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地震から3年、ひどすぎる熊本の現実 綺麗事に包み隠され取り残される被災者

五輪や兵器購入に数兆円が注がれる傍らで…

 

いまだ2000人が暮らす益城町の仮設住宅

 熊本や大分両県で273人の犠牲者を出した熊本地震の発生から3年を迎えた。メディアから復興ムードが振りまかれる一方、熊本県内ではいまも1万6000人をこえる住民が仮設住宅などでの生活を強いられており、通常の生活をとり戻すにはほど遠い深刻な現実がある。生活再建が遅れるなかで家を失った高齢者たちがとり残されており、復興の遅れや放置によってコミュニティの存続が危ぶまれる地域も出ている。本紙は熊本に入り取材を進めてきた。被災3年を迎えた被災地の現実と解決課題について記者座談会で論議した。


  熊本県内で仮住まいで生活する人は、3月末現在で1万6519人(7304世帯)いる。3年前のピーク時(4万7800人)から6割程度減っているものの、3年が経過したとは思えない数だ。プレハブの建設型仮設住宅に4640人(1993世帯)、アパートなどの借り上げ型仮設住宅に1万1543人(5177戸)、公営住宅などに336人(125世帯)が暮らしている。公営災害住宅(復興住宅)の建設が追いついていなかったり、道路の拡幅計画や区画整理事業によって家が建てられず、3年経っても行き場がない。復興住宅は12市町村で1717戸が計画されたものの、完成は496戸にとどまっている。そのため、国は原則2年の仮設住宅の入居期限を4年に延長し、県はさらに1年間の延長を国に申し出ている。


 プレハブ仮設は、国の入居基準に従って耐用年数2年の簡易なものだ。東日本大震災から9年経ったいまもプレハブ生活が続いている東北3県でも、経年劣化による雨漏りやすきま風が問題になっていた。「雨露がしのげる」程度の住居に4年も5年も暮らすというのは、肉体的にも精神的にも相当に厳しい。高齢者にとっては健康悪化にも直結し、寿命を縮めることにもなりかねない。仮住まい先で誰にもみとられずに亡くなる「孤独死」は計28人が確認されており、今後は孤立化が心配されている。

 

仮設団地内の空き地で育てた野菜を収穫する仮設暮らしの住民(益城町)

  3年前の地震の震源地であり、住宅の6割が全半壊した益城町(人口3万3000人)では、仮住まい生活者はいまも約3500人いる。そのうちプレハブ仮設の入居者は約2000人で県内最多だ。町内18カ所の仮設団地では、家を失った高齢者たちが、次の住まいが決まるまでの忍従生活を強いられている。

 

 益城町でもっとも戸数の多い「テクノ仮設団地」では、いまも648人(272世帯)が生活しており、その多くが高齢者だ。当初は516世帯いたが、3年の間に家族持ちの現役世代はアパートなどの借り上げ住宅に転居したり、別の場所へ順次移り住んでいき、とり残された高齢者たちが肩を寄せ合うようにして生活している。町役場近くの仮設団地も平均年齢が75歳で、90代や100歳の人までいる。ほとんどが公営住宅の完成や自宅再建を待つ人たちだ。


 プレハブ仮設の間取りは、4畳半一間に台所、押し入れ、トイレ、風呂。1人暮らしでも家具は置けず、1人暮らしでは「身動きもとれない」と語られていた。屋外にロッカー程度の物置が一つずつあるものの容量不足で、家電や家具などの家財道具はみんな処分し、必要最低限の住環境で窮屈な生活を送っている。家族の多い世帯には2DKや3Kの部屋があてがわれるが、子育てするには狭すぎてほとんど他所に移っている。

 

 両隣が壁1枚で区切られているだけなので「夜9時以降は洗濯はしない。風呂もトイレも使わないようにしている」とか「孫が来ても、泣いたり、足音を立てないように気をつけている」といわれ、とにかく神経を使うようだ。買い物や病院に行くためのバスの本数も減って、車がなければ移動も難しい。


 これまで、車中やテント泊→学校や体育館での避難所生活→仮設住宅と、高齢者にとっては身に堪える移動生活が続いたが、そのたびに同じ境遇にあるもの同士で励まし合いながら窮状を乗りこえてきた。そのつどコミュニティを一からつくらなければならず、「せっかく顔見知りができたのに、この人間関係が復興住宅に行けばまたバラバラになる。うまく適応できるだろうか…」という不安も語られていた。

 

 国もメディアも二言目には「被災者に寄り添う」というが、一番大事に扱われなければいけない高齢者がどこでも過酷な環境に置き去りにされているのが現実だ。避難生活での体調悪化などを原因とする震災関連死は地震の直接死(50人)の人数をこえ、全体の約8割の218人にのぼっている。


  仮設住宅の運営は、公益財団法人YMCA(本部東京)に委託している。住民は「震災以前から役場の人員を減らしてきたので、民間委託せざるを得ないという条件もあるのだろうが、各団地の自治会によっては行政書類や救援物資等、団地の住民にうまく分配されなかったり、自治会長が仮設を出るときに、自治会費がどこにどう使われたかなども分からない状態の団地もあった。住民の一番身近に行政がいないなら、情報伝達や意思疎通が滞る。仮設住民の実際を町がしっかりと認識し、安心できる生活を保障する体制を考えてほしい」と話していた。


  被災者のための公営災害住宅(復興住宅)は、入居を希望する申請数に応じて戸数を決めて建設する。町営住宅の入居基準である所得制限はなく、希望すれば町営住宅と同じ家賃で入れる。ただ余分はなく、避難生活の長期化で状況が変化し、後から入居を希望した人はキャンセル待ちになる。


 益城町では昨年7月に申請を受け付け、21団地671戸の建設を計画したが、現在までに完成して住民が入居したのは36戸のみ。残りの多くは、来年3月末までの完成を目標にして計画を進めている段階だ。公営住宅ができなければ仮設からは出て行きようがなく、少なくともあと1年はプレハブ生活が続くことになる。

 

 町によると、人員が限られた町役場だけでは、ピーク時には1万6000人にのぼった避難者の避難所確保や仮設住宅建設などの対応に加えて、災害公営住宅の用地確保まで手が回らず、着工が遅れたという。全県的には、資材の高騰や業者不足の影響もある。数千人もの住宅の確保など、予算も人員も少ない町村レベルで対応できる話ではない。はじめから無理と分かっているのに「仮設の期限は2年」などという杓子定規の基準も含めて、国のバックアップ機能が乏しいのだ。

 

 倒壊した庁舎も「現地建て替え」でなければ国の助成が受けられないため、「また同じ断層の真上に建設している。バカげている」と語られていた。


  益城町だけで家を失った住民は1万人以上いるが、高齢者たちが残されるのは最初から分かっていながら「自助努力」「自立支援」といって年年補助を打ち切ってきた。家が全壊しても、収入を年金に頼るほかない高齢者はローンを組んで家を建てかえることはできない。持ち家だった人は新たに家賃支出が発生し、カーテンから家財道具までゼロから買い揃えなければならず、入居後の負担も大きい。それでも早く落ち着ける住居をみんなが求めている。


 首相が外遊するたびにODA(途上国支援)で数千億円をバラ撒いたり、東京五輪に3兆円、F35購入に1兆円などの予算が国会審議もなく決まっていくのとは対照的に、被災地救済には「税の公平性」などといって厳しい基準が押しつけられ、住民が難民のような生活を強いられている。

 

「復興計画」が足かせに  道路拡幅や区画整理

 

益城町のメイン通りでは、県道拡幅計画の看板が立てられ、住民の立ち退きが始まっている。

  さらに住民の帰還や生活再建の足かせになっているのが、県や町行政が定めた復興計画だ。益城町では、町を貫く県道熊本高森線の4車線化を「復興の目玉」としていち早く決定したが、県の区画整理事業も加わって住民を翻弄している。住民の困難をよそに、災害に乗じた大規模公共事業が先行している。


 県道拡幅計画は、現在2車線(幅6~10㍍)の道路を3・5㌔㍍にわたって4車線(27~30㍍)に広げ、熊本市から熊本空港にアクセスするバイパス道路とすることで「慢性的な渋滞を緩和」し、沿道を「賑わいを創出する商業ゾーン」にするというものだ。そのために区域にかかる中心部商店街には建築制限がかかり、道路用地の網にかかった土地は県に売却譲渡しなければならず、家屋や店舗を解体して建て直しても立ち退かなければならない。「もともと歩道が狭く、住民から拡幅を求める要望はあったが、3倍に広げるような大規模化は地元の誰も望んでいない」と語られていた。


 道路沿いに店を持つ男性は「地震で得意先を250軒失い、道路沿いに構えていた事務所も解体した。収入を得るためには仕事をしなければならないが、元の場所に事務所を建てれば道路の拡幅工事でまた立ち退かなければならない。道路ができる10年後まで待っておれない。今は、いつでも移動できるようにコンテナ店舗で再開した。4車線化は新聞の報道で初めて知り、それまで話題になったことはなかった。どこから降ってきた話なのか」と語っていた。

 

道路の完成は10年先。いつでも移動できるコンテナで営業する店舗(益城町)

 道路沿いの自営業者の男性は「倒壊家屋の解体が進み、見た目の変化はあるが、生活はまったく変わっていない。4車線化と区画整理で住民はがんじがらめにされ、身動きがとれない。自宅は全壊し、公費解体は1年経っても順番が決まらなかったので、結局自費で解体した。今すぐにでも自宅を建てられるよう更地にしているが、地震によって基点がずれているうえに、道路が拡幅されるとなるとスペースが確保できないので家を建てることができない」と窮状を語っていた。


  県道は益城町のメイン通りで、商店、事業所、斎場、病院などが立ち並ぶ地域コミュニティの中心だ。地震で崩れたのをいいことに、残った家や店舗まで立ち退かせる計画が被災住民を再び追い詰めている。10年計画の大規模道路のために、苦境に耐えながら生活を繋いでいる住民から土地を奪い、新たな負担を強いるのだからひどい話だ。しかも被災後の地価はガタ落ちしており、売却益で同じ面積の新たな土地を買うことは難しい。反発も強く、278人いる地権者のうち、現在までに代替地の契約者は22人にとどまっているという。この地を愛し、被災後も踏ん張ってきた人たちを追い出した後、誰がこの地で「賑わい」を創出するのだろうか?と思う。


  同じく「復興土地区画整理事業」も、中心部3地区の計28・3㌶を対象に県が進めている。「災害に強いまちづくり」のため、細く入り組んだ生活道路を拡幅し、整備する計画で、これも事業完了は10年先だ。

 

新築した家が区画整理にかかり、敷地が大きく削られることを訴える男性(益城町)

 区画整理による1軒あたりの減歩率は平均14・7%で、減価補償金による先行買収をおこなった場合は9・9%の土地を県に提供しなければならない。地震で家がなくなり、補償対象が減った条件のもとで急きょ決定した。当初の計画は、再建した家を壊してまで新しい道路をつくるというものだったが、反発が出たため家を避けることになったという。


 計画決定前に自宅を再建した男性は「仮設住宅にいたが、区画整理の話を待っていたらいつまで経っても家が建てられなくなると思い、昨年末に再建した。昨年10月までが申請の締め切りだったが、それに間に合わなかった人たちは今から申請しても建築許可が下りるのは3年後になるという話だ。この地域で家を建てられずに仮設にいる高齢者もたくさんいる。県に指定された範囲であるため他人に売ることもできない」と話していた。


 道路拡幅と区画整理の両方に自宅敷地がかかる男性は「家の前の道幅も8㍍になるので、両側を1・5㍍削られることになる。せっかく建てた塀やフェンスも崩さなければならないかもしれない。県側は“費用は負担する”と口ではいうが、確証のとれる書類等はない。計画もコロコロ変わって何を信用していいのかわからない状態だ。区画整理の土地にも復興住宅が建つことになっており、区画整理が進まなければ建設も進まない。みんな自分の生活再建を描くことができず、疲れ果てて気力を削がれている」と話していた。


  泣く泣く土地を県に売った人も「地震前は坪20万円くらいだった土地だが、地震直後に県が提示した価格は坪3~5万円。それがいま11万円くらいまで上がっている。早く売った人ほど安く買い叩かれた」という話や、困窮している高齢者の足元を見るかのように「年率1・01%固定金利」などという貸し付け勧誘のFAXが県外の業者から送られてくることも語られていた。地震災害に乗じた公共事業のゴリ押しが被災者を追い詰めている。そのことへ強い憤りが渦巻いていた。


  熊本市のベッドタウンでもある益城町は、震災前の2016年まで人口は増加していたが、被災後は減少に転じ、この3年間の減少数は1600人をこえた。「創造的復興」といいながら、10年、20年計画の大規模開発が優先され、被災者の生活は後回しという本末転倒だ。

 

メドが立たぬ営農再開  南阿蘇村

 

再建が進む阿蘇大橋。手前の道路には橋の崩落で亡くなった犠牲者への献花も(南阿蘇村)

 A 同じく大きな被害を受けた南阿蘇村でも、震災後、急速に人口減少が進んだ。地震前に1万1619人いた人口は、今年3月末現在で1万513人。村人口の一割弱にあたる1106人も減少している。

 南阿蘇村では、村をとり巻く山裾の集落や田畑が崩落したのに加え、阿蘇地域全体の玄関口である立野地区が大きな被害を受け、立野黒川にかかる阿蘇大橋が崩落して交通網が寸断した。また、この谷間に走っていた熊本市から大分まで繋がる国道57号、宮崎まで続く国道325号、JR豊肥線という3つの幹線が土石流に押し流された。いずれも2020年度末(再来年の春)までの開通を目指して復旧作業が続いている。


 国鉄の分割民営化にともなって切り離され、第3セクターで運営してきた南阿蘇鉄道も、熊本方面半分の復旧メドが立っておらず、これら交通網の寸断が日常生活にとっても、観光にとっても大きな足かせになっている。公営災害住宅の建設が進み、仮設住宅の入居者は減っているが、いまも643人が仮設生活を送っている。


  東海大学農学部の南阿蘇キャンパスが地震被害を受け、大学機能を熊本市に移転したことで約1000人いた学生がいなくなり、アルバイトなどの労働力や、地域の活気が減退したことも語られていた。


  阿蘇山麓に位置し、農業が主産業の南阿蘇村にとって、稲作を中心とした農業の復興が大きな課題だ。あちこちで山肌が崩れて山裾の田畑を呑み込み、土砂で従来の水源がふさがれて別の所から湧き出したり、用水路が埋まったり崩れたりしたため田畑に水を供給できない状態が続いている。今年も含めて丸4年間作付けができない農家も多く、離農が進むことが懸念されている。


  阿蘇外輪山に挟まれた傾斜地にある立野地区は、水源地から生活や農業用の水を阿蘇大橋の橋梁に敷設された配水管を通じて供給していたが、この幹線水路が橋とともに崩落して地区全体のライフラインが断絶した。約130戸が全半壊したうえに山の崩落する危険もあり、347世帯(863人)すべてが避難する深刻な事態に陥った。3年たって避難指示が解除され、ボーリングによる井戸採掘で生活用水は使えるようになったものの、現在までに帰還した住民は4分の1(約200人)程度だという。「村外に避難した子育て世帯は、子どもの学校関係でそのまま住居を移したり、熊本市内に職場がある人たちも交通の便を考えて転居していった」と語られていた。


 そのうえ農業用水がいまだに復旧していないため稲作はできない。被災前に110戸あった稲作農家は、稲作を牧草や野菜に切り換え、荒れないように草刈りをしながら水の供給再開を待ち続けている状態だ。現在までに営農を再開しているのは、「木之内農園」と畜産農家2戸だけといわれ、「被災農家の99%が営農を再開した」という県の発表とは大きく乖離している。

 

運休し、草が生い茂ったJR豊肥線の線路。水路にも土砂が堆積している(南阿蘇村立野地区)

  立野地区への農業用水について、村は幹線水路を別のルートから敷き、今月末にも試験通水する構想をアナウンスしている。だが、住民たちによると、集落上部を横に走る主水路が土砂やガレキで埋まっており、その水路から縦に山裾の耕作地へと幾筋も延びている支線水路も地震で破損し、さらに上段の田から下段の田へと水を運ぶために江戸時代に作られた「マブ」と呼ばれる地下水路(暗渠)もあちこちで陥没や崩落を起こしているため、これらを修復しなければ水は流せないのが実際だという。

 

田畑に水を供給する地下水路が陥没し、あちこちに大きな穴が空いている(南阿蘇村立野地区)

 稲作農家の男性は「3年も作付けをしなければ田は荒れていく。なにも作らなくても耕したり、草刈りをしているが、通水のメドが立たず作付け再開が見通せていない。用水路があちこちで詰まり、陥没もしている。破損箇所が多くて個人の手作業ではどうすることもできず、村や県に頼るほかないが、区長が村に陳情しても“お金がない”という返事だった。稲作を牧草やジャガイモなどに切り換えてやっていけるのは農業法人などの大規模農家だけで、零細農家は農業所得がまったくない状態だ。このままでは再開を諦める人が出て、立野地区は荒れ地になってしまう」と危機感を語っていた。

 

 田畑に水を流す用水路は個人の管理になっているため公的予算が注がれない。だが、この地域では大雨が降れば傾斜地の集落の水を下流に流す治水の役割も果たしている。農業が営めなければ田畑は荒れて土壌が緩み、さらなる災害を引き起こす可能性もある。公的な設備であり、復興予算を充てて修復することが切実に待ち望まれている。


 「2カ所のボーリングで井戸を採掘して生活用水が使えるようになったが、一カ所は農園のため、もう1カ所は国交省が震災前から進めていた立野ダム建設に使う生コン用の水を確保するために掘ったものだ。地下水を掘るには億単位の金がかかるため、零細農家のために国は新たな井戸を掘るようなことはしない。農家の担い手育成というが、法人化や大規模化のことであって零細農家は蚊帳の外なのだ」と憤りを込めて語っていた。

 

  人口減少にともなってシカやイノシシ、アナグマなどが縄張りを拡大し、せっかく作ったイモや野菜を片っ端から食べ漁ることも問題になっていた。観光用のイチゴ栽培をメインにしている木之内農園には、耕作ができない農家から栽培委託の依頼が増え、ジャガイモや牧草などを作っているが、植えたソバをイノシシが食べ尽くしたという。管理する田畑では、地割れや隆起、ビニールハウスの倒壊などの被害が大きく、イチゴ畑には1日4㌧もの水が必要だが、断水したため営業を中断した。今年ボーリングでやっと井戸水を確保できたのでこの冬にオープンできるようだが、若い人が減ったので農作業を担う労働力の確保が課題だといっていた。


  農家の負担は大きく、全壊した家の解体・建て替えに加え、農機具も数百万円を要する。村からの見舞い金は一軒あたり30万円だという。農業基盤の復興は、村の予算規模ではとてもできることではない。県や国が前面に立って援助すべきことだ。阿蘇は故・松岡元農水相の地元だが、後継代議士は「陳情の類いはしてくれるな」と地元に伝達している有様で、「まるであてにならない」と語られていた。


 立野地区は、細川家が統治した江戸時代から交通の要衝であり、南阿蘇全体でもっとも人口が多かった地域だと誇りをもって語られていた。細かく張り巡らされた古い水路がその歴史を感じさせる。ある住民は「熊本は阿蘇山系の湧き水が豊富なことで知られるが、南阿蘇から流れる黒川と北阿蘇から流れる白川が合流し、白川水源として熊本平野全体に流れている。この水路を先祖たちが大事に整備してきたからこそ今がある。だから毎年4月には住民総出で水路の清掃活動をやってきたが、これも途絶えてしまいかねない。人口が少ないからといっておろそかにすると広範囲の地域全体に影響する問題だ。その重要さを理解して行政が機能してほしい」と切実に語っていた。

 

特産のあか牛を育てる畜産農家(南阿蘇村乙ヶ瀬地区)

  また、被害が大きかった乙ヶ瀬地区でも、集落の上の山肌が崩れて多くの田畑が土砂や流木に埋まり、山裾の農地にも水が流せない状況にある。田が私有地であるため放置されてきたが、ようやく今年3月になって県が圃場整備に着手したという。


 益城町でも、田の地割れで水が張れなくなったり、用水路の取水ポンプが崩れたまま放置されて作付けができない農家も多数あるが、その窮状が公に伝えられることはない。国内有数の農業地帯である熊本で農業被害が放置され、まともに営農が再開できない問題は、TPPやFTAなどに応じた国内農業の集約化、企業参入などの動きとあわせて看過できない問題だ。


  取材できたのは被災地全体の一部に過ぎないが、3年たっても多くの高齢者が仮設暮らしを強いられ、生業の再開もできないという深刻な状況はどこも共通している。東北被災地と同じく、「頑張ろう熊本」などの復興の掛け声だけで肝心の国のバックアップ機能の乏しさ、無関心さが際立っている。地震、津波、豪雨災害など全国各地で被災地が増えるなかで日本中で被災者が仮設住宅にとり残され、数年たてば「自己責任」で路頭に放り出されるという構図だ。かたや「国土防衛」といって数兆円で高額兵器を買い、「被災地復興」を金集めのスローガンにして東京五輪に3兆円を注ぐ一方で、被災地では極めて冷酷な棄民政策がおこなわれている。


 「国民の生命と財産を守る」という統治機構の最低限の仕事すら果たさなくなり、政府や行政が機能しない。被災地がどこでも置き去りにされ、住民が二の次になっている問題について、もっと全国に知らせないといけない。

 

阿蘇大橋の崩落現場(南阿蘇村黒川地区)

崩れたままの生活道も(益城町)

店や民家がなくなり、道路拡幅のための更地が目立つ(益城町)

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