安倍首相が15日夕方に会見を開き、集団的自衛権の行使をめぐって憲法解釈を変更していくための法整備を進めていくと宣言し、今後、与党協議を経て閣議決定していくことを表明した。米軍の身代わりになって自衛隊が武力参戦する道を開くもので、アメリカの要求を丸呑みして、命まで差し出していく売国性を暴露した。戦後69年を経て、日本社会からはすっかり富が吸い上げられ、TPPで全面的な市場開放まで迫られ、そのうえ武力行使の肉弾や標的にされるところまできた。成れの果てまでたどりついた売国政治に対して、全国的な反米愛国の大衆斗争を強め、安倍政府をたたきのめす力を示すことが差し迫った課題となっている。
戦争阻止する大衆斗争が急務
今回の公開記者会見は、首相自らが選任してお気に入りの御用学者やメンバーを配置した有識者懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)の報告書提出を受けたもので、テレビで全国に生中継される力の入れようとなった。
そのなかで安倍首相は作成したパネルを見せながら、「紛争地帯から逃れようとする邦人を同盟国の艦船が救助輸送しているとき、その艦船が攻撃を受けても自衛隊は守ることが出来ない」「アジアやアフリカなど、世界各地でボランティアで地域のために汗を流し、活動している若者がいる。彼らが突然武装集団に襲われても、自衛隊は彼らを見捨てるしかない。みなさんのお子さんやお孫さんがそのなかにおられるかもしれない」「国民の命を守る責任が私や日本政府にはある。人人の幸せを願って作られた日本国憲法が“国民の命を放置せよ”といっているとは思わない」
「これまでの憲法解釈のままで国民の命と暮らしが守られるのか? 日本が再び戦争をする国になるという誤解があるが、そんなことにはならない。憲法が掲げる平和主義はこれからも守り抜いていく。他国の戦争に巻き込まれるという批判があるが、こうした批判は1960年の安保改正のさいにも盛んにいわれた。反対する人人に散散そう主張されたが、その改正によって日本の抑止力は高まり、平和が守られた。巻き込まれるという受け身の発想ではなく、国民の命を守るために何を為すべきかという能動的な発想を持つべきだ。抑止力が高まることによって、平和が守られるのだ」「平和国家であると口で唱えるだけで、私たちの平和な暮らしを守ることはできない」などと持論を展開した。
「襲われる船」「ボランティアの若者」等等そもそもの設定や登場人物についても意味不明で、彼らがなぜ襲われるのかといった事情など抜きにした空想をもとに、「国民の命を守る責任が私にはある!」と熱弁を振るった。
「積極的平和主義」等等、真反対の言葉で詭弁を弄しながら、進めていることは米軍の身代わりになって自衛隊が武力参戦するための改憲なり、法解釈の変更である。要するに自衛隊員や日本の若者が代理戦争の鉄砲玉にされることを意味している。「同盟国」であるアメリカは他国から攻撃を受けるような振る舞いや侵略ばかり世界でくり返し、今や軍事費が足りずに人員も規模も縮小し始めた。足りない肉弾や戦費は国外から、具体的には属国の日本から調達して米国の国益を守り、世界覇権を維持していく構造になっている。黒人兵だけでは間に合わず、「イエロー・モンキーがいるじゃないか」という調子で、日本に戦争の肩代わりを迫っている。
「同盟国が攻撃を受けたら」といって、米軍に攻撃がおこなわれる度に集団的自衛権を発動して、自衛隊が地球の裏側まで出撃していく。改憲のハードルが高いなら、安倍政府が野垂れ死にする前に解釈変更をごり押しさせるというのがアメリカの都合で、既に自衛隊と米軍との命令系統も含めた融合や訓練、日米NSCの連携など具体的な体制整備は進められている。アーミテージ・レポートや年次改革要望書など、アメリカ側が突きつけてきた要求をそのまま安倍政府が実行しているに過ぎない。
このなかで、「集団的自衛権か? 個別自衛権か?」「解釈変更は法律的に可能か?」といった部分的な問題だけが商業メディアをにぎわし、本質をそらす役割をしているのも特徴となっている。最近ではまるで公明党が平和の旗手としてたたかっているような描き方まで横行している。「改憲」を叫んだ前回総選挙では、公明党のおかげで安倍自民党が与党ポストを得たにもかかわらず、自民党の別働隊を平和の砦のように扱って世論を欺瞞している。
また、国政政党では民主党や維新の会、みんなの党など主立った政党はみな部分的な修正や解釈の違いに問題をすり替えたり、最終的に賛成する方向では一致している。社民党や自衛隊を容認している「日共」集団も「集団的」であるか「個別的」であるか、「違憲であるか否か」といった点に議論を収斂させて、法解釈の問題に矛先をそらし、「我が党は反対したが議会での多数決で押し切られたから仕方ない」のアリバイ的言動に終始している。翼賛政党がみな安倍政治に迎合して、既存政党のなかに対抗勢力と呼べるものがいないし、その意志もないのが特徴となっている。
実際上の対立は集団的自衛権ならダメで、個別自衛権なら良しという代物ではない。六九年前の原爆投下と終戦を経てGHQ占領軍が乗り込み、それ以来沖縄や岩国をはじめ各地に米軍基地が置かれ、半世紀以上もの間、日本社会は「自衛権」があった例しなどない。世界で唯一、アメリカによって単独占領された国として69年がたった。制海権であれ、制空権であれみな米軍に握られ政治家から官僚機構、メディアに至るまで権力機構は情けないほどアメリカに隷属し、今に至っている。しまいには「アメリカの国益のために死んでこい」という段階までたどり着いた。自衛権のない政治の姿、経済の姿は、日米関係こそ問題にしなければならない。
米軍が日本列島を足場にして戦後一貫してやってきたのは侵略戦争である。50年代の朝鮮戦争、60年代のベトナム戦争にしても日本を基地にして出撃してきたし、日本側もその手伝いばかりしてきた。攻撃してくる者から守るためではなく、アジア支配のための最前線基地として利用されてきた関係にほかならない。その過程で、国内の大企業も朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需でおこぼれを預かり、他国人民が血を流すことによって膨大な利潤を得た。核の傘に守られて、戦後の高度成長から現在にいたるまで、アジア各国に海外進出し、権益を得てきたのも彼ら大資本で、「国民の命」を防衛するためではなく、資本を防衛するために軍事力や核の脅威をフル活用してきた。
集団的自衛権の行使は、直接に自衛隊が武力参戦することを意味している。日本と敵対していないウクライナのような国にも、アメリカの国益のために身代わりで出撃することすら想定しなければならない。2000年代のアフガン戦争やイラク戦争では、海上輸送や掃海艇派遣、制圧地域の治安維持活動に駆り出されてきたが、今度は実際の人殺し、武力参戦の肉弾要員として戦地に放り込まれるという、踏み込んだ内容がある。
そのさい、「向こうが攻撃してきたからだ」「邦人が乗っている艦船を守れ」というのはいかなる戦争においても口実に過ぎないことは、盧溝橋事件だけでなく、「ビン・ラディンをやっつける」といって実行したアフガン侵略や、「大量破壊兵器を持っている」(実際には持っていなかった)と侵略したイラク戦争の経験を見ても歴然としている。言いがかりをつけては戦争をしかけてきたのがアメリカで、第2次大戦後に米軍が身勝手に侵攻した国国は数知れない。
その下請軍隊になって武力参戦を実行した場合、相手国から狙われるのは日本で、既にアルジェリア事件で狙われた日揮のように、かつて親日的といわれた国国からも信頼を失い、標的にされるまでになった。米軍の仲間、多国籍金融資本や外資の手先として富や市場を略奪していく日本企業なり自衛隊が相手国から敵と見なされるのは当然で、武力侵略に対する血なまぐさい報復を受けることは疑いない。米軍の盾になって命を捨てなければならないだけでなく54基も原発を抱えながら郷土をミサイル攻撃の標的にさらすもので、いかに国を破滅させる道であるかを示している。
日中衝突を仕組む米国 権益争奪激化の中
安倍会見では中国の脅威を示唆し、北朝鮮のミサイル攻撃も脅威にあげた。長年来、中国との間で眠らせてきた尖閣問題に火をつけたのが石原慎太郎で、米国シンクタンク詣でをしたさいにそそのかされて「購入する」と主張し、そこから民主党政府が国有化して緊張関係はいっきにエスカレートしてきた。中国と独自の平和外交をすれば今日のような事態は迎えていない。
世界経済がどん詰まりに直面し、市場の枯渇と権益争奪が激化しているなかで、あえて日中衝突を仕組んでいるのがアメリカで、まるで和平裁定の仲介者のような顔をしながら、権益をみな手中におさめていく関係となっている。
集団的自衛権の行使がアメリカの要求だからこそ、首相をふくめた傀儡政府のエージェントたちがはしゃいでいる。アメリカに認められさえすれば安泰と思い込んで、市場原理改革をやりまくり、大量の米国債を買わされて日本社会から富はみな米国に流れ出し、その資金を元手にアメリカ本国のバブルが維持されてきた。足りなくなれば郵政民営化で、その預貯金をウォール街が横暴に奪いに来る。小泉純一郎や竹中平蔵といった売国奴がそれを恥ずかし気もなく提供する。日本から奪われた1000兆円ともいわれるマネーを使って、逆に外資が日本企業を買収し、株主になって非正規雇用を蔓延させ、過酷な搾取を強めるなど、デタラメな従属国家の道を転落してきた。アメリカの国家財政がパンクしているもとでアベノミクスを実行し、これも多国籍金融資本にみな消化されて破綻が露呈している。最終的に残った富を根こそぎ持って行くのがTPPである。
散散食い物にしたあげく、日本社会を戦争の渦に投げ込んでいく売国政治との全面対決が迫られている。憲法解釈が右を向いたか、左を向いたかではなく、いわんや法律的定義の問題などでもなく、日米安保体制のもとで米国の国益のために死ななければならない情勢にどう立ち向かっていくかが問われている。