中国電力の上関原発計画に反対する姿勢を23年貫いてきた祝島漁協が、漁業補償裁判の無効を訴えた裁判をとり下げ、独立した法人格を失い漁業権の放棄を意味する県漁協への合併、すなわち原発容認の総会議決をした。それは、島民の23年の苦労を水の泡にして原発計画を加速させるものとして島内外の大きな憤激を呼び起こしている。
それは手続きのうえでは確かに中電を有利にしたが、もう一面では長年反対陣営の内部から人々を欺まんし、決定的な瞬間に人々の根本利益を売り飛ばして中電に協力してきた「化け物」の存在が暴露され、中電の側からは欺まんのカードを使い果たしたことを意味することになった。それはいまから祝島でも全町、全県、全国で、最終決着をつける純粋で確かな力の結集を促すものとなっている。
上関原発計画は1982年に公表されたが、80年代いっぱいにはすっかり行きづまって、終わっていたものであった。それが急展開をはじめたのは、90年代になって、平井前知事が再三祝島を訪れ、さまざまな事業をやってやるなどして、漁業権書き換えに際して、四代田ノ浦地先にあった共同漁業権を祝島漁協に放棄させたからであった。
それは祝島地先の漁業権を単独にすることで漁業を有利にするもので、原発にはなんの関係もないかのような装いで、世間には知らせぬ形でこっそりやったものであった。それによって、田ノ浦地先は四代と上関漁協の単独漁業権となり、その同意で環境調査の道を開き、公開ヒアリングから埋め立てに必要な海域の補償交渉、そして現在の詳細調査となった。人々が反対の努力をしていよいよ勝利するというときにきたら、背後から売り飛ばし、振り出しにもどすという力が働いてきたのである。
そして祝島も、1300人いた島民が500人余りに激減し、同じ町内の八島では70人となり、全町では若者も暮らせなければ年寄りも暮らせないようなすっかり寂れた町になってしまった。国、県のバックアップを受けた中電の原発推進は、町長も議会も、漁協も、商工会も、区やさまざまな団体を下請にして町を乗っとって、中電植民地にしてしまい、上関町に人が住めないようにするというものであった。
こうして全町で、原発計画に協力することで町の振興を願ってきた人々のなかでも、「騙された」の思いが強まり、中電を撤退させ、町を立てなおそうという世論が大きく盛り上がるなかで、それまで支えとなってきた祝島漁協を、漁民の主権放棄、漁業権放棄に追いこんだのである。
祝島漁協では、3年連続の赤字で表に出た欠損金は2000万円といわれるが、実際には1億をこすともいわれたり、いずれにしても不明朗会計が発覚して脅されているのだともいわれている。県下の漁協と比較するなら、魚価は半値以下、油は20円高いという運営で、漁民は兵糧攻めのような攻撃を受けてきた。これは自然になったのではなく、意図的な力が働いて漁協経営が立ち行かず、漁業ができないようにして、原発容認が明らかな今回の合併に追いこんだのである。
一つはっきりしたことは、反対派の最大実権を持つとされてきた山戸組合長が、いまや反対派とはみなされなくなり破産したことである。県や中電との関係で見たら使い捨てられたことである。総会では、欠損金2000万円は、だれかはわからぬ匿名の寄付と組合長の担保で借り入れを起こすという形で、中電の協力金は受けとらないことを決めた。そして「山戸組合長を切れ」の声もあったが、いまのところは抱えることとなった。
漁協の原発容認、山戸氏破産のなかでは、一方で公然とした推進勢力が支配に乗り出すか、他方ではまっとうな反対勢力が主導権を持って登場するかのせめぎ合いとなっている。中電としては、「ポスト山戸」の局面のなかで、反対勢力の買収、切り崩しが最大眼目となっている。ここで純粋な反対運動が主導権を持つなら、中電の原発計画は最後的な断念に追いこむこととなる。
祝島の反対運動は孤立しているどころか、かつてない連帯の力を強めている。上関の全町で、祝島の反対で頑張ってきた住民が売り飛ばされることへの強い同情と怒りが起こっており、それとあわせて推進派と反対派に分かれて争わされた23年をふり返り、はじめからだまされてきたとの深い思いをこめた世論の大転換が起きている。漁協合併の本丸が漁業権の問題であり、原発にあったとの結果は、全県の漁民の漁業を守れの声と祝島の反対運動に連帯する力を強めている。また岩国基地増強ともかかわって、原水爆戦争を引き寄せる原発に反対する力は全県でも広島県でも圧倒している。さらに、市町村合併などで地方生活を無惨に切り捨てる政治も、中電支配の上関で先行実施されたこととして、地方生活を守れという連帯の力がかつてなく強いものとなっている。
上関原発問題は、表面の手続きの進展とは裏腹に、ここでがんばるなら勝利の大きな転換点を迎えていることを示している。