「日本の兵隊の加害責任を問わずに、アメリカの原爆投下や都市空襲を非難することはできない」という風潮は、戦後アメリカが一貫してふりまいてきたものである。それは戦後、進歩的な装いで「平和と民主主義」を掲げる陣営、革新政党によって補強され、平和運動を内部から攪乱・破壊する役割を果たしてきたといってよい。戦後72年をへた今日、第2次世界大戦の体験に根ざした反戦平和の国民的な世論が勢いを増すなかで、1銭5厘の赤紙で戦地に駆り出された兵隊を「悪玉」と見なして排斥する風潮は国民からつまはじきにされている。それは大きく戦後史の転換を象徴する事象といえるだろう。
一人の女性の新聞投稿から
作家・中野重治は、1945年末に書いた評論「冬に入る」(全集第12巻)で、敗戦直後の復員兵への国民の眼差しとかかわって、民主主義の問題を論じていた。それは、当時『東京新聞』(11月4日付)に載った、「或る日の傷心」と見出しが付いた1人の女性の投書を引用したものである。
その投書は、お茶の水駅のホームで栄養失調でやつれた復員兵と巡り合わせたときのやりとりで感じ入ったことをせつせつと訴えるものであった。
「“おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ”と大きな声が響き渡ってきました。私は内心敗戦したとは云へ、兵隊さん達は懐かしい日本の地を踏みどんなに嬉しさうなお顔をして居られるかと待兼ねました。電車に乗られるため後方ホームより、前方ホームに白衣も眩(ま)ぶしく歩んで来られました。然し眼前に見えた兵隊さん達のお顔は率直に申せば骸骨そのままです。即製の竹の杖を皆さんがつき、その手は皮だけで覆はれて恐らくあの白衣の下の肉体も想像がつきます。
新聞で読む栄養失調症の兵隊さんの顔には白い粉がふいてゐるとのことでしたが、眼の前に見た兵隊さんの顔は誰も皆小麦粉を吹き付けた様な白さ、此の兵隊さんの姿を見て男の方も女の方達も声を上げて泣きだして終ひました。此の様に兵隊さんの肉を削った戦争責任者は之だけでも重罰の価値がありませう。この兵隊さんの姿を妻や子が親が見たらどんなでせう」
投書は続けて、女性がこれらの兵隊たちに、「ご苦労様でした、大変で御座いましたでしょうね」と泣きながら話しかけると、1人の兵隊が「いーやー」と心持ち首を動かしたが、本来気軽く出せる「いやー」の声が出せない状態であった。それにもかかわらず、声を出せぬ兵隊は「不自由に手を動かし、鞄(カバン)の中からお弁当箱を出して、蓋の上に乾パンを載せ」て、子供に差し出すのであった。
「子供は無邪気に両手を出しましたが、そのお子さんの母は『勿体なくて戴けません』と繰返し泣いて居りました。私は兵隊さんの御心情も察せられ『折角の兵隊さんのお心持故戴きませうね』と戴きました。涙で見送る眼に白衣だけが残り、二輌目に乗りましたが、車外では兵隊さんを御送りしようと一斉に心からの見送りをして居りました」
そして、投書の女性は涙ながらに問いかける。「皆さんデモクラシー運動も大いにやって下さい。婦選運動も結構でせう。然しかう云った兵隊さんが各処に居られることを忘れないで心に銘記してからやって下さい。……大口買出し部隊に一言申します。闇買出しに使用するトラックにこの兵隊さん達を柔い布団を敷いてせめて上陸地から目的地に運んであげる親切心を起こしてください」と。
中野重治は、「これを泣かずに読める日本人はあるまい。そうして、安藤氏(投稿者)の兵隊にたいする気持も“デモクラシー運動”や“婦選運動”にたいする気持も、すべての日本人に率直に呑みこめるだろうと、私は思う。また、“デモクラシー運動”や“婦選運動”やがこういう兵隊の存在と安藤氏の心持ちなどとから多少とも離れたもののように安藤氏に映じていることをもすべての人が素直に受けとるだろうと思う」と、当時の大多数の国民的な心情を代弁している。
中野は同時に、このことが、「軍閥・軍国主義への批判における、自由と民主主義との理解・把握における、国民の側の弱さ、足りなさ、不十分ということに動かし難く結びついている」と指摘し、注意を喚起していた。またその弱さは、「自由と民主主義」が「独立の民主主義革命」を通してではなく、「帝国日本の連合国にたいする完全な敗北」によって、「いわば外から与えられたという国の歴史的実情に結びついている」と書いていた。
中野はこの評論のなかで、当時、アメリカ占領下の政府・マスコミが、国民の徹底した軍国主義批判をかわすために、そうした「国民の側の弱さ」に寄り添うように、「復員する将兵への補償」をふりまく一方で、軍国主義への批判が「罪なき軍人に及ぶことを憂える」などと、「盗っ人猛々しい狡猾」なキャンペーンを張ったこととも関連していた。
中野重治は、政府が軍国主義に対する国民の怒り、批判、問責に、「個々の軍人への誤った報復」を等置して、そのことで「国民に泣きおとしをかけつつ……、国民の眼を曇らせようとした」ことを怒りを込めて暴露している。さらに、「軍国主義への国民の批判と、“命のまにまに身命を抛って”戦った兵士にたいする国民の同情とは別ものではない。……それを切り離そうとしてもそれは駄目である」とクギを刺し、次のよう訴えた。
「“身命を抛って”戦った兵隊はそのことにおいて、……病気になり不具になった兵隊はそのことにおいて、そのすべての遺家族を連れつつ、その他の国民とともに、軍閥・軍国主義の国民的問責陣の主軸の一つをなしている」「軍国主義にたいする国民的追及の根拠の一つは大臣が泣きおとしの材料に使った“純真な将兵”そのもののなかにある。連合軍の手に俘虜となってその俘虜であることに日夜不安を感じている無数の同胞のその魂の苦痛のなかにある」と。
今に響く戦後民主主義批判
中野重治はこの評論で、「兵隊のおかれた位置は、国民一般のおかれた位置の象徴であった」とも書いている。だが当時、中野のような論陣は「民主勢力」のなかでも抑圧される状況にあった。そこでは、共産党の指導部が、「日本軍国主義の無謀な戦争を早く終わらせた」とアメリカの原爆投下に感謝し、アメリカ民主主義を賛美し、戦争でもっとも苦難を強いられた兵隊を冷ややかな眼で敵視する風潮を煽ったことが大きかった。
アメリカに媚びを売り隷属する政府・自民党、戦後の右翼勢力が、元兵隊や戦没遺族のことに心を寄せるような装いをし、その戦争責任から免れて新たな戦争に乗り出すという策動は、元兵隊や遺族を平和運動から排斥するエセ民主勢力の犯罪的な役割、支えのもとで一時期、功を奏したといえる。だが、そのような図式はもはや完全に過去の遺物と化している。(一)