いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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嘘と隠蔽たいがいにせよ モリカケ疑惑新たな展開

はじまりはいつも安倍

 

 森友学園への国有地払い下げとかかわって、新たに財務省が国会に4000枚もの交渉記録を公開した。さらに愛媛県今治市に建設した岡山理科大学の獣医学部設置をめぐっては、愛媛県が2015年2月段階で加計学園理事長と安倍晋三首相が面会していたことを記録した新公文書を発表するなど、モリカケ疑惑が新たな展開を見せている。現役首相の友だちや、右翼思想に共鳴しあう特異な勢力に対して、国有地が実質無料で払い下げられたり、あるいは国家戦略特区制度を利用して獣医学部設置の認可が下り、巨額の補助金が注がれてきたが、こうした国家の私物化疑惑について、既に1年以上にもわたる追及によって大方の全貌は暴露されている。ところが当事者たちが逃げ回り、きわめて往生際の悪い誤魔化しがいつまでも続いている。記者座談会で状況を整理してみた。

 

  「人の噂も75日」とはよくいうが、いまや「人の噂が365日」以上続いているような状態で、大方の者がうんざりしてモリカケ疑惑を眺めている。北のミサイル騒動や財務省官僚のセクハラ、ジャニーズの不祥事、タックル騒動などが割り込んできて関心をさらっていきもするが、いつも振り出しに戻って「モリカケどうなったんだ!」がくり返されている。人が忘れるような代物ではなく、スッキリと解明されない限り終わりがないのだ。逃げる側のスタミナがいつまで持つかだろうが、日を追うごとに新事実が暴かれ、外堀が埋まって追い込まれているようにも見える。「拉致問題の安倍」「外交の安倍」とか、よく「○○の安倍」といういい回しが使われるが、「モリカケの安倍」という印象がすっかり定着している。

 

  よくもまあ、これほど延延と隠蔽や誤魔化しを重ねられるものだと驚かされる。世論としては怒っているというよりも、もう呆れ返っているという感じの空気が支配的だ。国会答弁などを見ていても「あっ、また大嘘をついた」くらいにしか思えなくなっている。パターンが見えるというか、それほど慣れっこになっている。そうやって統治機構全体の権威が日日暴落している。この状況下で、例えば国家観なり思想をしっかりと持ち合わせていて「国を守る」というのであれば、為政者の側の常識としても一連の統治崩壊や混乱しきった政治状況を招いたことについてケジメをつけるのが筋だろう。ところが恋恋としてポストにしがみついている。恐らく統治の建前をぶっ壊しているという自覚がないのだろう。

 

 結果として、安倍晋三個人がどうこうという範疇をこえて、このような状態すら解決する能力がない統治機構なのだと世間に認識させている。自民党の自浄能力のなさもだが、野党も含めて国会が浮き上がり、裁判所も検察も警察も信頼を失っている。捜査機関がちっとも動かないのも特徴だ。「日大アメフト部の監督を捜査するのもいいが、もっと巨悪を捜査しろよ」と各所で話題になる。

 

  この間、森友疑惑をめぐっては財務省が新たに「廃棄した」はずの4000枚もの交渉記録を国会に提出した。この解読が各所でやられている。理財局長だった佐川が「記録はない」と答弁したのに合わせて、その後意図的に廃棄していたことも明らかになった。官僚答弁にすり合わせるために公文書毀損を平然とやっていた。そして、そんな佐川の答弁も、元はといえば「私や妻がかかわっていたら、総理も議員もやめる」にすり合わせたものだ。「はじまりはいつも安倍」といわれても仕方がないものだ。問題がなければ廃棄や書き換えをする必要性などないのに、「私や妻」がかかわっていないことにしなければならないという動機があって、安倍昭恵の名前や日本会議の記述を排除し、財務省がてんやわんやで隠蔽したり書き換えたりしていた。理由もなく公文書を廃棄したり書き換える役人などいない。本来なら、理由があっても書き換える役人はいないはずだったのだが…。

 

  4000枚もの膨大な書類に目を通すことは至難の業だが、PDFで見ることができるようにもなっている。安倍昭恵の秘書として経産省から派遣されていた谷査恵子が理財局に問い合わせをしていた記録も残っている。財務省職員が籠池夫妻からどのような言葉を浴びせられていたのかもつぶさにわかる。交渉決裂寸前だったことがうなずけるような記載もある。こんな小さな出来事まで記録に残すものなのだと驚かされるほど、きっちり財務省の担当者たちは仕事をしていた印象だ。そんな行き詰まりかけていた国有地払い下げが、なぜトントン拍子で進み始めたのかだ。

 

 籠池が安倍昭恵の関与によって神風が吹いたように動き始めたとのべているが、公表されている記録のなかからは重要視されている「2014年4月28日」のものだけが隠蔽されているという指摘もある。その3日前の4月25日に安倍昭恵が国有地を見に行って籠池夫婦とともに写真を撮影し、「“いい土地ですから、前に進めてください”とのお言葉をいただいた」とのべていた時期の記録だ。さらに近畿財務局と本省理財局との連絡などの記録が抜け落ちていて、まだまだすべての記録が提出されているとはいいがたいようだ。

 

安倍昭恵氏が内閣総理大臣夫人として名誉校長に就いている「瑞穂の國記念小學院」(同校ホームページより)

  谷査恵子と安倍昭恵を証人喚問しないことにはどうしようもないが、首相夫人付の秘書が財務省に問い合わせたり大活躍していることは明白だ。先日の国会でそのことを問われた安倍晋三が「谷さんが自発的にやった」ことだと主張して驚かせた。ノンキャリ職員に過ぎない国家公務員が、どうして籠池の意をくんで財務省に優遇をお願いしなければならないのかだ。しかも財務省すら半ば迷惑がっていた者に与して、個人プレーで首相夫人付の秘書を語って動き回る動機などない。自発的を正当化するなら、谷査恵子が地位を利用して首相夫人よりも何よりも籠池とつながりをもち、不当なる口利きをしていたことになる。というより、昭恵が籠池の奥さんとメールや電話で連絡をとりあうほどの仲だったのに、今さら何をいっているのだろうかと思わせている。

 

  「谷さんが自発的にやった」がちょうど日大アメフト部の監督とコーチの会見とかぶって、そっくりそのままではないかと下関の安倍派といわれる企業でも話題になっていた。自己防衛のために「指示したことはない」「アイツが勝手にやった」で下部に責任を転嫁していくのが増えている。「自発的にやった」という言葉は自発的にやった者がのべる言葉であって、本来なら第三者が自発的であるか否かを判断できるようなものではない。そのような責任転嫁を防ぐために、役人や官僚は自己防衛の意味もあって記録やメモを大切に残すのに、その記録も改ざんや書き換え、廃棄するのだから、近財職員が「常識が壊された」といって自殺したのも考えさせられる。

 

 役所では出張一つとっても出張命令書という記録が残り、いつどこに何時に向かい、いくらの費用がかかったのか行動や歳費を細かく記している。なにがしかの予算を執行するにあたっても、協議内容やプロセスはしっかり記録に残っている。詳細が知りたければ執行調書を情報公開で求めるというのが基本だ。それらの書類には部課長はじめとした決裁責任者たちの判子が押してある。誰が知っていたのか、関与していたのかがそこからわかる。財務省にせよ、この営みを犯してまでねじ曲げなければならないよっぽどの理由があったのだ。「その理由とは何か?」みたいな野暮で遠回しな話ではなく、もう大概暴露されているではないかというのが実感だろう。

 

際立つ往生際の悪さ うんざりするほどの堂々巡り

 

  加計の方では、愛媛県から新文書が出てきた。獣医学部を建設した加計学園の理事長が2015年2月に首相と面会し、獣医学部の構想を伝えたうえで「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」といわれたとする文書だ。これまで首相が獣医学部設置を知ったのは「2017年1月」としてきたが、加計疑惑の辻褄を根底から覆す記録となっている。「男たちの悪巧み」と題して安倍昭恵がフェイスブックに投稿した加計孝太郎、安倍晋三、銀行関係者とのスリーショットからも疑いの眼差しは注がれていたが、それでも「2017年1月にはじめて知った」ということで貫いてきた。

 

バーベキューを楽しむ安倍首相、加計理事長(中央)、萩生田副官房長官

 「腹心の友」とは何度も面会したり飲食を共にしているし、別荘でバーベキューをしたり、安倍昭恵曰く「悪巧み」をするほどの仲なわけで、「知らなかった」といわれても説得力がないわけだが、その獣医学部設置について「首相案件」として愛媛県は申し伝えられ、いわば国主導の事業に巻き込まれて動員されてきた。今後のなりゆきもあることから、愛媛県からすると「国の責任」「官邸主導」であることを明確にしておかなければ、とばっちりをくらってたまらないのだろう。面会記録について首相も学園側も即座に否定しているものの、ではなぜそのような記録が愛媛県にあるのか明らかになっていない。これまた、今さらこんなことをいっても野暮で明明白白にも思えるのだが、どちらかが嘘をついていることになる。愛媛県は柳瀬首相秘書官との面談についても、最終的に名刺を提出して真実を認めさせたが、そもそも嘘をつく必要性がない。

 

  加計学園や愛媛県関係者と面談したか否かですら、柳瀬首相秘書官が「記憶にない」としらばっくれて、認めるまでに相当な時間を要した。今回もまた振り出しから「会った」「会ってない」の堂堂巡りが始まるのかと思うと、本当にうんざりする。獣医学部の設置についても、既に文科省事務次官だった前川喜平が暴露しているように、官邸の幹部が呼びつけて「総理にかわって私が伝える」といって認可を下ろすよう迫っていたことがわかっている。これまた、前川喜平が嘘をつく必要性がない。もはや「2017年1月にはじめて知った」という証言の信憑性そのものが崩壊している。

 

  首相答弁の嘘が一つずつ薄皮をむくように引っ剥がされて、丸裸にされているような光景だ。恐らくその身体にはレッテルが貼りたくってあるのだろう。「レッテル貼りをやめてください!」とあんなにムキになって主張するくらいだからよっぽどだ。森友も加計も、結局のところ先ほども話したように「はじまりはいつも安倍」。首相答弁に会わせて記録や事実がねじ曲げられて今日に至っている。そして、何が事実なのかが誤魔化されるものだから、時間を費やして堂堂巡りがいつまでも続いている。そして世間は全般的に「こんなことをいつまで続けるのか」と思っている。「モリカケをやる暇があったら、もっと他にやることがあるだろう」といって誤魔化しに加担し、私物化疑惑を曖昧にしようという意味合いのものではなく、「いつまで続けるのか」は「さっさと辞めろ」という響きをともなっている。政権は既に死に体で、この往生際の悪さもかつて見たことがないレベルのものだが、一強体制のもとでまだやれると錯覚しているのかもしれない。

 

  嘘がはびこっている世の中ではあるが、息を吐くように平然と嘘をつく、真顔かつ神妙な面持ちで嘘をつく、のらりくらりと質問をかわす、まずは「記憶にない」といってとぼけてみる、大きい声を出して誤魔化してみる、ピンチになったら昨日まで思想を同じくしたであろう仲間に「しつこい人」呼ばわりしてみる、ファーストレディーの世話係だった公務員に責任をなすりつけて「自発的にやったこと」とのべてみる等等、官僚も権力者もさまざまな芸当を披露している。権威も何もあったものではない。1年以上にもわたってこのような醜態を見せつけられて耐性がついたし、「嘘つきばっかりじゃないか!」と感じている国民も少なくない。

 

  田中角栄が逮捕されたロッキード事件と重ねてアッキード事件と呼び名をつけている者もいる。山本太郎が国会の委員会質問で「不穏当発言」などと叱られながら、なおもいい続けている。戦後最大の疑獄事件としてロッキードは語られてきたが、アッキードも大概笑えないところまできた。この疑惑はうやむやにして済む問題ではなくなっているし、もはや「人の噂も75日」が効かない段階にある。腹心の友が国家戦略特区のおかげで果実にありついたのは事実で、籠池が作ろうとしていた愛国小学校も日本会議や首相応援団の右派勢力が鳴り物入りで進めていたものだ。だからこそ、カネがないのに建設に着工し、なかったゴミをあったことにして値引きを受けるなど、超法規的な手続きが認められた。

 

  「いつまでこんなことを続けるのか」という不信感もすごいが、同時に検察や警察といった捜査機関がまるで機能していないことにも批判が高まっている。オイコラ! といって目くじらを立てるのは一般人ばかりで、近頃は自転車に乗っているだけでも「盗難車両じゃないか?」と呼び止めていちゃもんをつけてくる。巨悪には目をつむって忠実な番犬となり、悪人と盗人がはびこる世の中にしてどうするかと。不平等極まりない。

 

  「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」(石川五右衛門)とはよくいったものだと思う。いつの世も盗人は尽きない。とはいえ、石川五右衛門は盗んだ富を貧乏人にばらまいて庶民の味方でもあった。今時の盗人というか、支配構造の上澄みにあぐらをかいている者のなかでは、資本主義である以上それが当たり前みたいなところもあるのだろうが、懐にため込むばかりで世間のために吐き出すことがまるで乏しい。いきなり話が飛躍するようで申し訳ないが、私物化との境界が乏しいことに問題の特徴がある。なにもかも「ボクのもの」くらいに思っている。犯してはならない「みんなのもの」という意識が欠如している。これは社会全体の利益をかすめとっていく行為への躊躇がない世の中になったことと無関係ではない気がする。

 

 独占大企業など見ても高プロでさらにタダ働きに寄生し、要するに国民の懐から盗人しようとしている。その法律を強行するのもまた安倍政府だ。みんなして似たり寄ったりのことをしているなかで、為政者の私物化についてもおとがめなしがまかり通り、律する力が働かない。そのことによって日本社会が破壊され、品位のない政治が横行して統治が崩壊に向かっているのに「これはまずいぞ…」という危機感や自覚すらないのだ。

 

  自民党政府の再登板から5年が経ったが、どうしようもないほど低俗極まりない政治だったという実感が広がっている。東アジア情勢を見ても蚊帳の外に置かれ、内憂外患で行き詰まっていることは歴然としているが、かさぶたがしがみついているおかげで身動きがつかないような風だ。次の総選挙は大荒れになることが疑いない。野党がどうしようもないという課題も含めて、有権者の意識は激しく動いている。既存政党を乗りこえた力を結集して、まともな政治を実行させる運動を作っていくことが急務になっている。幻滅していても始まらない。アメリカ大統領選や欧州各国での大衆政党の躍進、韓国の民衆運動などにあらわれているが、どうしようもない世の中をどうにかしようという力がどこでも支配構造を揺さぶり、とぼけた為政者を震撼せしめている。社会正義を勝たせるか否かが問われている。私物化に対抗するのは公共のため、万人のために機能する社会運営をせよと求める力だ。一つ一つ手間のかかる道のりではあっても、嘘については真実を対置し、真当な側を勝たせていくことが欠かせない。

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