いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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民族の恥さらす有事法制 なぜ米国の為に死ぬか

 小泉政府が、アメリカの「テロ撲滅」のための「永遠の正義」と称するアフガン戦争に自衛隊を派遣したのにつづいて、今国会で有事法制関連法をとおそうとしていることに、戦争体験者をはじめとして大多数の人人が強い憤りをあらわしている。その声は家庭や地域で渦巻いているが、全国的な表にあらわれた運動としてはきわめて停滞した状態にある。既存の政治勢力がまるで無力になっているのである。とくに「日本共産党」の看板をかかげてきた宮本顕治の1派をはじめ、戦後の自称「進歩派」の多くが、アメリカのインチキな「民主主義」の擁護者としてやってきて、すっかり破たんしているのである。これらの戦後のアメリカ民主主義の化けの皮をひきはがすことで、戦争を阻止して平和で豊かな社会への大多数の人人の願いを解き放つことができる。そのような力強い世論を行動にし、形にして、日本を動かす力に結集することが重大な任務となっている。
 小泉内閣が国会に提出し、来月をめどに成立をはかっている有事法制の関連三法案は、「武力攻撃事態法案」、自衛隊の行動円滑化のための「自衛隊法改悪案」「安全保障会議設置法改悪案」である。また関連して言論・表現の自由をじゅうりんするメディア規制法案として「個人情報保護法案」「人権擁護法案」「青少年有害社会環境基本法案」なども提出している。
 それは、「武力攻撃が予測される事態」と政府が判断したなら、首相が部長となって対策本部を設置し、国、地方の行政機関を指示して対処措置を実施させるというものである。このさい自衛隊が円滑に行動できるように、私有地の無断通行、土地、家屋、施設の強制使用などができ、物資の収用、保管命令ができ、それを拒んだならば罰則を加えるとしている。
 この有事法制関連法は、昨年末のアメリカのテロ事件にさいして、テロ特措法を決めて自衛隊を戦後はじめて戦地に派遣したことにつづくものである。さらにアメリカの戦争に日本の人的、物的資源を総動員する1999年の周辺事態法につづくものである。それは1996年の日米安保共同宣言、1997年の新「日米防衛協力指針(ガイドライン)」を具体化したもので、アメリカのいいなりになってすすめてきたものである。

一体誰を守るのか 愛国心ない小泉政府
 小泉政府は、想定した戦時において、いったいだれとたたかって、だれを守るのか。ブッシュは「テロ撲滅」戦争は長期につづくといい、「今年は戦争の年」だと断言した。そしてアフガンにさんざん爆弾を落としたあげく、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」といって、むきだしの敵意をあおっている。
 きわめて明らかなことは、これらのイラク、イラン、北朝鮮が、日本にたいしてはもちろんアメリカに攻めていって占領するなどという脅威はまったくない。もっぱらアメリカが大軍を派遣して爆弾の雨を降らせ、子ども、女、老人にいたるまで無差別な殺人をくり返してきた。そしてこの軍事恫喝(どうかつ)をテコにしたグローバル化戦略によって世界中の国民経済をなぎ倒し、世界中の富を独占して、おびただしい失業と貧困、十数億にのぼる飢餓人口をつくりだし、世界中の人民から憎まれることとなった。
 小泉政府の戦時体制づくりは、世界の人民を敵に回してこの犯罪的なアメリカの戦争の下働きをするというものであり、アメリカの国益のために勝手にひき起こす戦争に自動的に参戦しようというばかなものである。
 それはハナから、日本の国民の生命財産を守るというものではなく、世界に戦争を仕かける米軍を防衛するものであり、アメリカ本土を防衛するためである。それは日本の国民の生命財産を守るどころか、反対に戦火にさらすことである。しかもアメリカはミサイル防衛構想のお先棒を日本に担がせることも要求しており、日本本土をふたたび原水爆戦争の戦場にするたくらみまですすめている。
 小泉首相は、アメリカの国益のために、日本の若者に命を捨ててこいと正面からいう度胸はない。またすべての日本人民に、在日米軍とアメリカ本土を守るために、ふたたび原水爆の戦場になることを認めろという度胸もない。やっていることは、民族的な誇りを捨て、愛国心のかけらもない、アメリカかぶれの恥ずべきことである。それを正面からいえずにすすめるのは、いかに人民を恐れているかを示している。

戦争狂の姿現す米国 グローバル化対応に
 1990年代に入ると、戦後世界を構成してきた米ソ二極構造が崩壊した。アメリカは「自由、民主、人権」を叫んでソ連・東欧の社会主義国を転覆し、湾岸戦争をひき起こした。そして「社会主義の終えん」「資本主義の永遠の勝利」を叫んだが、そこからあらわれてきたのは、動物世界のような弱肉強食の資本主義世界であり、戦争狂、殺人狂のアメリカの姿であった。
 アメリカの戦争政策は、アメリカが金融・通信の優位をテコとした金融投機を中心としたグローバル戦略、つまり自由化、規制緩和の要求で、アメリカ資本が各国の市場をこじあけて力ずくで支配し収奪することに対応している。日本の構造改革、規制緩和、自由化も、戦争動員策動と結びついて、1996年の安保共同宣言の具体化として、自民党から社会党などとつづく政府がアメリカのいいなりとなってすすめてきた。
 米日政府の「安保再定義」によるグローバル化、構造改革によって、アメリカ資本による大企業の乗っとりがすすみ、おびただしい倒産と貧困と失業をまんえんさせ、輸入自由化で農業、漁業生産を破壊して農水産物の自給率を下げ、「自助努力」「受益者負担」などといって福祉や医療などを切り捨て、教育は機会均等の原則を破壊して愚民教育をやり、文化は計算ずくの植民地的な腐敗政策をやり、政党政治は人心から無縁な世界で腐敗をきわめ、社会は無政府状態をきわめている。それは強権の発動であるが、同時に生産人民を養うことができなくなり、生産を発展させることができなくなり、社会を維持できなくなっている姿を暴露するものである。

 
 蘇る痛恨の戦争体験 まさに「あの時」
 かつての戦争は人人に筆舌に尽くしがたい傷痕を残し、郷土を無惨に荒廃させた。戦争体験者のなかでその思いは、ますます忘れることのできないものとしてよみがえっている。人人は戦争にはみな反対であった。みな戦争には反対だが、それだけでは戦争を止めることはできなかった。そしていかんともしがたい力で戦争にかり出され、300万をこえる人人が無念の死を遂げていった。
 「きけわだつみの声」の戦没学徒が、日本から遠く離れた戦場で死に直面したとき、「なぜあのときたたかわなかったか」と痛切に語っている。「死んだものの命をとり返すことはできないならば、死なないためのたたかいを生死をかけてやらなければならない」というのは戦争で犠牲になった人人の共通する痛恨の思いである。そして「いま」こそ、まさに「あのとき」となった。
 戦後日本において、原水爆禁止運動から60年の安保改定阻止の大斗争など、平和運動が力をもち、憲法改定ができず、容易に参戦ができなかった基本には、日本人民のなかに戦争における痛切な体験があったからである。ところが原爆被爆者は、戦争を終結させるためにやむをえない原爆投下であったという空気に抑えつけられ、天皇を頭とする帝国主義支配階級がひき起こした戦争でさんざんな目にあい、二度と戦争をくり返してはならないともっとも願う戦争体験者をまるで戦争協力者のようにみなす空気で押さえつけてきた。
 それはアメリカの側から宣伝されたが、平和運動の内部から、いわゆる戦後の「進歩派」を自称する多くの部分からもいわれた。「1億総ザンゲ」から近年では「加害責任の反省をせよ」という主張などである。アメリカの戦争は正義であり、平和と民主主義の進歩勢力というのである。
 今日、まさに戦争が現実問題となるときに、戦後「平和と民主主義勢力」と称し、「進歩派」と称した多くの政治勢力が、「日共」修正主義集団を先頭にして、平和勢力としての役割をはたさない。むしろアメリカのいう「自由、民主、人権」の旗振り役となり、湾岸戦争におけるイラク攻撃でも、また北朝鮮敵視攻撃でもアメリカに同調してそれらの国に悪態をつき、昨年のテロ事件ではアメリカを擁護し、戦争協力者の姿を現しているのである。社会党は自民党に抱きこまれて村山内閣を祭りあげられ、対米従属の戦争コースの推進役をはたしたことはいうまでもない。
 きわめて重要な特徴は、「個人の自由」「個人の人権」の主張が、全人民の自由、民族の自由を否定し、したがって戦争にかり出される不自由とたたかう力をもたないのが、「進歩派」のようにみなされ、戦争阻止の力にならないばかりか、アメリカの戦争協力者となっているのが重要な特徴である。
 現在の軍国主義の復活は戦前の天皇中心の形ではない。現在、日本が憲法を踏みにじって、戦争に踏み出そうという戦後史を画する重大な局面で、天皇はたいした役に立っていない。聞こえるのはアメリカの「民主社会を守れ」「永遠の正義」への無条件拍手喝采である。小泉が靖国に参拝したのは、アメリカの戦争のために若者に死ねということをごまかす役割が大きい。戦争にかりたてるスローガンが、昔は「天皇」、いまは「アメリカの自由と人権」となっているのは重要な特徴である。

戦後「民主化」の正体 “平和ボケだった”
 多くの人人のなかで現在語られていることは、戦後は民主化で、自由で豊かになったというのがまったくのインチキであったという問題である。それが「平和ボケ」であったという思いとあわさってしみじみと語られている。
 戦前の軍国主義は、天皇を頭とする帝国主義支配階級が、国内の人民を極度に搾取、収奪、抑圧、弾圧し、朝鮮、中国への侵略を拡大し、その行きづまりからアジア・太平洋地域への侵略を拡大し、それらの植民地の奪いあいをめぐって、米、英、仏、蘭などの帝国主義列強との戦争となり、敗北したものであった。戦前の日本社会を支配する権力は、天皇、特権官僚、軍閥が握っていた。
 この日本帝国主義の無謀な戦争をうち負かした最大の力は、中国人民の長期の抗日戦争であった。アメリカは、日本から植民地を奪いとり、戦後の世界の支配者になるという帝国主義としての目的でこの戦争に参加した。ドイツ、イタリアが降伏し、日本の敗北が決定的になるなかで、広島、長崎に原爆を投下し、全国の都市を空襲で焼け野原にしたのは、日本を単独で占領、支配するためであり、天皇制の打倒をめざして決起するであろう日本人民を弾圧するためであった。
 アメリカは東京で大空襲をやり十数万人を残酷に焼き殺したが、戦争の最高司令官である天皇が住む皇居には1発の爆弾も落とさなかったし、最大の戦犯であるのに極東裁判にもかけなかった。天皇とその側近は、国民には徹底抗戦を叫んで甚大な犠牲を強いながら、天皇の地位を温存するための敗戦処理だけを願い、アメリカに命乞いをしていたし、アメリカは天皇を保護したのである。
 戦後日本に上陸したアメリカは、「民主化」と称して、絶対主義天皇制を解体してブルジョア議会主義の国家形態に再編し、地主制を解体し、独占資本集団の前時代的な同族支配を排除して反米の牙をぬき、近代的な経営形態にして、目下の同盟者にした。この戦後改革は民主化が目的ではなく、アメリカの支配に都合がいいように再編するものであった。
 アメリカは天皇の軍隊を解体して、米軍、のちには自衛隊も指揮下において日本の権力を握った。天皇は象徴の位置に置いたが、それはアメリカの支配を隠ぺいするための道具にほかならなかった。今日、文科省が学校現場に「日の丸」「君が代」を強要し、小泉が靖国参拝をやるが、それは戦争を美化する意図もあるにせよ、それ以上に日本の支配勢力の独立の見せかけをし、もっと重要なアメリカの戦争動員の手口をかくす道具であることを見のがすならば、きわめて重要な誤りである。
 戦後の戦争は朝鮮戦争もベトナム戦争も、「共産主義の脅威に対抗して自由と平和を守るため」といい、「平和と自由と民主主義のため」、すなわち「アメリカの正義のため」というものであった。
 そして人民を導くべき共産党指導部は戦後、アメリカ占領軍を解放軍と規定した。天皇制軍国主義から解放してくれたアメリカ民主主義に感謝するというものであった。そのような修正主義裏切り者の流れは、戦争で苦難をなめた日本の人民大衆をすべて戦争協力者などとみなし、戦後の荒廃のなかから立ち上がっていく人民と離れたところで、新たにおりかぶさってくる反動と戦争の敵と正面からたたかうことを回避するものであった。アメリカ占領軍は朝鮮戦争に突きすすむ時期、残酷なレッドパージを加えて労働運動を破壊して、総評を結成させたが、それは朝鮮戦争を支持するという方針であった。
 しかし共産党内でもこのような親米潮流とたたかって、1950年には原爆投下の犯罪を正面から暴露して、朝鮮戦争での原爆使用に反対して、広島における有名な8・6平和斗争が組織された。その流れは、60年安保改定阻止斗争へと発展した。
 そして60年代、高度経済成長政策とあわさって、労働組合の幹部どもをアメリカに呼んで手なずけ、労働運動の内部から全人民的な政治斗争を破壊して、目の前の経済要求をすべてとしてアメリカの支配に目がいかず、その支配の枠のなかでわずかばかりの改良を求める改良主義をまんえんさせた。このようなアメリカの支配を美化するインチキな「平和と民主主義」の潮流が、いまやアメリカの戦争協力者としてあらわれているのである。
 反米愛国の路線が戦後の日本社会の発展方向に合致したものであり、圧倒的な日本人民の要求を代表するものである。いっさいの親米路線と一線を画して、「自由、民主、人権」といったアメリカの植民地支配のインチキなイデオロギーを一掃して、独立、民主、平和、繁栄の道をすすむならば、大多数の人民の力ある平和斗争をまき起こせることは疑いない。

平和の為の大行動を
 戦争阻止の力結集

 いま大多数の人民大衆のなかで渦巻く、戦争を阻止する思いを、形にしさまざまな行動にして、地域的、全国的に結びつけて、強力な力にしなければならない。
 被爆者、戦争体験者が身をもって体験した戦争の犯罪性、戦争で命を奪われるまえに戦争を押しとどめなければならないという思いを若い世代に語り伝えることはきわめて重要である。小・中・高生、青年、学生が行動を開始していることは大多数の支持を得ている。労働者が、自分の子どもたちが戦争で殺される事態になるなかで、企業をこえ、地域をこえて、全国的な団結で、グローバル化・構造改革の攻撃による戦争動員と大産業再編と対決する方向を発展させなければならない。教師はまさに勤労父母の願いに立って、教え子を戦争の肉弾でなく平和の担い手に育てる使命が重要課題となっている。この時代とかかわって、文化人、知識人の発言が求められている。
 戦争にかりたてるアメリカとそれに従属する日本の売国独占資本集団という敵を明確にし、労働者を中心に団結できるすべての人民が団結し、またアジア、世界の人民と団結して、戦争を阻止して平和で豊かな社会の実現をめざす力を強めなければならない。

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