取引単価が参考単価となっていたと思われます。築地市場が扱ってきた魚種は約480種類、日本全国の魚種は約1000種類。まだ未利用の魚種がたくさんあるのです。
嘘つかない人の集合体
全国から築地市場への物流は蒸気機関車の「鮮魚専用貨物列車」が主流でした。すなわち、産地からセリ場まで線路がひかれ、「鮮度優先の直行便」で一度に多種多様な魚介類が全国から大量に搬入されました。しかしながら1986年にはその貨車便が終わってしまいました。
築地市場には「嘘」をつかない熱い人情派の目利き人たちがたくさんいました。その人たちが全国から大量に集荷された多種多様な魚介類を鮮度重視で選別し評価し、そして値段を決めました。
なぜ「嘘」をつかない人たちの集合体なのか。それは、鮮度を重視する役割が大前提の職場だからです。鮮度を守るために早朝から、夜中から出勤し、鮮度を守るために移動や行動や動作が早く、また、聞きとり間違えがないように会話も「大声で早口」です。さらに、物や魚の貸し借りも口約束がほとんどです。理由は借用書を書く時間がないからです。
また、仲卸さんたちは、卸が産地から大量多品目の魚介類を集荷してきたものを、小売店や消費者が買いやすいように少量多品目に「小分け」して販売しました。また、仲卸さんたちは魚種ごと品質ごとにそれぞれが専門の「目利き人」となって仕事をされておりました。
生産者から集荷してきた卸は生産者のためにできるだけ高く売ろうとし、仲卸さんたちは小売店や消費者の側に立っていいものをできるだけ安く買おうとします。それがセリの場でぶつかりあって適正な値段が決められていきます。仲卸さんたちは常に小売店や消費者の立場を理解しており、私利私欲がないし、そうでなければ仕事は続きません。この仕事は量販店には真似できないものです。
移転の本当の理由とは
築地市場移転のきっかけは、1986年に「老朽化」を理由に提案された東京都の「再整備計画案」でした。翌1987年には築地市場の年間扱い数量が最高の88万㌧となり、「場内が手狭で不便」「駐車場が不足」等の理由で新たに「移転計画案」が出され、「再整備計画案」と並行して検討が始まりました。
そこから豊洲移転まで約30年間、様々な検討がなされました。その間、都側の基本方針も度々変更しました。
移転計画の本当の目的は何だったのでしょうか? 当初は老朽化、駐車場が足りない、市場内が手狭で不便、等でしたが、徐々に工事をしがたいアスベスト問題、ネズミやハト等の糞、不衛生、他方で銀座に近い築地の跡地が高額で売却できる、等々多くの移転目的が出てきました。
しかしながら2013年におこなわれた日本と米国との日米二国間文書、及び、途中参加したTPPの内容に沿うことが日本政府の新たな課題となり、そのために規制改革推進会議が国内公共インフラの法改正を緊急に実施し始めた結果、「HACCP対応型で設計した豊洲市場」への移転計画を奨励することになったのだと思われます。併せて「卸売市場の民営化」や「大型企業やグローバル企業が参入しやすい改正漁業法」を成立させたのだと思われてなりません。すなわち、日米二国間文書とTPPの存在が豊洲市場への移転目的となった感が強くあります。
現在、豊洲市場はコロナ禍の影響を強く受けています。都内の寿司屋や料亭が休業・時短営業するなか、鮮魚関係、とりわけ高級食材の落ち込みが大きい一方で、量販店向けの加工品などが業者によっては多くなっています。私たちは卸売市場法の改正、改正漁業法で、旬の魚を獲り鮮度を高める工夫をして市場に出す漁師さんたちの努力が正当に評価されなくなる恐れがあるし、消費者にとってもますます沿岸のおいしい魚が食べられなくなる恐れがあるといってきましたが、それがコロナによって加速され、いっきに問題が表面化しています。
新豊洲市場においては「食文化力」と「生鮮魚介類の供給力」を低下させることなく、量販店やチェーン店等を含む全部の小売店・飲食店、そして全生産者への指導力とコラボ力を発揮していただきたい。さらに、日本政府と行政の方々にはグローバル企業や大手企業と同様に、またはそれ以上に全国の中小企業や個人商店のご活躍を促すことに重点をおいていただきたい。