戦前、青年将校による5・15事件や2・26事件を契機に、政党政治の崩壊と軍部主導の内閣の暴走が強まるなかで、国民は筆舌に尽くしがたい戦禍にたたき込まれた。同時に、政党が自滅し大政翼賛会に合流するなかで、それに対抗し、国会で体を張って演説主張し、国民の熱い支持を得た気骨ある政治家もいた。当時、正面から軍の暴走を批判し、議会から衆議院議員を除名された斎藤隆夫(当時70歳)もその一人である。
1940(昭和15)年2月2日、斎藤隆夫は、所属していた民政党の異端代議士として、米内光政首相(海軍大将)の施政演説に対する代表質問に立った。そこでおこなったのが、日中戦争がはじまって2年半が過ぎたのに、「陸軍はひたすら聖戦と称して、国民が疲弊している状態にあることを知ろうともせず、戦争継続のみに政党政治を解体せしめるかのような動きを示している」と批判する、1時間半にわたる「反軍演説」だった。
「反軍演説」では、「この間においてわが国民が払った犠牲、すなわち遠くは海を越えて支那事変のためにどれだけ日本の国費を費やしたかということは、よくわからない。しかしながら、ただ軍費としてわれわれがこの議会において協賛したものだけでも、今年度までに約120億円、来年度の軍費を合算すると約170億円、これから先どれだけの額に上るかはわからない。200億になるか300億になるか、それ以上になるか一切わからない、それ等の軍費は、ことごとく日本国民の負担となる、日本国民の将来を苦しめるに相違ない。かの地に転戦する100万、200万の将兵諸士をはじめとして、近くはこれを後援する国民が払った生命、自由、財産その他一切の犠牲は、いかなる人の口舌をもってしても、その万分の一をも尽くすことはできない」
「しかるに、この不公平な事実を前に置きながら、国民に向かって精神運動をやる、国民に向かって緊張せよ忍耐せよと迫る、国民は緊張するに相違ない、忍耐するに相違ない、しかしながら国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない」
そして、「事変以来歴代の政府は何をなしたか」と迫り、次のように発言した。
「2年有半の間に三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、そういうことでどうしてこの国難に当ることが出来るのであるか、要するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。身をもって国に尽くす熱力が足らないからである。立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない、しかもその器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する、国民的支持を欠いて居るから、何事につけても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息倫安、1日を弥縫する政治をやる、失敗するのは当り前である」
斎藤はこの演説で、国民の利益を代表する立場を投げ捨て、軍部にひれ伏し媚びを売る政治家に向けて、また自戒の念も込めて「国家百年の大計を誤まるようなことがあったならば、現在の政治家は死んでもその罪を滅ぼすことはできない」と訴えた。この日の議会は、傍聴席が満席で、要所で拍手が起こるとともに、「やめろ、やめろ」の怒号が飛び交った。
除名処分後の選挙でトップ当選
斎藤隆夫は以前にも、2・26事件後の1936(昭和11)年5月7日の本会議で、2・26事件をとりあげ、青年軍人の右傾化と軍人の政治介入を批判し、5・15事件への軍の対応が事件の遠因となったのではないか、と問い詰めていた。そして、「軍人が政治に関わるというのは言語道断であり、武力で自己の主張を貫こうとするのは、立憲政治の破滅はいうに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものであるから、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならない」と批判していた。さらに、1938(昭和13)年には、近衛政府の国家総動員法への反対演説をおこない、軍部の募る怒りの一方で国民の共感を集めていた。
斎藤隆夫の「反軍演説」は先の演説と同様、国民の深部に渦巻く戦争下での生活の困難と不安、全面的な統制への憤激、反戦的な気分・感情と響き合うものであった。しかし、傍聴席でこの演説を聞いていた陸軍省軍務局長の武藤章や軍務課の将校たちが「斎藤の演説は支那事変の聖戦目的への侮辱であり、10万英霊への冒涜である」と罵り顔で国会内の記者に語り、斎藤を懲罰委員会にかける行動を起こした。
それは、政党と議会の解体を雪崩をうって促進させることを目的としていた。小山衆院議長は斎藤の発言には「不穏当部分がある」として、速記録から後半のすべてを削除する措置をとった。民政党は斎藤に「離党と謹慎」を迫り、斎藤はみずから離党した。懲罰委員会では除名処分を確認したが、斎藤の弁明が説得力をもって懲罰側を圧倒し、新聞が「(斎藤は)凱旋将軍の態度をもって引き上げた」と報じるほどであった。
衆院本会議では、斎藤の「除名処分」が賛成296、棄権121、反対7で採決された。斎藤は不撓不屈の気概をもって、2年後の太平洋戦争下の翼賛選挙に選挙区の兵庫県5区(但馬選挙区)から、どの政党にも頼らぬ「非推薦」で立候補した。期間中軍部や右翼の攻撃、選挙妨害や内務省の選挙文書の差押を受けたが、約2万票を獲得し2位と7000票以上の大差をつけてトップ当選で返り咲いた。
戦時下にこのようなドラマがくり広げられたことは、戦後の社会党の前身である社会大衆党の大半が斎藤の除名処分の採決に賛成に回ったこと、すでに共産党が大衆と結びつけず組織的に壊滅していたこととあわせて、今日に生かすべき重要な教訓を提供している。