2013年に黒田日銀が開始した異次元緩和は4年半に及ぶが、年間約50兆円(2014年10月の追加緩和からは約80兆円)という前代未聞の規模で国債などを買い入れ民間銀行にマネタリーベースを供給した結果は、株価を支えて外国人投資家や大企業を潤わせただけで、貧富の格差拡大と国民の貧困化は一気に進んだ。
エコノミストの河村小百合氏は、日銀の国債保有残高が400兆円をこえて最大の保有主体になっていること、この現状は「事実上の財政ファイナンス(中央銀行による国債引き受け)」であり、国内外の歴史的経験から必ず放漫財政と財政破綻、インフレを招来し、国民に甚大な負担を負わせることに行き着くとして、日本を含む各国が憲法や法律で明確に禁止しているものだと指摘している。そして、先の大戦の敗戦のどさくさで日本の為政者たちが何をやったのかを振り返っている(集英社新書『中央銀行は持ちこたえられるか―忍び寄る「経済敗戦」の足音』)。
日中戦争から太平洋戦争に突き進んだ昭和10年代、日本の経済の軍事化が急速に進み、軍需企業が戦闘機や武器弾薬などをつくってボロもうけした。そして山のようにかさむ軍事費は、当時の天皇制政府が国債を刷って刷って刷りまくってまかない、日銀や預金部(戦後の大蔵省の資金運用部の前身)が直接引き受けた。敗戦直前の1944年には、国債発行残高が当時の金で1500億円、この国債発行残高の国民所得に対する比率は267%となっていた。これが敗戦で国の財政破綻となった。戦争で320万人を失い、工場や船舶が破壊され生産力は壊滅し、物不足から物の値段はうなぎ登りとなる一方、貨幣価値は紙屑同然となってハイパーインフレの事態となった。
これに対して幣原内閣は1946(昭和21)年2月17日、インフレ抑制を口実に、「新円切り替え・預金封鎖・500円生活」と呼ばれた金融非常措置を断行した。その内容は、①2月17日現在の金融機関の預貯金を封鎖し、引き出しを制限する、②旧円は3月3日以降、通用力を失う、③旧円は3月7日までに金融機関に預け入れさせる、そして①と同じに取り扱う、④新円を2月25日から発行し、3月7日までに一定金額に限ってひき換えを認める、というものだった。
しかもこの政策を、日銀や民間金融機関を含めて極秘裏に準備したうえで、国民向けの公表は実施の前日の16日におこない、わずか1日で有無をいわさず実行に移すという荒技をやってのけた。翌日から国民は、世帯主は月300円、それ以外は1人月100円しか預金から新円として引き出せなくなった。
このとき蔵相の渋沢敬三(渋沢栄一の嫡孫で前日銀総裁)はラジオで、「皆さん、政府はなぜこうした徹底した、見ようによっては乱暴な政策をとらなければならないのでしょうか。それは一口にいえば悪政インフレーションという、国民として実に始末の悪い、重い重い生命にもかかわるような病気を治すためのやむを得ない方法なのです」と演説し、国民から猛烈な反発を受けたとの記録が残っている。
同年10月19日には「戦時補償特別措置法」が公布された。戦時中に「お国のため」といって「戦時国債」を買わされ、いわば政府に対する債権者である国民に対して、国側が負っている債務金額と同額の「戦時補償特別措置税」という名の税金が課せられた。国民が持っていた国債は紙屑となった。
また、同じ日に「金融機関再建整備法」と「企業再建整備法」が公布された。これによって民間金融機関の再建のために、民間金融機関の債務のうち封鎖預金の一部が切り捨てられた。民間金融機関を救うために、国民の預貯金は強制的に奪いとられた。
さらに11月12日には財産税法が公布された。財産税とは、空前絶後の大規模課税といわれ、動産、不動産、預貯金、保険、株式、国債などを対象に、貧富の差に関係なく、税率25~90%もの課税をおこなうというものである。政府はこれを原資にして、「金融システムを守る」といいつつ、民間金融機関に国債の可能な限りの償還をおこなった。こうして1948(昭和23)年7月、預金封鎖が解除されたとき、残っていた預金残高の価値は、当時の大幅なインフレによって実質的にはほとんどなくなっていた。
敗戦後のどさくさにまぎれて為政者は何をやったか。国債として国が負った巨額の借金のツケをすべて国民に回し、預金封鎖を手はじめに身ぐるみ剥いで借金をチャラにする政策がとられたのである。それを過去のこととしてすますわけにはいかない。