新年度の予算成立を巡って、国会で「103万円の壁」と並んで「高校無償化」が取り沙汰されているものの、なぜ大学無償化について誰も触れないのだろうか。確かに私学の高校に子どもを通わせる親たちからすると、それは是非とも導入してもらいたい政策であろうし、年間50万~60万円の学費負担から解放されるのであればさぞかし暮らしも楽になるであろう。少子化の折に、教育にかかる個別家庭の負担を軽減する政策はおおいにやることが望ましい。しかし一方で「なぜ高校だけなの?」とも思う。私学の中学校だってあるし、それこそ高校の先にある大学無償化だって触れられて良いはずなのに、もっぱら目前の議論は「高校無償化」に限定されているのである。
大学といえば、東京大学をはじめとした国公立大学の授業料値上げが検討されている有様で、国からの運営費交付金と現状の授業料だけでは運営がままならないことが問題になっている。7つの旧帝国大学(東京大学、京都大学、東北大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学、九州大学)を中心にした国立大学群が高等教育における国内最高峰と見なされ、歴史的に国から潤沢な研究費が注がれてきた。日本の学問を牽引する存在であり、次代のリーダー育成やノーベル賞を受賞するような優秀な研究者の輩出がそのことによって担保されてきた。ところが、昨今はその経営基盤の根幹となっていた運営費交付金が削減され続け、研究活動を誘導する競争的資金の獲得競争に駆り立てられて基礎研究が疎かになったり、大学運営を維持するために授業料値上げに踏み切ったり、最高学府の足下は揺らいできた。
さらに、そこに通う大学生たちを見てみると、在学中も学問探究どころか学費や生活費を稼ぐためにアルバイトに追われ、同時に奨学金という名の莫大なローンを背負って社会人となり、結婚や子育てにもブレーキがかかる有様である。仮に夫婦で二馬力の奨学金返済となると負担感は大きく、「おカネがかかる子育て」に躊躇してしまうのも無理はない。高等教育を受けようとする学習意欲のある若者たちが、親の仕送りも細っているなかで、おカネがないばっかりに金融機関に搾取されているのである。
高校無償化は実現するに越したことはない。しかしそれだけでは不十分で、もっと議論を拡大して大学及び大学生への国の積極的な資金投入もなされるべきだ。国公立大学への運営費交付金の削減は、その経営基盤を兵糧攻めにして、パトロンとなる大資本や為政者が求める技術開発や軍事研究などに誘っていく政策として意図的にやられているもので、おかげで基礎研究がおざなりになって日本の学術レベルは後退していることを科学者や多くの大学人が指摘してきた。世界的に刮目(かつもく)されるような研究論文の数も減少し、目先の利害に追いまくられて日本の大学の存在感は薄れている。おカネの心配をすることなく、自由に、そして伸びやかに教育・研究に没頭できる環境を整備する以外にこの復権はあり得ない。大学生についても、借金奴隷にするような歪な構造を改めて、志ある者がしっかりと学問にとりくむことができるような環境を整備することが必須であろう。大学無償化と奨学金チャラをセットで実現して優秀な人材を育成するなら、社会全体にとっても有益なはずである。
2024年の出生数は72万人となり、国の当初の想定より15年前倒しで少子化が進んでいるという。2022年に「80万人を切った」と騒いでいたが、わずか2年でひどい減り方である。「子は宝」というのに、子を産み育てることが困難な社会が到来していることを端的にあらわしている。
そして、ただでさえ子どもは少ないのに、子ども食堂が全国に1万カ所以上もでき、三食すらまともに食べられない子どもたちがいるような世の中でもある。未来の国力につながる子どもたちにしっかりとご飯を食べさせ、教育にカネをかけて人材育成にあたるのは国の責務であり、そんな未来への投資をケチるような国に豊かな未来など望めない。
武蔵坊五郎