4年間かけて浜に通い続け、ようやく乗船を許された1969年生まれの写真家が、宮城県鮎川を捕鯨基地とする沿岸捕鯨の、クジラを獲り、解体し、刺身やしぐれ煮、竜田揚げにしたり、タレ(干し肉)に加工したりして食べるまでの一部始終を、豊富なカラー写真や白黒写真と短いルポで描きあげた。
夜中の12時半から始まって翌朝9時まで続く2頭のクジラの解体作業や、解剖員たちが仕事の合間に手早く食事を済ませる場面、地元の小学生が解体作業を見学しに来た場面など、作業する音や子どもたちの歓声が聞こえてきそうな写真も多い。日頃目にすることのない緊張した労働の真剣な表情、また何気ない浜の生活の一コマから、こうした自然と切り結ぶ仕事によって日本人の食が支えられていることを伝えている。
捕鯨船・第五十一純友丸の5人の乗組員はみな、鮎川か近隣の出身。4月に鮎川を出発した純友丸は、鮎川沖から始めて和歌山県太地沖、千葉県房総沖、北海道釧路沖と、10月まで半年あまりのクジラを追う旅を続ける。
昨年6月、第五十一純友丸は時化がおさまったある日の早朝5時、ツチクジラを求めて房総沖へ出港した。ツチクジラは水深1000㍍から3000㍍に生息する鯨類で、海上に浮上して潮を吹くのは数分間と短い。しかも相当神経質で、捕鯨砲を撃って銛(もり)をはずしたら、その群は驚いて二度と浮き上がってこない。高さ8㍍のマストの4人、ブリッジの1人が双眼鏡を手に目を凝らす。クジラの群を発見。捕鯨砲の射程距離は45㍍で、接近するときはエンジンの回転数を徐徐に落としていくことでクジラに船との距離が一定であるかのように錯覚させるのだという。息づまる瞬間。捕鯨砲が轟音を響かせた後、「命中」の声が響いた。
喜びも束の間、ウインチで巻き上げられたクジラが海面から浮上すると、船はにわかに戦場となる。ジャンス(槍)で心臓を突き、鮮度を保つために長柄の腹切り包丁でクジラの腹を割く。クジラを舷側に縛り、片方の尾羽を切り落とすまでの約1時間は、一瞬の気の緩みも許されない。
クジラ引揚げから解体
やがて千葉県和田漁港の鯨体処理場にツチクジラが引き揚げられる。それは、地元の人にとって夏の訪れを告げる風物詩でもある。熟成された柔らかい鯨肉にするため、捕獲後、18時間を目安に港に係留してから解体する。10㍍、10㌧ほどのツチクジラの解体作業は大包丁、小包丁、ノンコ(手鉤)を使って15人が2時間かけておこない、さらに2時間かけて4㌔ほどの肉に成形する。「包丁は3年やっても半人前、10年やってもまだまだだちゃ」
活気のある作業現場の様子。若い解剖員も多いようだ。厚さ約20㌢の脂皮が、大包丁とウインチで「サク、サク」と大きな音をたててはがされる。見方によってはグロテスクにも映るが、こうした労働があってはじめて人間は自然界のさまざまな生き物をおいしくいただき、栄養にするのだと気づかされる。
房州捕鯨への思い綴る
巻末には、著者を船に乗せてくれた外房捕鯨株式会社の庄司義則氏が「房州捕鯨への想い」を書いている。そもそも歴史をひもとけば、捕鯨は欧米諸国を含めて石油以前の最大の油脂の供給元であり、それは産業革命の隠れた推進力にもなったこと。西日本の古式捕鯨と同じ17世紀初頭に始まった、房州の沿岸捕鯨の400年の歴史について。商業捕鯨停止のなかでも、ツチクジラは国際捕鯨取締条約の管轄外の鯨種だったため、こうした生業が世紀をこえて受け継がれていること。この仕事を健全な状態で次世代に受け継がせたいという強い願い。そして、浜の生活に対する写真家の深い愛情にうたれて、震災後5年目の鮎川の実際を撮ってもらおうと、会社を挙げて撮影をお願いしたと記している。
この文章は英訳もして収録している。世界各国の人に見てもらいたい、誇りある伝統的鯨漁である。
(平凡社発行、B5横判・96ページ、定価4500円+税)