広島、長崎の原爆投下は「戦争を終結させた」「しょうがない」「アメリカを恨むつもりはない」と発言した久間が防衛大臣を辞任に追い込まれたが、それは長崎をはじめとする全国的な大衆的世論が、いまや黙ってはいない力となっていることを示した。これは戦後60年あまり抑えつけてきた欺瞞が音を立てて崩壊していることを示すもので画期的なものである。ところが久間が辞任した翌日、アメリカでは、核不拡散担当特使のジョセフが対抗して「原爆投下は戦争を終結させ、100万の米兵と数100万の日本人を救った」と発言した。
原爆をどう見るかは、日米関係においてきわめて鋭い問題である。それは幾10万の無辜(こ)の非戦斗員を殺した原爆が、何のためのものであったか、それに至る日米戦争はいかなる性質のものであったか、そして敗戦後のアメリカの単独占領と日本資本主義の再編から現在に至る日本社会の根幹をどう見るかにかかわる問題である。
日本単独占領する為 米政府の非公式発言での主張
アメリカ政府は、広島、長崎への原爆投下をどう見なしているか。非公式な場で、本音として語ったものを見てみたい。
原爆が完成し実験が成功したとの知らせをトルーマン大統領が受けたのはポツダム会議の最中であった。トルーマンは1945年7月17日、ポツダム会議初日には「ソ連が参戦すれば日本はお手上げだ」といっていた。翌18日、原爆実験成功の電文を受け取ると「原爆を投下すれば、ロシアがやってくる前に日本はお手上げだ」と語っている。
ヤルタ会談で、ドイツ降伏後3カ月後にソ連の対日参戦と決まっており、それが8月9日と迫ったソ連参戦のまえに原爆を使用できることを大喜びしている。また日本の降伏には原爆は必要ないと見なしており、それは別の目的、すなわち日本を単独で占領するためであったことを示している。そのために、何が何でもソ連参戦前に使わなければならないと見なしていたのだ。
アメリカ極東軍最高司令官マッカーサーは、「私たち幕僚たちは一致して、日本はすでに崩壊と降伏の寸前にある、と判断していた」「原爆投下は軍事的に見ればまったく不必要である。日本は降伏を準備している」といっている。
国務長官バーンズは「原子爆弾が戦争を終わらせたのではなく、これが投下されたときには、日本はすでに敗れており、講和を求めていたのだ」(1945年11月、ニューヨークタイムズ)といい、さらに「原爆は日本を打ち破るために必要なのではなく、ソ連をもっともコントロールしやすくするためだった」といっている。
フェラーズ准将は「天皇が降伏を決意して終戦を図ろうとしたのは1945年2月からであって、原子爆弾が日本の降伏をもたらしたのではない」(『リーダーズ・ダイジェスト』1947年9月号)
あわせて、対日戦の指揮をとった連中の発言がある。沖縄戦にのぞんだ米艦隊司令官ハルゼーは米兵に対して、「ジャップを殺して殺しまくれ、もしみんなが自分の任務を立派に遂行すれば、各人が黄色い野郎どもを殺すことに寄与することになる」と檄を飛ばしていた。
都市無差別爆撃作戦の創始者であるルメイ少将はつぎのようにいっている。「核兵器を使って人人を殺傷することは岩で頭を割ることより邪悪というわけではない」「われわれは3月9日から10日未明にかけて、広島と長崎で蒸発した人人をあわせたより多くの東京住民を、焼き焦がし、熱湯につけ、焼死させたのだ」「われわれは日本の民間人を殺したのではない。日本の都市の民家はすべてわれわれを攻撃する武器の工場になっていた。これをやっつけて何が悪いのか」。
原爆投下を正当化するために主張してきたのは次のようなものだった。
トルーマンは1945年8月9日、長崎原爆投下の日の演説で「われわれは戦争の苦しみを早く打ち切るために、また数1000人のアメリカの若者の生命を救うために原子爆弾を投下した」といっている。1958年3月14日、広島市議会あて書簡では「連合国将兵25万及び日本人25万人が完全に破壊から救われると推定した。私は広島と長崎の犠牲が日本と連合国の将来の福利のためにせっぱつまった必要措置だったと考えている」。
スティムソン元陸軍長官は「(日本本土上陸)作戦を実行すれば、アメリカ軍の死傷は100万以上となるかも知れないことが予測された。……原爆使用の決定は、10万以上の日本人を死に追いやる決定であった。しかし、この意識的計画的破壊行為は、われわれにとって最小限の残虐行為であり、これ以外に手段はなかったのだ。広島、長崎の全滅は戦争を終結させた。焼土戦術も海上封鎖も終わった。陸上部隊の大激突による惨状も、これで未然に防がれたのである」。
「同じ目にあわせる」 イラク戦争開戦時も
そして最近のアメリカ側の発言は次のようになっている。
ソ連・東欧を崩壊させ湾岸戦争をはじめたブッシュ(父)大統領は1991年12月2日、米ABCテレビ対談番組で「原爆投下は何100万もの米国民の命を救った」と発言。1994年9月米上院は、スミソニアン航空宇宙博物館における第2次世界大戦終結50周年・原爆展計画に対して、「エノラ・ゲイ(広島原爆投下のB29)は第2次大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米国民の命を救った」と決議した。そして「1万フィート上空の英雄的な行為」と騒いでいた。
翌年スミソニアン博物館は戦勝記念物としてエノラ・ゲイ機などを展示し、「戦争終結を早め、米国民の命をできるだけ多く救済するために」原爆が投下されたと説明した。アメリカにとって原爆投下は正義であり、自慢なのだ。クリントン大統領は記者会見で、スミソニアン博物館での原爆展中止を支持するとともに、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と言明した。
現ブッシュ大統領は9・11ニューヨーク・テロ事件からアフガン、イラク戦争開戦のとき、「パールハーバー攻撃をした国民が受けたのと同じ目にあわせる」と叫び、イラク戦争は日本占領がモデルだといった。
「原爆は戦争を終結させた」というのはアメリカ側から、原爆を正当化し、日本人民を黙らせ、世界を欺瞞するためにいってきたものである。ジョセフの発言はこの延長線上にある。
偶然ではない久間発言 核保有論相つぐ
最近の日本政府、閣僚の核問題をめぐる動きは次のようなものである。
1994年6月、国際司法裁判所へ提出する日本政府意見書陳述書に「核兵器の使用は国際法上必ずしも違法とは言えない」と記述していることが判明した。当時の羽田政府はこの意見を削除したが、外務官僚は「純粋な法律的評価は一切変わらない」と発言した。
2002年5月、安倍晋三官房副長官は早稲田大学での講演で、「戦術核を使うと言うことは昭和35(1960)年の岸総理答弁で『違憲ではない』とされています」とのべ、国会答弁では「自衛のための必要最小限度を超えない限り、核兵器であると、通常兵器であるとを問わず、これを保有することは、憲法の禁ずるところではない」「核兵器は用いることができる、できないという解釈は憲法の解釈としては適当ではない」とのべた。
安倍内閣が登場すると核保有論議が閣僚などから公然と噴き上がった。2006年10月、中川昭一・自民党政調会長は核保有論を提起し、「憲法上は持つことができると政府は言っている」と発言。麻生太郎外相も「核保有の論議は大事」と発言。中川政調会長は訪米して「日本の周りは核保有国だらけだ。日本にとっては、(ソ連が)キューバに核を持ち込もうとした(1962年当時の米国の)切迫した状況に似ている」と述べ、核兵器保有に関する論議をすることに理解」を求めた。安倍首相はこの中川、麻生発言を擁護した。
久間氏の「しょうがない」発言は、突如として出たのではなく、アメリカの主張とそのいいなりになる安倍政府の流れのなかで出てきたものである。
原爆投下は戦争終結に全く必要なかった
第2次大戦における日本の戦争は、いくつかの性質の戦争が絡み合ったものだった。日本帝国主義の中国・アジアへの侵略戦争にたいする中国人民をはじめとする抗日民族解放戦争。その中国・アジア市場の争奪をめぐる米英仏蘭帝国主義との強盗同士の戦争。日本帝国主義と社会主義ソ連との戦争があった。日本国内では、天皇制支配階級と人民の間で鋭い矛盾と斗争があった。
アメリカの対日戦争は、アジアを解放するためなどではなく、日本を単独で占領するという計画を持って望んだものであった。すでに日露戦争の後、アメリカは対日戦争計画・オレンジプランというものをつくっていた。それは、日米間の戦争は必至と見なし、ハワイ攻撃を待って、それを口実にして総攻撃をかけること、日本を徹底的に壊滅させ占領するとしていた。日米戦争はそのシナリオ通りにやった。そのさいには、戦争責任はすべて軍部に負わせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用するという計画を持っていた。
アメリカはまた、中国市場の略奪が最大の戦略目標であり、日本をたたきつぶして占領するとともに、蒋介石軍を支援して中国共産党が指導する人民革命勢力を押しつぶそうとしていた。日本を降伏させたアメリカにとっては終戦などはなく、直ちに中国革命に干渉し、朝鮮戦争を仕掛けていった。
日米戦争は悲惨きわまりない戦争であると同時に、単純に説明できない奇妙キテレツな戦争であった。天皇をはじめ戦争指導者たちはアメリカに勝てるとは考えないで戦争に突き進んだ。日米戦争の準備をしたのは近衛内閣であった。ところがいざ開戦となると、東条英機に首相をやらせた。その理由は、もし敗戦の場合天皇に傷が付くというものだった。海軍などでは半年しか戦えないというのは常識であった。山本五十六は、やれというなら半年か1年なら暴れてみせるが、その後は保障できないといっていた。事実日本海軍は半年後のミッドウェー海戦で敗北し、それ以後連戦連敗となった。
1943年のガダルカナル陥落は敗戦の決定的な転換点となった。44年にはサイパンも陥落し、本土空襲が可能となり、東条内閣は倒壊したが、それでも戦争をやめようとしなかった。兵隊は学生も40を過ぎた家族持ちも徴兵し、武器も食料も持たせず輸送船に乗せ、死ににいかせた。南の島では、戦争どころではなく、取り残された兵隊が、餓死と病死で死んでいた。そして45年になり、東京大空襲を皮切りに、全国大都市から中小都市まで空襲がはじまった。4月には「鉄の暴風」といわれる悲惨な沖縄戦、そして広島、長崎の原爆となった。こうして戦死者は320万人となった。
負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。
アメリカの原爆投下は、戦争を終結させるためにはまったく必要のないものだった。アメリカは天皇を脅し、ソ連を脅し、日本を単独占領して植民地・属国にするという、まったくの利己的な目的を実現するために、女、子ども、老人、学生、勤め人というような無辜の非戦斗員を眉根1つ動かさず焼き殺したのである。天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
切迫する核戦争の危機 米ソ2極構造崩壊後
そして現在、戦後世界を形成してきた米ソ2極構造が崩壊したのち、核戦争の危機は遠のくのではなく、逆に切迫するものとなってきた。アメリカに対抗する国が小さくなると核戦争の危機が強まった。
前大統領のクリントンは核の先制使用許可を出し、ブッシュはテロ事件後、イラン、北朝鮮、イラク、ロシア、中国、シリアなどを名指しで核の先制使用対象に上げた。現在の米朝、米イ関係も核保有問題が焦点である。ジョセフがいう「原爆は戦争を終結させるものだった」という発言は、現在の原爆使用を正当化する意味を持っている。
そして日米関係では、小泉、安倍と日米同盟1本槍をすすめ、アメリカのいいなりになってイラク派兵に踏み出すとともに、米軍再編に3兆円を投じ、国内では戦時国家づくりをやってきた。国民保護計画には、核ミサイル攻撃対応を明記。アメリカ本土を攻撃する核ミサイルを日本が迎撃する、すなわち日本がアメリカへの核攻撃の盾になるのを集団的自衛権の容認として準備している。
自衛隊を米軍の指揮下に置き、日本の若者をアメリカの戦争に肉弾として駆り出すこと、それだけではなく日本本土をアメリカの戦争の戦場にすること、しかもその戦争はアジアと日本を戦場とする原水爆戦争を想定するものとなっている。
久間が「原爆はしょうがない」というのは、62年前だけのことではなく、現在日本本土をアメリカの核戦争の盾にしようとするなかで出たものである。敗戦につづく売国政治がいまや行き着くところへきたことをあらわしている。
そして久間防衛大臣を辞任させた力は、地元の長崎をはじめとする全国の大衆世論である。「原爆は戦争終結のためにやむを得なかった」といって人人を抑えつけ、アメリカへの隷属の鎖に縛り付けてきた欺瞞が、大多数の国民のなかで通用しなくなってきたのである。それは、小泉、安倍とつづく6年あまりの経験をつうじて、自民党政府というものが日本人の感覚をなくしたアメリカ人もどきの連中であり、売国政治による日本社会の崩壊、戦争による破滅の道に、黙っているわけにはいかないという巨大な世論の転換が始まっていることを証明している。