東京電力の福島第1原発事故にともなう巨額な損害賠償の方針を菅政府が決定した。いろいろ欺瞞的な言い回しをしているが、それによって下がっていた東電の株価は上がった。大銀行や保険会社を中心とする株主、社債保有者、融資者などが安心したのである。三井住友銀行など金融機関が要求したプランを民主党菅政府が丸飲みしたのである。
そして東電が引き起こした原発大災害の損害賠償は、結局は電気料金なり税金の形で国民が払わされる。被害を与えた側が救済され、被害を受けた側が支払うという本末転倒した方向に化けてしまっているのである。国家というものが公益のために運営されておらず、一部の大企業のために利用されている。重要なことは、こういう国の仕掛けにこそ今度の大事故を引き起こした根源があり、今後さらに重大事故を連続させる根源を温存させ、国を滅亡に導くという問題である。
地震列島に原発を54基もつくる。地震や津波が来るといわれても聞く耳はなく、絶対安全だといいはって、事故が起きたら右往左往する。いわんや住民の避難や賠償、復興などの用意もない。そして事故が起きた責任は国民にとらせて、事故を引き起こした者は無罪放免というのでは、物騒きわまりない世の中である。しかも明らかに日本は地震の活動期にある。火山噴火も活発化している。アメリカは日本を中国、朝鮮などとの核戦争の盾に仕立てており、54基は標的となる。これも想定外というのであろうか。
「すべては競争だ、効率だ、もうけだ」といって、働く者も社会もどうなるか知ったことではないという金もうけ原理、資本原理が大事故の根源になっている。細菌混じりの生肉を食わせるのが今風の「立派な経営者」といわれ、「狂牛病肉を食え」とアメリカは圧力をかける。労働者は生きていけないような奴隷労働をさせ、農漁業や製造業がやれなくなって日本がつぶれてもお構いなし。そういう日本にしてきたのが自民党小泉であり、民主党菅であった。
福島原発事故は東京電力に責任があることはだれが見ても明らかである。電力供給を保障する最低限の力を残して全資産を処分して補償に回すのが当然である。電力会社が核燃料再処理のためにため込んでいるという元元電気料金である3兆円は率先して補償に回さなければならない。また東電の株や社債、貸し付けで利益を上げてきた銀行や保険会社などの金融機関が、リターンだけとってリスクは国民転嫁では筋が通らない。大企業も「原発は低コスト」といってはやし立て、電気料金は格安の低料金で利益を享受して200兆円を超える内部留保をためこみ、事故で高コストになったら国民負担に転嫁というのを恥とも思わない。
原発を推進してきた東電の歴代経営者はため込んだ資産を提出して当然である。また原発利権に結びついて推進してきた中曽根、与謝野をはじめとする歴代の自民党政治家、昨年急にオバマの「原発ルネサンス」に飛びついた民主党菅、そして原子力官僚、学者や読売を先頭とするメディアなども、反省の証として資産を拠出して当然である。また大量被曝による将来の大量死亡が確実であり、殺人罪としても責任がある。これら責任ある連中が、損害賠償の責任をとるとともに、ある場合は監獄に放り込まれて反省するようなことをしなければ、事故の再発防止にはならないし、社会のまともなルールはとおらない。
民主党の一つのグループは、日本政府にはアメリカ国債をふくむ600兆円の金融資産がありそれの何分の一かを使えば簡単に災害復興財源を調達できるといっている。日本が困っているからアメリカに貸した数百兆円の金を返してくれといえず、電力株や社債を抱える金融機関がゴネたら文句を言えず、電気料金や増税で国民から巻き上げる。いったい日本の政府はだれの政府なのか、国民は屠殺場に引っ張られる牛か豚と一緒かと考えざるを得ない。
放射能被災地では、退避せよと強制するが、補償の用意も、移転先での生活も、また土壌改良のめども示さない。大津波被災地でも、住居のめども漁業や農業、地場の中小企業の復興も、したがって自治体存続のめども示されない。自衛隊出身で松下政経塾出身という宮城県知事は民間資本への漁業権の開放をいいはじめた。東北で住む人人の災難をいいことに、かれらが立ち上がることを助けるのではなく、外来の強欲資本がビジネスチャンスにし、行政は自由主義市場拡大、規制緩和のチャンスにするために色めき立っている様相をあらわしている。
この間の小泉・竹中に代表される新自由主義改革が、農漁業をはじめとする地方経済を疲弊させ、医療体制や消防機能など自治体機能も弱体化させ、復興を困難にしている。これをもっと困難にさせようというのである。日本全国がこれを黙ってみているわけにはいかない。