いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』が描いたもの

権力と闘うジャーナリズムの矜持

 

 3月30日から『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』が全国で公開となった。スティーブン・スピルバーグ監督が制作したこの映画は、1971年に米国防総省の秘密報告書を暴露したペンタゴン・ペーパーズ事件を描いた作品で、地方紙ワシントン・ポストの女社主の苦悩や、権力の嘘を暴き国民に真実を伝えようと身体を張ったジャーナリストたちの奮闘にスポットを当てたものだ。

 

 1945年以後に米国が展開したアジア戦略のなかで、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンと4人の大統領がかかわったベトナム戦争において、アメリカ政府は負け戦であることをわかっていながら泥沼の戦地に米兵(米国の若者)を送り込み続けていた。実際にはアメリカが武力によってベトナムを侵略統治することなどできず、ベトナム人民の抵抗に弱りきっていながら、国防長官マクナマラは戦況について「飛躍的に進展している」などとうそぶいていた。

 

 そんななかで、みずからもベトナム戦地に出向き、政府の大嘘に幻滅していた軍事アナリストのエルズバーグが、こっそりと「アメリカ合衆国のベトナムにおける政策決定の歴史」と題したトップシークレットの文書を持ち出し、NYタイムズがすっぱ抜いたところから映画は展開していく。アメリカ政府がなおもベトナム戦争を続けていたのは、10%が南ベトナム支援のため、20%が共産主義の抑制のため、残りの70%は敗北となればその面子が丸つぶれになることが最大の理由であり、そのためにアメリカの若者が戦地に投げ込まれ、肉弾として散っていくことへの義憤が、情報提供者・エルズバーグが機密暴露を決意した動機だった。

 

 最高機密が暴露された大統領ニクソンは激怒し、タイムズが機密保護法に違反しているとして記事の掲載差し止め命令を連邦裁判所に要求する。さらに、ペンタゴン・ペーパーズを暴露しようとするすべての者に起訴準備を進め、抑え込みに動く。それは国民に知られてはならない真実に触れられた権力の条件反射であった。ライバル紙であるタイムズが差し止め命令を受けるなか、記者たちがかけずり回ってペンタゴン・ペーパーズを入手したのが、編集主幹・ベン・ブラッドリー率いるワシントン・ポストだった。

 

 夫亡き後の経営をひき継いだ同社の女社主は、経営難から金融資本を頼りにした株式公開に乗りだそうとしているタイミングとも相まって、掲載するか否かをめぐって揺れる。マクナマラは女社主にとって友人でもあった。周囲では社もろとも吹き飛びかねないことを懸念して、顧問弁護士や取締役たちがみんなして制止した。タイムズと同じ情報提供者から文書を入手しているのなら共謀罪が適用され、投獄される恐れもあるのだといって――。

 

 報道機関として権力から睨まれることを恐れ、尻尾をまいて逃げるのか、それとも弾圧覚悟で大本営発表の裏側に隠された真実を暴露するのか。女社主が葛藤し、経営上層部が肝を冷やしてドタバタするのとは裏腹に、ブラッドリーや記者たちは臆することなく機密文書の暴露に向かって突き進んでいくのだった。それは、既に触り程度の暴露によって矢面に立たされているタイムズへの援護射撃であり、より深くえぐった暴露によって共闘することを意味した。権力が拳を振り上げ、言論を志す者に殴りかかっている局面において、ならばと自分たちも熱情を込めて突っ込んでいく。ジャーナリストとして真理真実に対して無限の忠誠を誓った者の、恐れを知らぬ追及であった。「報道の自由を守るのは報道することだ」。ブラッドリーが貫く新聞人としての矜持が胸に響く。「守る」とは「守られる」ものではなく、極限であればこそ自分たちの行動によって守るのだというジャーナリストとしての強烈な自負である。

 

 ワシントン・ポストの断固たる報道に触発されて他紙も共闘の輪に加わり、みんなして追撃戦をたたかい、ベトナム反戦運動が高揚するなかで、最後には連邦裁判所の判事が「合衆国建国の父は、憲法修正第一条をもって民主主義に必要不可欠である報道の自由を守った。報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない。報道機関に対する政府の検閲は撤廃されており、それゆえ報道機関が政府を批判する権利は永久に存続するものである」と述べ、政府の訴えを却下した場面でフィナーレとなる。

 

 映画のなかでは、まだオフセット印刷が台頭していない70年代当時、活版印刷時代に活躍した文選、植字、大組などの工程がさりげなく登場し、しかしそれらもディティール細かく再現されている。最後に編集主幹の「GO」が出たのを受けて高速輪転機がうなりを上げ始め、紙の弾丸が次々と刷り上がっていく様は圧巻だ。

 

体を張った報道が社会動かす 今日に新鮮な響き

 

 ペンタゴン・ペーパーズ事件は、その後のウォーターゲート事件につながるニクソン辞任の引き金となった。民主党と共和党の政争や、アメリカ国内の権力闘争もそこには絡みあっているとはいえ、映画が問いかけるジャーナリズムとはなにかというテーマは、嘘(フェイク)が蔓延り、権力の腐敗堕落が著しい今日に新鮮な響きを持って訴えかけてくるものがある。権力者と飯を食べ、私的関係を切り結んだ結果、馴れ合いの世界で飼い慣らされて批判力を失い、ジャーナリストとしての矜持を投げ捨てていく輩は、スシローといわず、日本社会にも吐き捨てるほどいる。そして、米軍機が墜落しても「不時着」などと報道して、恥とも思っていないのが現実だ。

 

 ジャーナリズムは社会の木鐸といわれ、権力を監視する砦として第四の権力ともいわれてきた。この信頼失墜が著しいなかで、改めてどうあるべきかを考えさせる作品といえる。ぬるま湯に浸って「守られる」報道の自由など、社会にとっては毒にも薬にもならないこと、それよりも社会のため、人間のために身体を張った報道こそが大衆世論を突き動かし、世の中をよりよい方向へと向かわせる原動力になることを痛感させる。恐れを知らぬジャーナリストの存在は、権力者にとって最大の脅威でなければならないはずだ。

 

 なお、作品のなかで機密を暴露するに至る関係者の思いの根底に流れているのは、肉弾になる米兵すなわちアメリカの若者の命に対して寄せられた愛情であった。それはベトナム戦争において米兵の戦死者は実に5万8220人にのぼり、自分たちの子弟の生命が軽んじられることへの怒りである。しかしここで同時に考えなければならないのは、ベトナム人民を含むその他の死者も100万人をこえたことである。あの戦争は、米兵だけでなく、それ以上のおびただしいアジア人民を殺害した戦争でもあった。アメリカ帝国主義の野望のために、自国民も多民族の生命をも野蛮に奪っていった戦争だったことを忘れてはならない。(吉田

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