1941年に日米戦争が始まると、米国西海岸に居住していた日系アメリカ人約12万人は強制的に退去させられ、10カ所の強制収容所に収容された。明星学園小・中・高校の教師をしていた著者は、自身の父親が日系2世で、大戦中はこの強制収容所に入っていた。しかも父親のいたツールレイク収容所は、米国政府が求めた忠誠登録書の記入を拒否した「反米的なジャップ」を各収容所から集めて隔離したところで、著者の父はいわゆる「ノーノーボーイ」だった。そのことを父親は生前、ほとんど語ることがなかったが、死後に出てきた手記や資料、写真を手がかりに著者が調べて本書にまとめた。
著者の祖父は広島県佐伯郡五日市(現・広島市佐伯区)に生まれ、単身米国カリフォルニア州に渡航して出稼ぎ農業労働者となった。父親・正夫氏は大正2(1913)年に同州サクラメント郊外で日系2世として生まれた。
米国政府は日系1世に対して米国籍を与えなかった。したがって日系1世は不動産取得を認められず、米国人女性との結婚も認められず、白人専用食堂や店舗への出入りも禁止だった。農民なら土地を借り、商人なら店舗を借りて仕事をするしかなかった。一方、日系2世は米国籍を持った「アメリカ国民」となる(米国が出生地主義をとっているため)。正夫氏は果樹園で働きながらカリフォルニア大学政治学部まで卒業したが、就職はできなかった。
卒業の翌年12月、日本軍が真珠湾を攻撃し、日米戦争が始まった。米国政府は「日系人はみなスパイだ」と煽動し、1942年2月、大統領ルーズベルトが「西海岸地域の日系人の強制収容命令」を出した。日系人たちは指定された二つのバッグに生活必需品を詰め込んだだけで収容所に放り込まれ、何十年も苦労して作り上げた財産、店舗、農園や農機具は没収された。10カ所の強制収容所はロッキー山脈の東西にある砂漠の真ん中に作られたが、それはもし逃げ出しても行き倒れになることを見こしてのことだった。
しかし日系人たちは米軍の銃剣にもひるむことなく、連日各収容所の管理事務所に押しかけて不当な扱いに抗議したことが、本書に記されている。最大の収容所だったマンザナ収容所では、抗議行動に米兵が発砲して2人の死者が出る「マンザナ暴動」が起きている。
収容所に広がった忠誠登録の拒否
こうしたなかで1943年2月、米国政府は強制収容所にいる日系人に「忠誠登録書」の記入を迫った。問題になったのが第27問「合衆国軍隊に入り、命ぜられたいかなる戦闘地にも赴き、任務を遂行する意志があるか」と、第28問「合衆国に対し、無条件の忠誠を誓い、内外のいかなる武力からも合衆国を守り、日本国天皇あるいは他の国の政府や権力組織に対し、あらゆる形の忠誠や服従を拒否するか」であった。米国政府は日系2世の男女を米兵として徴兵し、太平洋地域での日本軍との戦闘に投入しようとしたのである。そこで「軍に志願すれば収容所から出ることができる」という餌をまいた。
ところが2世の父母たち(1世)が、わが子を戦争にとられることに強力に反対した。日本にいる友人や親類と殺しあうことにも我慢ならなかったし、国籍取得を認めないのに忠誠を誓うなど矛盾しているという思いもあった。2世のなかでも「アメリカ人である自分たちを強制的に収容しておいて、いまさらアメリカに対して忠誠を問うとは、あまりにも馬鹿にしている」「忠誠を問うなら、収容所から解放する方が先だ」という声が高まった。
集団的な忠誠登録拒否行動の呼びかけがおこなわれ、大きな運動になっていった。当局は「1万㌦以上の罰金か20年以上の禁固刑にする」と脅したが、それにもかかわらずツールレイク収容所だけで1万6000人の収容者の3割が登録を拒否した。各収容所で登録を拒否した者、「×」を書いた者は、「ノーノーボーイ」としてツールレイク収容所に隔離収容された。正夫氏の当時の日記にはこう記されている。
「ことここに至れば全住民も穏やかであるはずはなく、以来会合に会合をして、全市のほとんどのブロックが登録をしない決議をした」「WRA(転住局)はワシントン軍部からの権限であるといって、機関銃と剣突鉄砲をもって37名の者たちを逮捕して入獄させた」
ツールレイク収容所で忠誠登録を拒否した者のうち、正夫氏を含む15人は簡単な裁判にかけられ、罰金刑と禁固刑の判決を受けると、「木の箱」でできた貨物自動車に入れられて鉄道の駅まで送致され、そこからユタ州のモアブ陸軍抑留所に移送。その後、アリゾナ州のループ陸軍抑留所に収監された。このループ抑留所は、かつて先住民インディアンの子どもたちを彼らの父母から引き離して収容し、キリスト教と英語を教え込んで同化させるための施設だった。ある日系人は「われわれはインディアンと同じ目に遭ったのだ」といっている。
こうして戦争が始まると米国政府は、米国籍を持っている者を含め日系人を鉄条網で囲まれた強制収容所に放り込み、アメリカへの忠誠を誓わせて、米軍の肉弾となって命を捧げるかどうかを迫った。こんなことは当時敵国であったドイツ人やイタリア人の移民にはやっておらず、アメリカが唯一原爆を投げつけたのが日本人の頭上であったこととあわせ、その根深い人種差別を否定することはできない。だが、日系人たちは銃剣を突きつけられながらも、ひるまず激しい抵抗運動をたたかった。
こうした歴史は是非とも後世に残していかなければならないと思う。今度は対米隷属下にある日本政府の手によって、再び米軍の身代わりとして肉弾になることが日本の青年に迫られているからだ。
(㈱KADOKAWA発行、B6判・222ページ、定価1600円+税)